子犬を保護して二日目。
朝の仕事を終え部屋に戻ると、子犬がパッと顔を上げた。耳がピンと立ち、舌を出して鼻をクンクン鳴らしている。まだベッドに座ったままだが、昨日よりも表情に元気があった。
テオは昨夜も寝る前に傷の治療をした。酒場の仕事を深夜十二時に終え、疲れていたテオは治療をしながらいつの間にか眠ってしまっていた。
「ほら、今日は干し肉があるんだ」
テオがミルクと干し肉を小さくちぎって与えると、子犬は夢中でそれを食べた。足の傷は新しい皮膚ができ薄いピンク色になっている。この調子ならあと数日で走れるまで完治するだろう。そろそろリハビリを兼ね、散歩に出かけるのもいいかもしれない。
テオは頬を緩め、ガツガツと食べている子犬の頭を優しく撫でた。
「僕もいずれ、旅に出ようって思ってるんだ。傷が完全に治ったらさ、お前も僕と一緒に行く?」
子犬は顔を上げペロリと口を舐めると「わふっ」と嬉しそうに小さく鳴いた。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
今日も店は賑わいでいた。
酒場があるメールの村はこじんまりとした村だが、東にネオルダという大きな街があり、西にオルレアンという大都市がある。
二都市に挟まれたメールの村は旅の中継地点になっており、両都市へ定期的な馬車も出ている。小さな村では酒場と宿屋が一緒になっていたりもするが、メールには独立した宿屋も数軒あった。酒場には村の常連客ばかりではなく、宿の泊まり客も立ち寄ってくれる。
テオは元気に店の中を動き回っていた。
「最近、機嫌がいいねぇ。もしかして女でもできたか?」
常連客のズークが酒を運ぶテオへ話しかける。
テオは調子を合わせて答えた。
「まぁね、それはもうとびきり可愛いやつ」
「はぁ? テ、テオに女? 男の間違いだろ。こ、こんなひょろっこい嬢ちゃんなのに。どっちがかわいいんだか」
同じく常連客のジョイロが会話を混ぜ返し、ガハハと豪快に笑う。
「ひっどいなぁ。俺だってもう立派な大人だよ? はい、エールと串肉ね」
「テオは店の看板だからな」
ズークがジョッキを掲げて言うと、厨房からマルコが「ちげぇねえ!」と返す。忙しいくせに、ちょっと離れた席の会話にニコニコ顔で入ってくる。
ワイワイ話していると、常連客のふたりがそれぞれ数枚のコインをテーブルへ出した。
「ほらよ。チップだ。受け取りな」
「いつもどうも!」
愛想よくチップを受け取り、カウンターへ戻る。
この店に置いてもらい二年。初めこそ酒場の隅で小さく膝を抱え、ジッとしていたテオだったが、気のいい常連客とマルゴに見守られながら少しずつ仕事を覚えた。
一日も休まず店を手伝っていたテオはすぐに客たちから顔を覚えられ、可愛がられるようになっていった。
今では客の冷やかしや冗談に、笑顔で返し盛り上げることもできる。場が盛り上がれば、こうやってチップもちょくちょくはずんでくれる。
マルゴの家族として一緒に働いている為、客からもらうチップはわずかな額だが、テオが自分の力で稼いだ金だ。
店の扉が開く。
「いらっしゃい!」
テオが元気に挨拶すると、入ってきた客は旅人のようだ。賑わう店内を見渡し、席を探しているらしい。
「お一人ですか?」
客が頷く。カウンターもすでに客で埋まっている。テオは四人テーブルに座っている常連客のズークたちに聞いた。
「相席してもらっていい?」
テオが小首を傾げてお願いすると、ズークたちは鼻の下を伸ばし快く承諾してくれる。テオは客に「相席でもよかったらこちらにどうぞ!」と声をかけた。
席に着くなり、ジョイロが酒を注文する。
「テ、テオ、こちらの
「はーい」
「悪いね」
「ワハハ。気にすんな。あんた、どっから来たんだい?」
続いてズークが客に絡む。
「東にあるネオルダって街だ」
「はい、エールおまたせ」
テオがジョッキを旅人の前に置くと、ズークとジョイロが旅人を交え改めて乾杯を交わす。
「なぁ、この前、き、聞いたんだけど、ネオルダの街にド、ドラゴン族が出たって話しじゃないか」
ジョイロが言った『ドラゴン族』という単語に、テオの肩がビクッと震えた。
「あぁ、また何人か連れ去りやがった」
「そりゃ、お、おっかねぇ」
「なんでも連れ去られた中には、十三、四のガキもいたらしい。兄妹揃って持ってかれたって話だ。両親はデカイ爪で腹をえぐられて即死だったらしい」
「ひぇー、まさに獣だな」
ズークが顔をしかめた。
「獣の方がまだかわいいさ。子供だけじゃねぇ、金品根こそぎ持ってったって聞いたよ」
「こ、これでまたドラゴン族の奴らが、ぞ、増殖すると思うとゾッとするな」
聞きたくない会話であっても、ドラゴン族のこととなれば無視もできない。テオは接客をしながらも、耳をそばだてていた。
ネオルダからやってきた客が続ける。
「そういえば、この前やたら剣さばきがいい男がドラゴン退治をしているって噂を聞いたな」
「あ、あぁ、く、黒騎士だろ? 俺も噂でしかし、知らんが、そんなに強いなら全員、やっつけてほしいよなぁ」
「噂だし、あんまり期待してもな」
ズークが首を竦め、やれやれといった調子で続けた。
「しかし、その兄妹はなんでまた教会に行かせなかったんだ? たしかネオルダの向こう側にも、教会があったはずだろ?」
テオの背筋に冷たいものが走るのと同時に、ガコッと重い音がした。ハッと我に返って見下ろす。ゴロンと転がるジョッキ。
床にエールをぶちまけてしまった。
「あっ、ごめんなさい」
テオの失態にいち早くマルコが気付く。
「テオ、新しいの持っていけ」
「はいっ」
失敗を悔いながらも、意識はやっぱり旅人の会話に向いてしまう。
「なんでも家業が名の知れた医者だったらしい。詳しくは知らねえが、おおかた兄妹にも治療を手伝わせていたんだろうよ」
「じゃ、じゃぁ、あの噂は本当なのか? オメガが、ま、魔法を使うっていう」
「魔法なんてとんでもねぇ。ありゃ、聖なる癒しの力だそうだ。だからこそ、教会が神の
「癒しかぁ、いつかそいつを拝んでみてぇもんだな」
「ひひっ、ド、ドラゴン族に先を越されちまったな」
深刻だった話題も、酒場では酒の
またオメガが犠牲になった。顔も名前も知らないが、同じ体質を持つ者同士。明日は我が身となってもおかしくはない。
テオはポケットの上からチップでもらったコインをギュッと握った。
ネオルダがやられた。オメガだった兄妹が
次はここへ来るかも。小さな田舎町だけれど……。
いずれと考えていたあの計画を実行に移すべきなのかもしれない。
「テオ、どうした?」
青ざめたテオに気付いたマルゴが言った。
「もう店はいいから、上がっていいぞ」
「……うん」
夕食用にマルゴが用意してくれたパンとスープ、ソーセージ。コップに入った果実酒をのせたトレイを持ち、重い足取りで二階へと上がる。
ドアを開ければ案の定、子犬が顔を上げて待ってましたとばかりにハッハと舌を出し、尻尾をプリプリ振っている。まだ後ろ脚は動かせないようだが、前足をピンと立たせ嬉しそうに口角を上げてテオを見つめている。
そんな子犬に、張り詰めた感情が少し和らいだ。
テオは子犬に微笑み返し、トレイをちょっと持ち上げてみせた。
「おまたせ。今日はもう上がっていいって。ご飯持ってきたよ」
ベッドの上にトレイを乗せ、テオも子犬の横へ座った。
「今日はソーセージだよ」
「わふっ」
鼻をクンクン鳴らし、目をキラキラさせる。
テオは取り分けるでもなく、ソーセージを一本丸ごと子犬に与えた。子犬が夢中でソーセージに噛り付く。それを見守り、次には二つあるパンのうち一つと果実酒の入ったコップを取り、残りをトレイごと子犬の前に置いた。
パンを齧り、果実酒で流し込む。
いつもはマルゴと食事をとり、子犬には残り物を与えるだけだった。こうやって一緒に食事をするのは初めてだ。新鮮で楽しい。
こうしていると、嫌なことも忘れられる気がした。
あっという間にパンを平らげた子犬に、まだ手の中にあった残りのパンをスープの中にちぎって浸し「あげる」と差し出す。
子犬は小首を傾げテオを見上げた。大きな黒目は、テオの心をジッと覗き込んでいるように見えた。
「いいよ。いっぱい食べて元気にならなきゃ」
そう言って残りの果実酒を喉に流し込み、子犬の頭を撫でる。子犬は遠慮がちにスープに浸したパンを平らげ「クウンクウン」と鼻を鳴らし、前足でテオの足を掻いた。まるで抱っこをせがんでいるかのようだ。
愛おしさにテオが微笑む。抱えあげてやると、子犬はバタバタと尻尾を振りテオの鼻先をペロンと舐めた。
「うは、おまえ豆スープの匂いがするよ」
キャハキャハと笑うテオに子犬はクンクンと鼻を寄せ、今度は笑う口元を舐めようとする。
「うあっ」
ビックリしたが、相手は子犬。好きにさせてやろうと目を瞑る。
子犬は遠慮なく、テオの顔中を舐め回した。
もしかして元気がないのを察知して、慰めようとしているのかもしれない。犬は昔から人間の友達って言うもの。
友達……かぁ。
テオは温かな気持ちに包まれ、子犬を抱きしめたままベッドへ背中を預けた。