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第21話 稽古の条件

 ほわほわとしたいい香り。


 頬に触れる柔らかな布へ顔をグリグリ擦り付け、肺がいっぱいになるほど吸い込みゆっくり吐き出す。


 はあ、すごく落ち着く。とってもいい香り。ほのかに甘くて……ひんやりしてて……優しくて……。僕の大好きな匂いだ。どこだったかな……どこかで嗅いだことがある香り……。あぁ、ずっとこうしていたい……。


 まどろみから目を開けると、部屋は白くかすみがかっていた。


 ……んぅ?


 辺りを見回すと、どこか見覚えのある天蓋付きのベッドの中。かすみがかって見えたのは、薄いレースで囲まれていたからだ。その中で、テオはシーツやブランケットを体にぐるぐる巻き付けていた。


 ここって……。


 やっと意識がはっきりしてくる。


 ……そうだ、イルディに助けてもらって、おうちに連れてきてもらったんだっけ。


 ブランケットからひねった足をそっと出してみる。

 足は真っ白な包帯で包まれていた。


 イルディが巻いてくれたんだね。


 テオは改めて周りを見回した。広いベッドにイルディオの姿はない。テオはもう一度ブランケットを鼻先まで引き上げ、香りを胸いっぱいに吸い込んだ。香りは彼の気配をちゃんと感じさせてくれるけど、なんとなく物足りなく淋しい。


 ブランケットから顔を上げる。


「……イルディ?」


 テオが思わず、心もとない小さな声で名前を呼ぶと、ドアが開く音がした。

 レースの向こうに人影が見える。彼だ。

 イルディオはベッドのそばまでくると、レース越しに優しく微笑んでくれた。ホッとしたテオにも笑顔が戻る。


「おはよう。テオ。足の調子はどうだい?」


 イルディオの声を聞けば、さらに胸がじんわりあたたかくなった。


「おはよう……あ、あの、もしかして、ベッド、占領しちゃった?」


 大きなベッドの真ん中で寝具を全部体に巻き付けている自分の姿にモジモジして問いかける。


 もしかしなくても、こんなミノムシ状態の僕の隣でゆっくり眠れるわけないよね?


「ああ、ベッドは隣の部屋にもある。気にしないでくれ」


 イルディオがなんでもないように答える。

 ほんのちょっとだけ、ツキンと胸が痛くなった。


「……そうなんだ」


 頭では一緒に眠れるわけがない。仕方がないとわかっていても、もうひとつベッドがあると聞いてなぜか良かったとは思えなかった。


 なんで、ちょっとガッカリしちゃってるんだろう……。


 そう考えながら、すっかり熟睡していた自分が嫌になる。

 テオはブランケットに顔をゴシゴシ擦り付けながら、気持ちを切り替えて顔をあげた。


「ごめんね。おかげで足もさ。昨日よりいいみたい。ゆっくり休んだから。もう、あとは自分で治せるよ」


 離れた位置で立ったままのイルディオに、テオは手招きした。

 イルディオは一瞬躊躇したが、静かに近寄るとレースの片方を手繰り寄せリボンで結び、少し距離を空け隣に座った。

 静かな表情のイルディオをテオがじっと見つめる。

 額にキラリと光る汗。テオは吸い寄せられるように手を伸ばし、イルディオの金色の髪を指でそっとすくい上げてわずかに顔を寄せた。


 お日様の香りがする……。


「外にいたの?」

「ああ、剣の稽古と偵察をしてきた」

「剣の稽古?」


 あんなに強いイルディも稽古をしてるんだ。


 テオの心は掻き立てられた。

 ずっと強くなりたいと願っていた。稽古まがいに木の枝を振り回したり、力をつけようとテオなりにトレーニングもしていた。しかし戦いとは無縁の、庇護される人生を歩んできたテオが、思いつく稽古やトレーニングはたかが知れている。危険を回避できるほど強くなれるはずもない。


 ……イルディに剣を習えば強くなれるかもしれない。


 そんな希望が湧き上がる。

 昨夜は、足を治したらここから出て行くと決めていた。だが、やみくもに逃げるばかりじゃだめだと思い直す。


「あ、あのさ、足が治ったら僕に剣の稽古をつけてくれない?」

「稽古? テオが?」

「うん。僕も、強くなりたい。イルディみたいに剣を扱えるようになりたいんだ」


 イルディオは視線を下げてなにか思案するように黙っていたが、視線をテオへ戻す。


「ふむ……望みとあらば……。しかし、ひとつ条件がある」

「条件?」

「ここで暮らしてほしい」

「えっ……でも……」


 次にテオが、どうしようと視線を落とし、顔をしかめた。

 稽古をつけて欲しい。イルディオとも一緒にいたい。でも、すぐそばのメールの村まで追手は迫ってきている。なるべく早く遠くへ離れるべきなのだ。


 気持ちと思考の狭間でテオの考えはまとまらない。まとまらないまま、今の不安をイルディオへ投げかけていた。


「……イルディは逃げている僕を怪しく思わないの? 悪い人間かもしれないのに」 


 イルディオはすぐに頷いた。


「テオは私の命の恩人だ。ひとりで遠くへ行かせるわけにはいかない。もちろん寝室は別にする。私にテオを守らせてくれ。稽古はそれが条件だ」


 イルディオの言葉は力強く、誠意に溢れていた。テオにとっては願ったり叶ったりの好条件。身の安全は確保され、あてのない恐怖や不安に怯えずに済む。強くなるための稽古もつけてもらえ、なによりこれからもイルディオと一緒にいられるのだ。


「……そんなの条件って言わないよ」


 そう言ったテオは、情けなく眉を下げて微笑んでいた。


「今朝、酒場の周辺を調べたが、怪しい動きをしている者はいなかった。ここを見つけられる人間はいないだろう。しかし不安なら、オルレアンの家でもいい」


 オルレアン!? 


 テオの顔が青くなる。 


「ううん、ううん! 森は深いし、ココで大丈夫」


 イルディオが怪訝そうな表情になった。


「どうした? 顔色が悪いぞ」


 口止めしたのに、リルのやつ……。


 コーネル神父がわざわざメールまで探しに来たのは、リルが口を滑らせたからに違いなかった。だとすれば、オルレアンを中心に捜索することになるだろう。街のそばにはいない方がいい。それに、オルレアンで出会った騎士の存在もテオには恐怖だった。


 あのアルファの騎士は、出くわしただけで抑制剤の効果を消してしまった。体が暴走したあの感覚……もう二度と出会いたくない。


「……大きな街の近くの方が見つかっちゃうかもしれないし」

「そうだな。こちらの方が目に届きにくいだろう」


 ボソボソと話すテオにイルディオは納得して頷き、パッと笑顔になった。


「では、テオの部屋を作ろう」


 突然、弾むように立ち上がる。

 無邪気なイルディオを見ると、人の姿をしていても子犬に感じていたように愛らしく思えてくる。イルディオについていこうとして、足首に痛みが走った。


「った」

「テオ!」


 イルディオが焦った様子で戻ってきて、テオをあっさり抱き上げた。


「怪我が治るまでは安静にしていなくては」

「うん。でも、大丈夫だよ。今のはちょっと……怪我しているのを忘れてただけ。見てて、こんなのすぐ治しちゃうから」


 イルディオに抱え上げられたまま、テオはいつものように目を閉じた。深呼吸して手のひらに意識を集中させる。体内で流れを作り押し流そうとしたが、急にふらりと力が抜けイルディオの胸にヘロヘロと倒れ込んだ。

 睡眠は十分にとっていたが、丸一日何も食べていない。腹の中はからっぽのまま。癒しの力を発動させるほどの体力がなかったのだ。


「ほら。まだ休養が必要だ。今日はおとなしく休んでいてくれ」


 テオはくったり項垂れ、結局ベッドに運ばれることになった。


「……ごめん」


 ションボリした様子で謝るテオへ、イルディオがキリッとした表情で言った。


「謝らないでくれ。テオのために働けるのだから光栄だ」


 自分の不甲斐なさにがっくりとしてしまったが、イルディオの崩れない姿勢に救われる。

 互いに思いやれる友の存在。これほど心強いものはない。

 ホッとした途端、テオの腹がクゥ~と情けない小さな音を立てた。


「そういえば、朝食がまだだった。待っててくれ」


 イルディオはハッとした表情で立ち上がりいそいそと部屋から出て行った。



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