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第22話 思い出の絵本1

 テオが空腹を訴える腹を撫でていると、イルディオがトレーを持って戻ってきた。メニューは干し肉と玉子の入ったスープとヨーグルト、紅茶も用意してあった。


「紅茶には昨日と同じ鎮痛効果のある秘薬が煎じてある」

「ありがとう。イルディは? 食べないの?」

「一緒にいただこう」


 トレーをテオの前に置き、イルディオは同じトレーをもうひとつ持ってきて一緒に食事を楽しむ。


 食べ終わったイルディオが一冊の本をテオに見せた。


「私がよく読んでいるものだ」


 書物は誰もが持っているものではなく、貴族や大きな商売をしている者しか所持していない。貴重で高級品だが、教会にはたくさんの本があった。文字の読み書きは貴族へ輿入れするためにも教養と嗜みが必要なため、教育を受けていたからだ。


「テオの部屋に一冊本があったから読めるだろうと思って持ってきた」


 優しく微笑むイルディオ。

 しかしテオの表情はみるみる曇っていった。


 イルディオが見た本はテオが教会を飛び出した時に持ってきたもので、高価な薬草学の本ではない。ただの絵本だった。

 テオの悲しそうな様子にイルディオも慌てた表情になる。


「テオ……?」

「あ……うん。あの本置いてきちゃった」


 寂しげに呟くテオに、イルディオがそっと尋ねた。


「大事なものなんだね?」

「うん。セスがくれた本。……あ、セスっていうのは教会で一緒に育ったお兄ちゃんみたいな人。小さいころによく読んでくれた本で……形見だったんだけど」

「……そうか。辛いことを思い出させてしまった。すまない」


 俯くテオの肩にそっと温もりが触れたが、テオが顔を上げた時にはその手は離れてしまっていた。


「食事を邪魔したな。紅茶を飲んでいてくれ」

「ううん、ありがとう」


 イルディオが持ってきた本を手に立ち上がると、テオが慌てて呼び止めた。


「イルディ……あの、その本。読んでもらってもいい?」

「……ああ、わかった」


 テオのお願いがなにを意味するのかわかったイルディオはそっと微笑み、ソファに座りなおして本を開いた。


「イルディ、こっち」


 ベッドに腰をかけ、サイドテーブルで食事をしていたテオがテーブルを退ける。体をずらし、隣に来てと手招きする。


 イルディオがギョッと目を見開いた。

 戸惑ってる様子のイルディオを見つめ、テオが「早く」とさらに手招きする。イルディオはちょっと困ったような表情でテオの横へ腰を下ろした。


 今だけ、ちょっとだけ……いいよね……。


 イルディオの存在を感じながら、テオはなんでもない風を装い黙っていた。

 長く綺麗な指が本を開き、ページをそっとめくる。その美しい所作に、早くも気持ちが引き込まれていく。

 低く穏やかな声でゆっくり読み進めるイルディオ。

 その声はとても心地よく、気持ちが安らいだ。


 テオの置いてきた絵本とは違い、イルディオの本はたくさんの文字が書かれていて内容も複雑だった。しかし読み聞かせの懐かしい響きに、テオはその声をずっと聞いていたいと心から思った。

 自然と体がイルディオへ傾いていく。


 一話を読み終えたイルディオは小さく咳ばらいをして、本をパタンと閉じた。


「今日はここまでにしよう。水を汲んでくる」

「え……」


 あっけなく終わってしまい、テオが名残り惜しそうにイルディオを目で追う。イルディオがその視線に気付き苦笑した。


「木苺の実もとってこよう。イチジクは好きか?」

「イチジク?」


 初めて聞く名前に感じていた寂しさも忘れ、テオは首を傾げた。


「柔らかくてとても甘い。虫や鳥たちの大好物だが、人間も喜ぶ果物だ」

「へ~、おいしそうだね」

「美味しいよ。すぐに戻るからいい子で待っていてくれ」

「うん、いってらっしゃい」


 見送ったはいいものの、ポツンと一人になってしまい途端に心細くなった。

 森の奥深くにある隠れ家。耳を澄ましても小鳥たちのさえずりさえ聞こえない。時折、キキーッと猿が声を上げる。


 テオは何気なく部屋を見渡し、今日からここに住むのだなと考えた。

 現実味を全く感じない豪華な部屋。テオは貴族の住まいがどんなものかは知らないが、貴族の屋敷に嫁ぐことを夢見ていた教会の兄弟たちならきっとすごく羨ましがるだろうなと思った。

 王様のような暮らしと優しいパートナー。

 まさに、教会のオメガたちが誰もが信じ望む未来。


 でもテオは貴族に嫁ぐことが、幸せばかりではない現実を知っていた。それに、元よりテオは教会のみんなのように贅沢な暮らしに憧れも持ってはいなかった。教会でみんなと笑って過ごす毎日が一番幸せだったのだ。

 でも、今は違う。

 つい思い浮かべてしまうのだ。ここで暮らすイルディオとの生活を。

 テオはブンブンと首を左右に振り、幻想を追い払った。


 今、僕がここにいるのは、コーネルから身を隠すためだ。イルディに剣を教えてもらうため。強くなればここを出て行くんだから……。


 テオはキュッと口を結び、自身をギュッと抱きしめるとベッドへうつ伏した。ゴソゴソと枕を手繰り寄せ顔を埋める。目を瞑り、微かに香るイルディオの残り香をめいっぱい吸い込んだ。肩に触れた温もりや読み聞かせをしてくれた優しい声を思い出す。


「一緒に来て? ……なんて、言ったら来てくれないかなぁ……」


 思わず零れた呟きにテオは嫌気がさした。


 イルディを道連れになんてできるわけないじゃないか。


 自分勝手で我儘な考えだとテオは自分に言い聞かせ、フカフカの枕にいっそう顔を埋め擦り付けた。


 しばらくすると、漂う森の香りが濃くなってくる。ポツンと葉で弾ける水の音を聞き、テオは枕からそっと顔を上げた。


 ポツン、ポツンと音が増えていく。


 雨?


 小さなリズムはやがて徐々に早くなり、とうとう本格的に雨が降り出したようだ。


 すぐに戻るって言ってたけど、こんなに時間がかかってるってことは外にイチジクを取りに行ったってことだよね。


 さらに顔を上げ、窓の外を伺ってみた。

 遠くでサーッと雨が揺らめきながら森を濡らしていく。大きな木の中腹にある家は枝葉で守られているから、窓が開いていても雨粒は入ってこない。テオは遠くを見つめた。


 ……イルディまだかな……。


 葉を弾く雨音は静かに響き、テオの世界を包み込む。


 時の流れが止まってしまったように感じられた。




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