かすかな物音にテオはハッと目を開け、辺りを見回した。
暗がりの中でまたザッと葉の擦れる音がした。音の方へ目を向けると、大きな影がのそりと揺れる。
野犬だ……
イルディオが化ける子犬とはまったく違う。異様な圧を放っている。ターゲットは言うまでもなくテオだった。静かに一歩一歩と近づいてくる。
まずい……逃げなきゃ……
そう思うのに、膝に力が入らない。
テオは野犬から目を離さず、木にもたれながらなんとかゆっくり立ち上がった。
どうしよう。この足で逃げきれる?
額から冷や汗がツーッと流れて睫毛が濡れる。その瞬間、左からも右からも、草の擦れるかすかな音がして血の気が引いた。
────囲まれてる、もうだめだ。
犬は群れで狩りをすると聞いた記憶がある。音では三頭しか確認できないけど、おそらく背後にもいるだろう。
テオは首に掛けていた金の指輪をギュッと握り身を竦めた。
つくづく自分の無力さを思い知る。
なにが祝福の力だ。こんな力より、自分を守れる力が欲しい。
ジリジリと近寄ってくる野犬がいよいよ牙を剝く。終わりだと思った瞬間、テオは頭を抱え叫んでいた。
「イルディーッ!」
絶望の嘆きが深い森に吸い込まれる。
次の瞬間、ズシンと地面が揺れた。
じ、地震っ!?
目の前が真っ暗になった。なにかがドシンと降り立ち、地面にめり込む。野犬はギャンと叫びながら飛び跳ね、森の中ヘ散り散りに消え去った。
「……あ……」
テオは尻もちを突いたまま腰を抜かしていた。大きなウロコのようなものが目の前にある。そのまま視線を上げていくと星空を隠すほどの黒い影がそびえ立っていた。
ドラゴン!?
イルディオの家から空を飛ぶドラゴンを目撃した時も唖然とした。でもあの時は遠かったし、イルディオに守られていた。
テオの頭は真っ白になり、呼吸も止まってしまう。
あんぐりしている間に巨大な影はフッと消え、目の前にはイルディオが生まれたままの姿で立っていた。
「探した」
イルディオの表情がホッと緩む。
「すごぃ……」
テオから零れた言葉はイルディオが現れた奇跡と、変貌の瞬間を目撃した衝撃の両方だった。頭ではわかっていても、目の当たりにするのとでは大違い。嬉しさと同時に、得体のしれない興奮が湧き上がってくる。
暗闇の中、一糸まとわぬ姿のイルディオが近寄ってきた。呆然としていたテオの頬にじんわりと血の気が戻ってくる。
「イルディ……」
名前を呼ぶ声はかすれて音にならない。
イルディオは泥だらけのテオの足元に屈むと、顎を指先でそっと持ち上げた。チリッと痛みが走る。
「こんなところまで擦りむいて」
イルディオが痛そうに目を細めた。
テオの頬がカ-ッと熱くなる。慌てて誤魔化すように視線を外した。暗がりとは言え真っ裸。なのに、目のやり場に困るほど魅力的な身体が視界を覆っている。
「あのっ、……イルディ、寒くない?」
イルディオがフッと笑った。
「こんな姿で済まない。変身から人に戻るとどうしても全裸になってしまう」
そうなんだ……。
初めて見た時も、そういえば全裸だったとぼんやり思い出す。
首を竦め「ううん」と小さく首を振るテオを、イルディオは躊躇なく横抱きにして軽々と持ち上げた。
「タッ!」
足首が揺れズキッと痛みが走り、テオが小さな悲鳴をあげた。
「どうした? 痛むのか?」
「ううん」
本当は転んだ時からずっとズキズキと痛かったが、テオは首を横に振り、イルディオにガバッと抱きついた。痛みなんてどうだってよかったのだ。相次いでテオを襲ってきた緊張が、イルディオの腕の中でやっと途切れた。
イルディオの抱く手にも力がこもる。
「大きな声で呼んでくれたから気付けた」
テオは子供のようにギュッとしがみついた。
奇跡や興奮だけではなく、テオの中で喜びや、哀しみ、淋しさ、切なさ。自分への怒り、収拾がつかないほどのありとあらゆる感情が込み上げる。
「もうっ……会えないかと思った」
イルディオはテオを離さぬよう強く抱きしめたまま地面を蹴った。一気に暗い森から抜け出せば、夜空には大きな満月が輝いていた。煌々と光る月が二人を明るく照らす。
大きく広げた漆黒の翼が影になり更に黒くなって、イルディオは夜を支配する王のように見えた。
「酒場はあそこだ」
イルディオが顎で示す場所を振り返れば、はるか遠くにポツンと灯りが見える。
「あれが……」
いったいどれだけ走ったのか。こんな遠くにまで来ていたのかとテオ自身が誰よりも驚いていた。
「テオに会いに行ったら、どこにも姿がなかった。店主も動揺して森の様子を伺っていたから、なにか問題が起こったのかと心配になり探していたんだ」
「あ……うん」
マルゴ……ちゃんとお別れ言えなかった……。
テオはポツンと灯る酒場の明かりを悲しげに見つめた。
最後に見たマルゴの表情が蘇る。
ひどく驚いてた。ショックを受けているようにも。
思えばマルゴには心配ばかりかけてきた気がする。決めていたことだけど、こんなかたちじゃなくって、お別れぐらいちゃんと言いたかったな。
小さな灯りがぼんやり揺れて滲んで
イルディオが静かに口を開いた。
「……ここは森が深い。私も目を凝らし必死で探した。こんな怪我をさせてすまなかった」
「ううん」
曇った表情で謝るイルディオの頬に触れれば、テオの指先がジンと熱を持つ。
「イルディが見つけてくれたからまだ生きてるんだよ。だからそんな顔しないで。来てくれて嬉しかった」
「……手遅れにならなくて良かった」
イルディオの美しい瞳が潤んでいるように見える。そんなイルディオにテオはなんとか微笑んでみせた。
イルディにはちゃんとお別れを言わなきゃ……。
「ありがとう。来てくれて……最後に、会えてよかった」
「サイゴ?」
イルディオが真顔のまま繰り返す。
「うん……今日、村を出たんだ。もう、あそこにはいられなくなったから。イルディには何度も助けてもらったよね。本当にありがとう」
「どうして?」
イルディオの声が低くなる。
しかしテオは黙ったまま俯いた。
目を伏せてしまったテオを抱きかかえたまま、イルディオは夜空を羽ばたく。その表情はとても辛そうだ。分かっていながらも、なにも言えないテオの胸も苦しくなる。
このまま二人で、どこかへ消えてしまえたらどんなにいいだろう。
ふとそんなことを思ってしまい、イルディオにしがみつく腕に力が入った。
身を寄せるふたりの肌を冷たい夜風が刺す。
しばらくすると、イルディオは巨大な木の枝に降り立った。しかし、テオを下ろす気配はない。抱きかかえ、引き寄せたまま、眉間に皺を寄せテオを見つめる。テオはイルディオがなにを言おうとしているのかと身構えた。
「なぜあの酒場にいられなくなったのか、教えてくれないか?」
イルディオの問いかけは静かで、テオを責める様子は微塵もない。それどころか、本気で心配しているようだ。
テオは一瞬本当のことを話してしまいたいと思った。しかし、逃げる者として、痕跡になりうることは避けるべきなのだ。
テオは再び視線を落とし、言葉を濁して告げた。
「……見つかってはいけない人が、店へ来てしまったから」
イルディオの目が微かに細まる。
「身を隠したいんだね?」
俯いたままテオはコクリと頷いた。