部屋にドラゴン族の男が突然現れ、大騒ぎになった翌朝。
鳥のさえずりで目を覚ましたテオは、無意識に子犬の姿を探している自分に気が付いた。
「はぁ……」
ため息が零れる。
そうだ。もういないんだ。
できることなら、夢であってほしかった。
また、無邪気に顔を舐めてもらいたかった。
重い体を起こしベッドから足を下ろす。
ふと顔を上げたテオは、ぼんやりと窓を眺めた。
この窓から出て行ってしまったのか……。
テオは窓の外、真っ青な空にゆっくり流れる雲を見つめ、またひとつため息を落とした。
あの子犬の正体がドラゴン族だったなんていまだに信じられない。でも、確かにドラゴン族はいかようにも姿を変えることができる。テオはそう、教会で教わっていたのだ。
普段は人間と同じ姿をしているが、危険が迫った時には火を噴くドラゴンに姿を変えることもでき、姿を隠したい時には、小動物にもなれると。
テオが助けたドラゴン族の印を持った男も、怪我を負って子犬に姿を変えたから逃げおおせたのだろう。
この三日間、ずっとテオはドラゴン族に
利用されていただけ。
「結局、みんなそうなんだ……」
暗い木枠に囲まれたのどかな空。
悲し気に見つめていたテオの表情が歪む。
テオは幼少期に教会に保護され、同じ境遇のオメガたちと兄弟のように暮らしていた。食事、行儀作法、薬草の知識。文章の読み書き。清潔な衣類。全て与えられ、何不自由なく、恵まれた環境で生きてきた。
しかし、そんなテオを待ち受けていたのは神父の裏切りであり、家族だと信じていた教会からの裏切りだった。
約束されていたはずの未来への絶望と恐怖。
ショックと怒り、そして悲しみと寂しさ。耐えようのない感情が台風のようにテオの体内で暴れまわり、その辛さに苛まれた。
もう二度と、誰のことも信用しない。
テオは十五歳になる直前にそれを心に深く刻み、教会から逃げ出したのだ。
そんなテオを受け入れ、酒場に置いてくれたのがマルゴだった。
マルゴは気の良い人間だったが、自分の問題を伝える気は毛頭なかった。
オメガと知られればどうなるかわからないという恐怖があり、悟られぬよう細心の注意をはらってきた。このまま酒場に定住するつもりもない。かといって、この先のあてもない。
とりあえず今は酒場の手伝いをしてチップを稼ぎ、一人で生きて行ける術を身に着けるしかないと考えていた。
オメガとして生を受けた以上、自分の身は自分で守らないといけない。
この二年間。そう言い聞かせていたはずなのに、子犬だと思い込みすっかり気持ちを許してしまっていた。
つくづく自分が甘ちゃんだと思い知らされる。
「ほんと、バカだ」
そう思いながら、未だこうして子犬の姿を求めている。テオはぐっと唇を結び、窓から顔を背けた。
コンコンと普段聞きなれないノック音に体が跳ねる。
「テオ、起きてるか? 調子はどうだ?」
繊細なノックとは不釣り合いのマルゴの太い声。
どれだけショックを受けようと、寂しさに心を震わせていたとしても、
心配しているマルゴへ顔を見せることはできない。
「起きてる。でも、体調が……まだ」
「そうか、おまえは風邪をこじらせやすいからゆっくり休め」
「うん」
「朝飯はココへ置いておく。ちゃんと食え」
「わかった」
階段を降りていく足音が聞こえなくなるのを待ち、ベッドからそろりと降りた。ドアを静かに開ければ、トレイにフルーツと柔らかい白パン。トロトロに煮込んだパンプキンスープが乗っている。
テオが部屋に籠った時に出てくる、食べやすいよう配慮された食事。
マルゴの思いやりが胸を締め付ける。
ドラゴン族や神父たちの裏切りとは全然違うけど、僕だってマルゴのことを利用してる。
自分のことを秘密にして、生きるために
……ダメだよ、こんなことで罪悪感なんて感じてちゃいけない。もっとしたたかにならなきゃダメなんだ。
テオは震える唇を噛み締め、トレイを部屋の机に運んだ。
深い息を静かに吐く。
食事に背を向けベッドに上がり、隠れるように頭からシーツをかぶる。その中でゴソゴソと体の火照りを散らす行為にふけった。
したくてしているわけではない。出したところで嫌悪感に襲われるだけ。わかっていてもどうしようもなかった。
自慰の間、テオは苦虫を噛み潰したような表情だった。
「……っ!」
この行為は呪われた体の応急処置だと自分へ言い聞かせる。しかし、こんなものではスッキリさせることもできないまま、手の中に出した少量のぬめりを水桶で洗い流し、気の進まない朝食をとることにした。「いただきます」と手を合わせ、マルゴの優しさを噛み締めながら食物を腹に収めた。
食事を終え、引き出しを開けると中にはすり鉢がはいっている。これは教会から逃げ出す際に持ってきたもので、オメガには必需品だ。
摘んで乾燥させておいたハーブなどと炭のかけらを削り、体の症状を抑える抑制剤を作る。
抑制剤なしでは淡泊な体質と言えど日常を過ごせない。ハーブの種類や調合方法、それぞれの効能は教会でしっかりと叩きこまれている。
完成した抑制剤を水で溶き、一気に飲み干した。安心感と共に、ベッドへ潜り目を閉じる。
裏切られたと思いながらも、まぶたの裏に映るのはやはり、子犬の姿だった。
テオは頭を左右に振り、自分を戒める。
姿を変えていたが、子犬の正体はドラゴン族のアルファだ。
暗闇からヌッと伸びてくる手。
あれはきっと、僕を連れて行こうとしていた─────
ギュッと目を瞑ると、テオの瞼がヒクヒク動いた。
発情期がきていなかったにせよ、今までよく無事でいられたなと思う。
子犬の時には一緒にくっついて寝ていたが、何も危険はなかった。一緒にいて心地よかった。あの子犬にテオと同じ癒しの力などないが、癒されていたような気がしていた。
考えれば考えるほど、何かの間違いなんじゃないのかと思えてくる。
保護した子犬に、教会で教わった残虐非道さなど微塵も感じなかった。あの時見た、男の表情もそうだ。
……本当にさらおうとしてた?
伸びてきた手の先を思い出す。
テオへ向けられていたそれは掴もうというよりも差し伸べられているようでもあった。
ゆっくり手を伸ばしてきた彼は柔らかく微笑んでいた。
一瞬、学んできたドラゴン族の話も教会の嘘なんじゃないか? そんな考えも過ったが、街では実際に悲惨な事件が起きている。
テオの表情がまた険しくなった。
眉間に皺をよせ「ふー」とため息をつく。
どれくらい考え込んでいたのか。どれだけ考えても、堂々巡りで答えが見えない。
抑制剤が効き始め、考え込んでいるうちに、体内の火照りは気にならなくなっていった。
「……どこに行っちゃったんだろう」
テオは寂しげに呟くと、ゆっくり眠りに落ちていった。