『……テオ……と、呼んでいいか?』
思い出すのはあの日のイルディオの声。
遠慮がちでいて、焦っているようなそんなぎこちない呟きだった。
あの時は、恐怖と欲情による興奮が勝り何も考えることができなかったが、記憶はしっかりと残っている。
腕は逞しく安心感があり、引き締まっていた。見上げた
そして、向けられたあの綺麗な瞳。
「はぁ~……」
「おやじ、テオのやついったい、ど、どうしちまったんだい? ここんとこずっとあの調子じゃねーか」
「いや、俺もよくわかんねぇんだ。聞いてもどうせ話しちゃくれねぇしな」
ズークがやれやれと首を横に振る。
「なんだよ。おやっさんまでしょぼくれちまって! しょうがねぇな。店主だろ? ビシッと聞きゃあいいんだよ! どうした? つって」
「そうは言ってもな。アイツが来て、もう二年だ。毎日同じ飯を食って、顔を突き合わせちゃいるんだがなぁ。どこから来たのか、親兄弟がいるのかいねぇのか、なにを背負っているのか、肝心なところはなんにも教えてくれねぇんだ」
マルゴと常連客の会話も離れた窓辺に寄りかかり、ボーッと外を眺めるテオには届かない。
あれから二ヵ月が経つが、テオはずっと心ここに在らずという状態だった。店に出てもいつもの愛想もなく、チップのことも忘れ、食事中もボーッとしている。
発情期もとうに過ぎ去ったのに、イルディオの逞しさも温もりも声も、いまだ鮮明にテオの心に刻まれたまま。
瞼を閉じれば、美しい精悍な顔を容易に思い出せる。
もう一度会いたいな……。
そう何度思ったことだろう。
「はぁ……」
今頃、どこでなにしているんだろう……。
テオは教会にいた頃、ドラゴン族のことをいろいろ学んだ。
住処は北の大地にそびえるゴゾア山の一番高い山の中にあり、険しい山道に大きな城を構えている。人間の足では到底城までたどりつけない場所らしい。城が建つ山中には鉱山もあり、そこでは金が採掘されるとも聞いた。
ドラゴン族に連れ去られたら最後、オメガは子供を産むための道具に
ふーっとため息を零す。
ううん、だって、イルディオは違ったんだもん。
今度は「ふん!」と息を吐き、嫌な思考を断ち切った。
目の前には夕焼け空が広がっている。
テオは首から下げた小袋を両手で握り締めながら、首を傾げて恋しそうに空を見上げた。
いくら空を見上げても、イルディオは現れない。
そんな毎日が過ぎて、また一日が始まる。
朝、外の井戸水で顔を洗っていると、なにかの気配を感じた。
イルディオ!?
ハッとして、辺りを見渡す。
朝霧が立ち込めた周辺は静まり返っていた。いつものように鳥のさえずりが響いているだけ。
息を殺し、気配を感じ取ろうとしたがなにもない。
……気のせいか……。
ガッカリした表情を袖で拭い、店へ顔を出す。
「おはよお」
「おお! テオ。今日は買い物を頼まれてくれねーか?」
「買い物?」
「ちょっと遠いんだが、西のオルレアンまで買い出しに出て欲しくってな。朝の馬車にお前も乗せてくれと頼んである。これが買い物のメモと買い物代に馬車賃。釣りはお駄賃だ。なんでもお前の欲しいものを買ってくるといい」
「あぁ、ありがとう」
「帰りも急がんでいいぞ。ゆっくりしてくるといい。店は大丈夫だから。さぁ、メシを食おう」
マルゴはそう言うと、分厚い手でテオの頭をポンポンと叩き、キッチンへ戻っていった。
スープとパンの朝食を終え、テオは部屋へ戻る。
発情期の時期ではないが、ここメールの村よりもオルレアンはずっと大きな街だ。人間も大勢いるだろう。どこでアルファと出くわすかわからない。用心して抑制剤を喉へ流し込む。
出掛ける準備を整えて店を出ると、荷馬車に人が乗り込んでいるのが見えた。テオも走り寄り荷馬車へ乗り込む。
乗客はテオの他に三人いた。荷台に座り込むとガックンガックンと揺れ始め、しだいに振動が早くなる。
馬車に乗るのはこれで二回目だ。
初めての馬車は、もっとずっと幼い頃で記憶もあまりない。
テオがオメガだとわかり、教会に引き取られた時に乗ったきり。
おぼろげに浮かぶ両親らしき二つの人影。顔は覚えていない。でも、歩けるようになるまで育ててくれた人たち。
彼らはどこにいるんだろう?
僕は故郷を知らない。帰る場所もない。
ぼんやり考えていたテオだったが、激しい振動に顔をしかめた。
馬車ってこんなに乗り心地が悪かったのか。
尾てい骨に直接響く振動をどうにか逃せないかと姿勢を変えてみるが無駄だった。
「うぅ」
今度馬車に乗るときは枕を持ってこなきゃ。
テオはそう思いながら前方を眺めた。
土色のでこぼこした一本道の両脇には木々が生い茂っている。道のりはまだまだありそうだ。
西の街オルレアンはとても大きな街だと聞いている。
馬車はどの辺まで乗せてくれるのだろう?
無事に市場に辿り着けるかと不安になってきた。わざわざ買い出しに行く程なのだから、きっと市場も大きいのだろう。
フッと視線を感じ、テオは振り向いた。しかし、他の乗客は荷馬車の揺れに酔ったのか三人ともしかめっ面で目を閉じて俯いている。
……やっぱり気のせい?
そう思ったが、見られているような、空気が薄くなったような、形容しがたい気配は消えない。
居心地の悪さを感じつつ、テオは膝を抱え、できるだけ小さくなって寝たふりをした。