隠れて見守るのではなくて、姿を現してほしいとテオが願ったことで、イルディオは子犬の姿でテオの仕事終わり頃に酒場の外に姿を現すようになった。
いつも人目につかぬよう、酒場から少し離れた場所で行儀よく座って待っているのだ。
あ! いるっ!
テオはイルディオに気づくと表情がパーっと華やぐ。仕事を終え、二階の外階段から迎えに行き、躊躇なく子犬を抱き上げ自分の部屋へ招き入れた。子犬は耳をピンと立て、尻尾を激しく振る。
正体がイルディオだとわかっていても、テオは手当てした子犬と同じように接してしまう。顔をくっつけスリスリと擦りつけ、お返しに顔をぺろぺろ舐められる。それから膝に乗せ撫でながら一日あったことを話し、朝まで一緒に眠る。
テオが目覚めると子犬の姿は消えていた。
もちろん寂しく思ったが、また夜になれば会えると思えば安心できる。
子犬と触れあっていると気持ちが落ち着く。これはアルファと接近した時と真逆の反応なのだけれど、イルディオだとわかっているからこその作用なのかなと考えたりした。
本当は人の姿のイルディオと会話をしたいと何度も思ったりもしたけれど、万が一マルゴに見られてしまったら
毎日会えるそれだけでも十分幸せだとも思う。
ひとりぼっちじゃなくなったから。
テオが元気を取り戻し、マルゴはどこか寂しく感じながらも安心していた。酒場の常連客も似たような気分だった。
ある日のこと、テオが一番恐れていたことが起こった。
夕方、店の裏で薪割りをしていると、大きな馬車の音が聞こえた。
小さな村のメールには滅多にないことだ。
建物から顔を覗かせこっそり様子を伺うと、二頭引きの立派な馬車が止まっていた。
酒場の常連客はみな歩きだし、大きな街への中継地として立ち寄る旅人なら馬一頭。メールの荷馬車も馬一頭が引くだけだ。
従者が降り、馬車のドアを開けてうやうやしく頭を下げた。白い布に包まれた足が現れ、次によく見知った横顔がぬっと出た。
テオの目がギョッと見開く。
出て来たのはテオが逃げだした教会にいた、神父のトマソンだ。
テオはすぐさま顔を引っ込めた。
どっ! どうして! どうしてここに!?
一気にパニックになったテオに、神父の声が更に追い打ちをかけた。
「こんな
「君好みの店に立ち寄っても彼はいないだろう」
不満そうなトマソンに続いて聞こえた、淡々とした返事。その声をテオが忘れるはずもない。
無機質なコーネルの声に、テオの体温は急降下した。
「ふん。随分とテオにご執心だが、あんたがわざわざオルレアンまで探しに行かなくてもよかったんじゃないか? 教会には他にもいくらでもいるじゃないか」
「バカを言え。替えなどいるわけないだろう。アレは私のものだ」
テオの膝がガクガクと震えだす。
に、逃げなきゃ……。
そう思った時だった。裏口のドアが開き、店から現れたマルゴと目が合う。テオは口を開きかけたが、断ち切る思いで、クルリと踵を返し森へ駆け出した。
「ちょっ、 おい!」
わけがわからず戸惑うマルゴの声が背後から追いかけ消えていく。
テオは息をするのも忘れ、がむしゃらに走った。今にも背後にコーネルが迫ってくるのではないかと恐怖で頭は真っ白だった。ただひたすら、まっしぐらに森の奥を目指す。
「はっ、はぁっ……っはぁ!」
口の中がカラカラになって、鉄臭い嫌な味が滲み出してくる。激しく打ち付ける心臓が喉から飛び出しそうだ。
もう二度と会うことなどないと思ってたのに。
足が重い。呼吸が追いつかない。自分の荒い息遣いが木霊し、頭がクラクラする。
走れ! もっと早く! 遠くへ……。
逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ!
朦朧とする頭の中に次々に記憶の断片が映し出される。
真っ白なローブを纏い喜ぶセス。
僕の頭をなでるコーネルの手。
遠くなっていくふたつのシルエット。
馬車から見えた丘の上の教会。
『テオ、今日からここが君の家だよ』
目がかすむ。風景が滲んでぼやけて、どこを走っているかもわからない。
頭の中で兄弟たちが次々に僕の名を呼ぶ。
みんな、みんなごめん……。
『君たちは神に選ばれた子どもたちなんだよ』
嘘つき……。
『愛されし子どもたち』
黙れ!
『
うるさいっ!!
激しく音をたてる心臓。頭がズキズキと痛くてたまらない。
───泣かないで、テオ。僕は幸せになるんだから────
セス……全部全部嘘だった!!
オメガなんてっ! なんで僕たちがっ……。
幸せなんて……幸せってなんなんだよ!
嫌だ! もう誰も信じない! 番になんてなるもんか!
僕は一人で生きていく!!
走れるだけ走り、とうとう足がもつれた。ズサーッ! と派手に顔面から地面へ突っ込んでしまう。
「はぁっ! はぁっ! っつ、ゴホッゲホッ!」
胃がひっくり返ったように咽せ、えずく。テオは激しく咳き込みながら、土の上で胸を押さえのたうち回った。乾ききった口の中は血の味が充満している。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
ようやく呼吸や心臓の収縮も落ち着いてきてやっと気が付く。
周りはもう夕闇に包まれる寸前だった。
全身から尋常ではない汗が噴き出す。
視界が悪くなるのに比例して、森の空気はどんどん冷たくなっていった。
……さむい……。
すっかり冷えてしまった体。テオは身を竦め、両腕を手のひらでぎこちなく摩った。
転んだ時に捻ってしまったのか、足首がズキズキと痛みだす。
暗く、静かすぎる森の中、テオはひとりぼっちだった。
もう酒場には戻れない。マルゴにも、常連客のみんなにも、もう二度と会えないんだ。
押しつぶされる胸の痛みに瞼を閉じる。浮かぶのは、酒場の前でお行儀よくちょこんと座って待つ子犬の姿。
「イルディ……」
テオは小さな声で苦しそうに呟き、冷えていく地面の上で我が身をギュウッと抱え込んだ。
昨晩のことを思い出す。
イルディオが珍しい果物を持ってきてくれた。それは甘酸っぱくてとても美味しかった。最後の一個を「半分こね」と割ったら果汁がプシャッと噴き出し、二人の顔面にかかって笑いあった。
楽しかった時間が遥か遠くに感じられる。
テオがこの先助かる道があるとするなら、行商人を見つけどこか遠くへ連れて行ってもらうことだけだ。だが街道ならともかく、森の中では行商人と出会う確率はゼロに等しい。なにより、ズキズキ痛むこの足で、深い森の夜をやり過ごすことができるだろうか。
せめてマルゴの小屋まで辿り着きたかったが、やみくもに走ってきたせいで方角もあやふやで、どこにいるのかもわからない。
「……どうしよう」
太い木の根っこに窪みを見つけ、這いながらそこへ身を隠す。
腹も減り、体力もほとんど残っていない。それでも、痛めた足首を治す力を少しでも使えるよう目を閉じ回復に努めた。
「寒い……」
指先が冷えてきて両手を擦りつける。
どれくらい経ったのか。時間の感覚がわからない。辺りはすっかり暗闇に落ちてしまった。
時おり、どこかでフクロウが鳴くだけ。
テオはそろりと膝を抱え小さくなった。
暗闇から隠れるように顔を埋める。
静まり返った森の中、テオの耳にガサッと小さな音が届いた。