イルディオは嫌悪感を滲ませた表情で倒れている男達を
「怖い目に合わせてすまなかった」
「……あ、うん」
テオは声を出したがそれは小さく、差し出された金貨にも触れなかった。
イルディオがおずおずと手を伸ばす。薄い膜にでも触れるかのようにテオの手にそっと触れた途端、テオの体にピリッと刺激が走った。体の芯にポッと熱が灯る。
テオは慌てて俯き、隠すように股間を押さえた。
な、なに!? なんでこんなふうになっちゃうの? イルディオがアルファだから!?
みるみる顔が真っ赤になっていく。眉をたらし、混乱と恥ずかしさで目を泳がせながら、パチパチまばたきを繰り返す。
動揺しているテオにイルディオもサッと手を引っ込めた。
「……ああ、すまない。こちらに入れておく」
イルディオはテオがハーブを入れていた腰袋へ金貨を落とした。金髪がはらりとイルディオの頬に落ちる。
金貨と同じくらいその髪は輝いていて美しく、思わず魅入ってしまう。
テオの心臓は静かにトクトクと音を立てていた。
イルディオもじっとテオを見つめる。
その目には懐かしいような慈しみが浮かんでいた。
不思議だった。
周りのすべてが遮断され、無の空間にたった二人だけがいるような、時間の流れも止まっているような、それでいて心地よく落ち着く感覚。
それを先に破ったのはイルディオだった。
「先日は、礼を言う間もなかった。傷を手当してくれてありがとう」
やっぱり……あの時の子犬はこの人だった。
そう思った瞬間、テオは強い衝動に駆られた。
手を伸ばし抱き着きたいと思うのは、イルディオがいなくなったあの子犬だからなのか? それとも、アルファに惹かれてしまうオメガの本能のせい? 危ないところを助けてもらったことへの感謝?
自分の衝動の原因が何なのかわからない。ちゃんとつきとめたいと思うのに、思考は混乱して答えなど出るわけもない。
テオは声も出せず、ただ、眼前の美しい男に目を奪われていた。それと呼応するようにテオから濃厚な香りが立ち込める。
イルディオは強張った表情で懐から赤い実を取り出し、ポイと自分の口へ入れた。
「……少し、辛いかもしれないが、堪えてくれ」
苦しそうに告げたイルディオは突然テオを横抱きにして、そのまま立ち上がった。
「ヒグッ!」
逞しい両腕と胸板に包まれ、テオの心臓がドキンと大きく脈打つ。岩のように固まる体。カッカと発する熱とぼやけていく頭。
テオの匂いがさらに濃厚になる。布越しなのに、触れ合っている部分がジンジンと焦げ付くように熱い。
「……テオ……と、呼んでいいか?」
テオは体の異変に翻弄されながら、瞼をギュッと瞑りコクコクと頷いた。
ドラゴン族は人間より体温が高いのだろうか? それともイルディオがアルファだから、熱く感じてしまうの?
考えている間にもイルディオの体温は高まっていく。その熱はテオを浸食していくようで冷静な判断ができない。
重なっているところが熱い……。それに、なんだか、呼吸が……。
ふぅふぅと息を吐きながらそっと目を開くと、少しグレーがかった青い瞳がテオを見つめていた。
……綺麗な目……。
テオは宝石を見たことがなかったが、きっとこんな感じなのかなと思った。
月に照らされた深い夜の色。静かな光の囁きが聞こえてくるみたい……。
イルディオが何かを言いかけた時、後方で「うう」と呻く声がした。驚いて振り返ると、さっきの男たちがかすかに動いている。どうやら死んだわけではなく、気絶していただけのようだ。
イルディオの耳にも呻き声が届いたのだろう。チラッと後方に目を向け、イルディオはタンと地面を蹴った。
次の瞬間、黒い翼を大きく広げたイルディオは高く高く舞い上がった。
「……わぁっ」
気がつくとテオは青空の中にいた。
ぶわっと、風が吹きあがりテオの服や髪が煽られる。
バサッバサッと黒い両翼が風を切る。青に映える黒。美しい翼だと思った。
「暴れるなよ」
えっ……。
イルディオの声が直接脳に響いてくる。
今のはなんだ? と見上げるとイルディオの目が優しく微笑んでいるように細そめられていて、またテオの体温がブワッと上がった。
ち、近いよっ!
テオは今さらながらに顔を伏せて頷き、イルディオの服をギュッと握った。もうイルディオの顔を見ることができなくて、首を伸ばして足元を見下ろす。
地面は遥か下にある。森の木も、ものすごく小さい。
浮遊しているのに、しっかり包み込まれた安定感に恐怖は全く感じなかった。
ただイルディオの熱に包まれ、意識がボーッとしてしまう。
熱い……けど……嫌じゃない……。
胸を締め付ける苦しみをわずかに感じながら、ぼんやりと考えていたけれど、いつの間にかどんどん脳内にモヤがかかって、何もかもが曖昧になっていく。
空を飛んでいる感覚は短くも長くも感じた。
逞しい腕に包まれたまま地面に下ろされ、恐る恐る目を開く。見慣れたメールの村がすぐ前方に見える。
テオは村のそばにある小高い丘の大きな木の影に立っていた。辺りを見回してもすでにイルディオの姿は無かった。
もう彼はいないのに、まだ守られている逞しい腕の感触が消えない。膝は震え、体内に生まれた熱はまだ保ったまま。
イルディオ……。
両腕を抱きながらその名を心の中でつぶやくと、耳元でイルディオの声がした。
「赤い実を食べれば、今の火照りは消える」
「あっ」
慌てて辺りを再び見回すも、やはり彼の姿はない。
……赤い実?
何のことかわからず、とりあえず体を探る。そしてハッと思い立ちハーブを入れた腰袋を覗いた。緑の葉の上に金貨一枚と見たことのない丸い実がひとつ入っていた。
……あ、これ、イルディオが食べていたのと同じ。
実をつまみ上げ、失くさないようにもう片方の手も添える。また声が聞こえてこないかと辺りをキョロキョロ見回す。でも、どこを見ても声は聞こえてこない。
初めて見る実ではあったが、怪しんでいる余裕も正直なかった。耐えていた疼きも限界。もじもじと下半身がもたついている。
テオは赤い実をジーッと見つめ意を決し、「えいっ」と口に押し込みカリッと噛んだ。
酸っぱさに唇がキュッとすぼまる。
実は酸っぱかったが清々しく、あとからまろやかな甘味が口内に広がった。唾液がジュワッと溢れ出てくる。
「……美味しいかも」
テオはその場に座り込み大木に背を預けた。木陰から青い空を見上げながら、カリカリと赤い実を噛む。
どんどん熱が冷めていくのを感じ、同時に頭も回り始める。
大変なことが起こったのに、ビックリすることのオンパレードだったのに、青い空はまるで何事もなかったかのように白い雲がゆっくりと流れている。
体に起こった症状も体験した恐怖も、安心感も、ドキドキも。
……あれはいったい何だったんだろう。
いつの間にか、口内の赤い実はなくなっていた。それに体の火照りも完全に引き、気分もスッキリしている。同時に、肌に残っていた包まれていた感触もどこかへいってしまった。
「消えちゃった」
テオは物憂げに呟くと、ハーブの袋を開いた。
ピカリと光る金貨の存在に、やはり夢ではなく現実だったのだと思う。
それに……。
テオは身に着けているイルディオの上衣の襟もとを握って鼻を寄せた。爽やかでどことなく甘い夜の香り。イルディオの匂いがする。すぅーっと吸い込むと、ふんわりして気持ちが落ち着く。
でも、彼はいない。
テオは無意識に、イルディオの匂いが染みついた布を鼻に押し当て、グリグリと顔を擦りつけた。災難だったはずなのに、無事に村に戻ってこられたのに、なぜか安堵ではなくて、寂しさを感じていた。
イルディオからもらったピカピカの金貨を取り出し、指先で撫でる。
このままの姿で帰れば、きっとマルゴはビックリするだろう。ただでさえ、あんなに心配していたもの。
『よかったらこれで、新しい服を買ってくれ』
イルディオの声を頭の中で思い出しながら、テオは金貨を見つめた。
「……うん。気付かれないよう、こっそり裏口から帰って着替えればいいよね」
テオは金貨をぐっと握り締め、また袋の中にしまうと、そのまま酒場がある村の方へ下って行った。