目次
ブックマーク
応援する
6
コメント
シェア
通報

第1話 子犬との出会い


 鮮やかな緑色の葉の上に赤い点がひとつ。


 テオがポツンと落ちている赤い血に気付いたのは、ほんの偶然だった。

 手の中のザルには山盛りのブルーベリー。

 昨日の夜、世話になっている酒場の店主マルゴにブルーベリーを摘んでくるように頼まれたのだ。


「朝になったら、山小屋の裏にあるブルーベリー畑から実をとってきてくれ。そろそろ熟す頃だ。ジャムにしてパンに塗って食うとうめぇぞ」


 いかつい顔、ぶっとい腕でジャムづくりするマルゴを想像し、思わずクスッと笑みが零れた。



 テオがマルゴの酒場に転がり込んで二年程になる。

 山小屋には今までも何度か薪を取りに来たことがある。その時はブルーベリーの木があるとは聞いていなかったが、小屋の裏を覗けば確かに五十本近くの低木に小さなブルーベリーの果実がたわわに実っていた。

 鳥たちがついばむのを防ぐため、細い糸で編んだ、目の細かな網で覆われている。テオは柔らかな網をそっと潜り、中へ入った。

 濃い紫色の実が、朝露に濡れキラキラと輝いている。

 ふっくら膨らみ張りのある実を一粒もいで口に放り込む。ぷちゅっと弾ける実。濃厚な甘味と酸味が口いっぱいに広がった。


「へ〜、美味しい〜」


 朝食前のテオは大きな実を選んではポイポイと口に投げ入れながら、手の中のザルを熟したブルーベリーで山盛りいっぱいにした。


 こんなことなら、ザルじゃなくてもっと大きなカゴを背負ってくればよかった。


「よっと」


 網を潜って出た途端、斜めになったザルからブルーベリーがコロコロと流れ落ちた。


「うわぁ~」


 やっちまったと顔を歪め、ザルから逃げだしたブルーベリーを一粒ずつ拾って歩く。紫色の粒を目で追っていると、そばに生えている野草に目が留まった。


「あ、ハッカ草だ」


 小屋のそばに生えてるなんてラッキーだな。摘んでっちゃおう。


 ハッカ草はハーブの一種で、オメガであるテオにとっては命綱にもなる野草だ。

 人間の中には、アルファと呼ばれる身体能力、知性、美貌、全てにおいて能力が高く、世界を動かす権力者になれる者がいる。それと対となる特別な存在がオメガだ。

 どちらも人口の割合で言えばごくわずか。だいたいの人間は彼らのような特殊な能力を持たないノーマル。ベータと呼ばれている。

 アルファがその能力を代々保持していくのに必要なのがテオのようなオメガである。

 オメガは性別関係なく、唯一アルファの能力を持つ子を確実に授かることができ、また病や傷を癒す能力を兼ね備えているため、かなり貴重な存在であると考えられていた。


 しかし、当のテオにとってはそれも厄介な能力でしかない。

  アルファを産む能力の代償に、オメガには一定の周期で発情が起こる。その発情はアルファを呼び寄せるだけではなく、関係のないベータにも影響を与え、いたずらに性的興奮を煽ってしまう。

 発情にあてられた者が自我を失い襲ってこないよう、オメガは発情を抑えるために匂い消しとなる抑制剤を飲む。ハッカ草や鎮静効果のあるハーブ、すみなどを一緒に煎じたものだ。


 ハッカ草を数枚摘み、軽く手もみして鼻を近づける。 スーッとする爽やかな香りにテオはウンウンと頷いた。


「これこれ」


 手の中のハッカ草をズボンのポケットへ入れ、さらに摘み取ろうと手を伸ばした時だった。

 緑の中の、鮮やかな赤い点に目が引き寄せられる。

 赤い水滴。


 ……これ、血だ。


 目を凝らして見れば、その向こうにもまたひとつ。赤い斑点は奥へ奥へと続いている。量はさほど多くはない。だが、点々と続く印にテオは息を殺し足を進めた。


 野生動物が怪我でもしたのだろうか?


 血はまだ乾いていなかった。さっき通ったばかりのようだ。


「……あ」


 雑草を足で掻きわけながら進むと、草に隠れるように落ちている白い物体を見つけた。


 やっぱり!


 駆け寄ってみて驚く。

 犬だ。しかもまだ子犬。腹部が小さく上下している。生きてる。


「ねぇ、大丈夫?」


 覗き込むと、子犬の左後ろ足から血が出ているのが見えた。弓か何かで削られたように真っ赤な肉が見え、とろとろ血が流れ続けている。


 ここまで歩いてきたが、力尽きて気絶してしまったらしい。それともひょっとして、見た目より重症で死にかけているのかもしれない。


 テオは他に怪我がないかを確認し、くったりした子犬を抱き上げた。


 子犬はピクリとも目を開けず苦しそうに呼吸している。放っておくこともできず、抱きかかえたまま傷口へ手のひらを向けた。

 手に意識を集め、目を瞑る。

 深呼吸をして、頭の中で体中から持てる英気をすくい上げるイメージをする。それを傷口に向けた手のひらへと流していく。

 血液が流れていくような感覚。手のひらがじんわりと熱を持ち始めるのを感じると、次は栓を開けるイメージを思い描いた。

 再び小さく深呼吸しながら、集めた力を子犬の傷口へと流し込んでいく。


 どれくらい経ったのか。全身が重くなっていく。


 クラッと体が揺れ、テオは目を開けた。手のひらから注がれる温かい光の粒子も、途切れ途切れになっている。

 流れていた子犬の血は止まっていたが、傷口はまだ塞がってはいない。しかし、子犬の腹の動きはさっきよりゆっくりになっていた。心なしか呼吸も穏やかだ。


 ……良かった。


 テオは子犬を抱いたまま、木のそばまで歩くとズルズルと腰を下ろした。

 癒しの力を使えば疲れてしまう。それに、まだ朝食も食べていない。ブルーベリーの摘み食い程度では力がでないのは当然だった。


 腕の中の子犬に目を落とす。

 ふわふわで真っ白な小さな生き物はとても可愛らしい。

 あのまま気付かなければ失血死していたかもしれない。


 テオは微笑み、子犬の鼻の頭を指先で何度も撫でた。

 しばらく休憩してゆっくり立ち上がる。


 うん、これなら歩けそうだ。


 テオはシャツの中に子犬を隠し、反対側の脇にザルを抱えて酒場へ戻った。


 酒場の二階には、テオの部屋がある。井戸のふたの上にブルーベリーのザルを置き、外階段から二階の廊下へ上がった。

 マルゴに見つからぬよう、店へ下りる内階段を気にかけつつ部屋へ入る。


 まだグッタリしたままの子犬をベッドへそっと横たえ、タンスから出した下着の裾を歯で嚙み、細く裂く。テオはそれを子犬の足にそっと巻きつけた。


 テオの癒しで血はとまり、薄い膜は張ったもののまだ赤い肉は見えたまま。

 完全に皮膚にならないとバイキンが入ったらやっかいだし、動けば痛みもするだろう。

 皮膚の代わりに包帯を何重にもグルグルと巻きつけている間も、子犬は目を閉じたままだった。


「まだ薪割りの仕事があるんだ。昼にはミルク持って来てやるから、それまでおとなしくしてろよ」


 テオは唇に人差し指を立てて話し、子犬の小さな頭をそろりと撫で立ち上がった。子犬が起きないよう、静かにドアを閉める。


 また外階段のドアから出て、井戸の上に置きっぱなしになっているブルーベリーを上から確認。音を立てないよう外階段を下り、ザルを抱えて裏口から厨房に入ると、今帰って来たかのようにマルゴへ話しかけた。


「ただいま」


 マルゴは筋肉質の体格を持つ中年男性だ。今も肘下まで腕を真っ白にして小麦粉をこねている。テオの顔を見るなり呆れた表情になった。


「おせぇと思ったらつまみ食いしてたのか。もう、十七だろ。いつまでもガキみたいなことしてんじゃねーぞ」


 首にかけていたタオルを取り、テオにバサッと投げつけてくる。テオは慣れた手つきでタオルを掴んだ。


「ほら、口の周り洗ってそのブルーベリーも洗ってこい」


 ポイポイと口に放り込んでいたはずが、しっかりつまみ食いの痕跡を残していたらしい。しまったという表情かおで、テオはタオルで口をゴシゴシと拭き、井戸へ戻った。


 強面で声も大きく口うるさいマルゴだが、腹を空かしてへたりこんでいた自分に住む場所と食べ物を与えてくれたことにテオは感謝している。


 テオがここへ来たのは十五歳になる直前のことだった。この二年、家族のように寝食を共にし、接してくれている。なので、任されている仕事も家族として当然の手伝いであり、少しくらい乱暴に怒鳴られたところでテオも気にならない。


 ブルーベリーを洗い厨房に戻ると、マルゴが話しかけてきた。


「どうだ、たくさん実ってただろ?」

「うん。採り放題」

「あそこはうちの畑だから、お前、好きだろ? 食いたかったらいくらでも食えばいい。どうせ食べきれないほどできる。明日も頼むぞ」

「明日はカゴ背負ってくよ」

「わはは。カゴにいっぱいは重いぞ? 運べるか?」

「いつまでもチビじゃないんだから。ちょっとは使えるでしょ?」


 マルゴがテオに笑顔を向ける。


「来たころはほっせぇガキだったもんな。もう二年も経つか。大きくなるはずだ」

「泣かないでよ。むさ苦しいんだから」

「泣いてねーわ」


 酒場は夕方の四時から開店だが、二時になると仕込みが始まる。

 午前中の仕事として、テオは朝食後に薪割りをしなければならない。 昨日の残りものを朝食として平らげたテオは、いつもの仕事を終わらせた。

 マルゴも店で出すパンの仕込みを終え、自室へ戻っている。いつものようにもうひと眠りするのだろう。


 テオは厨房に誰もいないことを確かめ、ボウルにこっそりミルクを入れ、自室へ戻った。

 ドアを開けた途端、ベッドの上の白いモフモフが顔を上げた。くりっとした黒目がこちらを見ている。ミルクとポケットに入れたパンの匂いに気付いたのか舌を出し、鼻をクンクンと鳴らした。


「いい子にしてたか? ご飯持ってきたよ」


 ベッドの下へボウルを置き、子犬をそばに降ろしてやると、子犬は動かない足を掻く仕草を見せながらボウルに顔を突っ込んだ。よっぽど腹が減っていたらしい。

 ミルクを半分飲み終えたあたりで持ってきたパンを小さくちぎってミルクの中に入れてやる。子犬はそれをペロリと平らげた。ボウルの中をいつまでも舐めている。


「そんだけ元気なら大丈夫だな」


 子犬の頭を撫で、パンの残りも空になったボウルに入れた。子犬は小さく「わふっ」と吠え、またボウルに顔を突っ込んだ。

 眺めていると、満腹になったのか、その場で体を丸め目を閉じようとしている。 テオは子犬を抱き上げると再びベッドへ乗せ、自分も一緒に寝転がった。

 子犬をしばらく見つめ、そっと頭を撫でる。


「おまえ、どっから来たの?」


 子犬はもうすでに目を閉じている。テオも子犬に何も期待していない。眠っているのをわかったうえで、それでも独り言のように静かに話しかける。


「……どこに行こうとしてた?」


 もちろん子犬の反応はない。


「傷が治るまでここにいていいよ。ちゃんと、治してやるから」


 子犬の寝顔から、壁に掛けた地図へと目を向ける。

 落書きのような地図は行商人の客からもらったものだ。

 テオは子犬の前足を指先で撫でながらボーッとその地図を眺め続けた。






この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?