紅茶に入っていた薬の作用もあるのだろう。だんだん眠くなってきて、テオは枕を抱き寄せた。イルディオの香りの中でウトウトと瞼が下りてくる。
イルディもどこかで雨宿り、してるのかも……。
考えていると、遠くのほうでかすかにドアが開く音がした。
ん……? 帰ってきた?
そう思ったのに、テオの体はすっかり睡眠モードに入っている。フカフカの枕に頬を埋めたテオのまぶたはなかなか持ち上がらない。
またしばらくすると、寝室のドアが静かに開く小さな音が耳に届いた。
そばに人の気配を感じる。
ベッドの匂いと同じ甘い匂いがした。
イルディ……帰ってきてくれたんだね。
テオは微かに繋がった意識の中で安堵した。
大きな手がテオの髪をそっと撫でる。
甘い香りと、雨の匂い。
撫でられる感触が気持ちいい。
さらりと髪が掬われて、目尻に柔らかく優しい感触がした。その感触はとても小さなものなのに、心が持っていかれる。
これって、キス……?
テオの手が枕の上でわずかに動き、優しい感触をもう一度と求めた。その手を大きな手が包む。大きなその手は少し湿っていてひんやり冷たかった。雨ですっかり冷えてしまっているのだろう。
「ああ、とても温かい。冷たくてごめん」
テオはまどろみの中、力が入らない手で弱々しく、指先だけで握り返した。イルディオが手を離してしまうと思ったからだ。
おき……な、きゃ……。
テオは沈んでいく意識を必死で手繰り寄せた。重い瞼をゆっくりと持ち上げ、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声を発する。
「……かえりぃ」
ぼんやり見えるシルエット。徐々に視界が開けてくるとイルディオはずぶ濡れだった。金色の髪が肌に張り付いている。体が冷え切っているようなのに、青白い頬でイルディオは嬉しそうに微笑んだ。
「いま戻った。起こしてすまない」
「ううん、びちゃびちゃだね……風邪ひいちゃう」
「早く帰ってきたかったから」
イルディオはぽつりと零すと、濡れている服の内側へ手を入れた。イチジクかと思ったが、取り出されたのは布に包まれた四角い形のなにか。明らかに果物と形が違う。
「これを取りに行っていた。濡れてないと思うが」
「……ん?」
なんだろうとぼんやりした目で見ていると、布の中から出てきたのは本だった。
酒場に置いて来てしまった、セスの形見の絵本だ。
まだとろんと寝ぼけていた目が一気に覚める。
「イルディ……」
駆け上がってくる感動。テオはガバッと起き上がり、勢いよくイルディオに抱き着いた。
「うっ!」
「ありがとう!」
ギュウッとテオの腕に力が入る。
こんなに濡れて体を冷やしてまで、取りに行ってくれたんだ。僕のために……。
「……テオまで濡れてしまう」
言葉とはうらはらに、イルディオもギュッとテオを抱きしめ返す。
「そんなのいいよ。だってこんなに濡れてしまったのだって、僕のせいなんだから」
「せい、ではない。テオには笑っていてほしい」
テオの心がキュウキュウと音をたて鳴く。
切ないような苦しいような、嬉しいような。居ても立っても居られない衝動がテオの中を駆け巡った。
どうしてこんなに優しいの……。
テオは少し腕を緩め、ムズムズする口をクッと結びイルディを見上げた。
ゆらゆら揺れる視界の向こうにイルディオがいる。
テオは息を吸い込み、満面の笑みを見せた。
「すごく嬉しい」
「よかった」
「あ、ねぇ、体拭こう? イルディが風邪ひいちゃうよ」
イルディオが眉を下げ微笑む。
その笑顔はどことなく少し寂しそうに見えた。
「イルディ?」
「セス……お兄さんは若くして亡くなったのだね?」
「あ、うん。僕の三つ上だった」
「そうか……」
イルディオはテオを抱き寄せ、一瞬強く力を入れた。息苦しいほどだったが、そのキツさがテオにはなぜか居心地よく感じられた。守られているような感覚。一瞬じゃなく、もっとずっとギュッとしていて欲しかった。
そんな思いに蓋をして、グッと押さえ込む。
「……ありがとう。セスのこと聞いてくれて」
「大事な人を失う辛さはわかる」
「イルディも大切な人を亡くしたの?」
肩でイルディオの頷く気配がして、腕が離れた。
……あ。
「テオまで風邪を引いてしまう。着替えてくれ。私も隣で着替えてくる」
「うん」
離れてしまうイルディオに、それ以上の追及はできなかった。イルディオが望んでいないことは明白だったからだ。
用意してくれた服に着替えながら、イルディオの大切な人は誰なんだろうと、テオはそればかりを考えていた。
でもそれは決して好奇心からではない。
テオがセスの想いを大切にしまい込んでいたように、イルディオもきっと同じだと思ったからだ。けれど、一人で悲しみを抱え込むより、分け合ったほうが癒される。
それを教えてくれたのもイルディオだ。
セスのことをひとつも知らないのに、イルディオは気にかけてくれた。テオにとって大事な思い出の絵本をわざわざ取りに行ってくれた。
生前のセスを知っているかのように悼み、悲しみに寄り添ってくれたことで、テオの気持ちもセスも報われたように思えた。
だから、イルディオの大切な誰かのことをテオもいっしょになって感じたいと思ったのだ。
その日、雨は一日中降り続けた。
雨音の奏でるメロディを聞きながら、イルディオの作ってくれたクリームシチューと木苺やイチジクを食べた。初めて食べたイチジクは果肉部分が大きく、甘みもとても強かった。虫や鳥が好きなのも頷ける。
テオも大好きになった。
「この果物、本当に美味しい」
「イチジクは昔から長寿の果物だと言われている。体にとてもいいんだ」
「そうなんだね。じゃぁいっぱい食べなきゃね」
ニコニコしながらイチジクにかぶりつくテオに、イルディオが微笑む。
「テオが気に入ったのなら毎日取ってくるよ」
「ほんと? 嬉しい」
二人で「ふふふ」と笑い合う。
昨日よりリラックスした優しい空気が流れていた。
「あ、そういえばマルゴ、酒場のオヤジさんは見た?」
「……いや、一階で作業をしている物音はしていたが」
「そっか、黙って出てきちゃったからさ。でも、ちゃんと店を開けてるならちょっと安心」
イルディオは少し考え込んだ表情をした。
「……戻れるなら戻りたい?」
「ううん。大丈夫。もともとずっといるつもりはなかったし」
仮の宿。そう決めていたのに、マルゴの温かさに甘えて二年も過ごしてしまった。できればお詫びとこれまでの感謝の言葉を伝えたかったが、もうあの場所には戻れない。
コーネルの声を思い出し、テオは這い上がってくる寒気にブルッと震えた。
「ん? 寒いか?」
「うん、ちょっと。でも、大丈夫」
イルディオの鋭い気遣いにテオはこれ以上の心配させまいと苦笑いで答えた。
食事が済むと、テオはまたイルディオに本の続きを読んで欲しいとねだった。イルディオは微笑んで承諾し、ベッドに腰掛け本を開いた。
落ち着いた低音に耳をすませていると心が穏やかになっていく。
しかし、一話読み終えるとイルディオは本を閉じ、「おやすみ」と部屋を出て行ってしまった。
イルディオは親切で、とても思いやりがあって優しい人だ。しかし時々なぜか素っ気ないと感じる時がある。
素っ気ない……それって、イルディオにもっと優しくされたいって思っているってこと? こんなにもよくしてくれているのに……。
テオはベッドの中で自問自答した。
教会を飛び出した時、もう誰のことも信用なんてしない。ひとりっきりで生きていくんだと決めた。決意したのに、寂しくなってる? ……なんでだろう、イルディオといると昔の甘え癖がでてきてしまう。
テオは「ふう」と溜息を零し、イルディオが持ってきてくれた絵本を開いた。ページをめくりながら懐かしい絵に笑みを浮かべ、セスの優しい横顔を思い出していた。