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71. 謀略


 舜永が重華に興味を持ったきっかけは、当然ながら現皇帝である晧月の寵妃という噂からだった。

 とはいえ、最初にその噂を耳にした時は、相手は丞相の娘、きっとそう見せているだけにすぎないと、さして気にすることはなかった。

 気になったのは、晧月が即位してはじめて、避暑に向かったことだった。


 歴代の皇帝のほとんどは、夏を離宮で過ごしてきた。

 夏になれば非常に暑くなる皇宮と違い、離宮の夏は夏であることを忘れさせてくれるほど過ごしやすい。

 しかしながら、政務を行うには多少の不便はある。

 とはいえ政務が行えないわけではないのに、それに加え移動が面倒だと、晧月は離宮に向かおうとはしなかった。

 母代わりである皇太后が薦めているにもかかわらず、だ。


 それが今年になって、それも急遽、夏を離宮で過ごすと決まったと聞いて驚いた。

 なぜそんなことになったのか気になり、舜永はすぐにその理由を調べたところ、それは噂の寵妃に起因していた。


(相手は丞相の娘だしな……わがまま言われて断れなかったとか……?)


 夏の暑さに耐えられない、と離宮のことを知っている寵妃に駄々をこねられたのかもしれない。

 舜永は最初、そんな風に考えていた。

 しかし、離宮にも密偵を潜ませ、晧月の行動を逐一報告させているうちに、そんな考えは吹っ飛んでいった。


(離宮の外に連れ出したり、皇帝の舟にまで乗せたり……)


 それは、舜永の知る晧月ではないかのような行動ばかりだった。


(すっかりご執心じゃないか)


 となれば、是非ともその姿を見に行かなくては、そう思って舜永はわざわざ皇宮を訪れたのだ。


(丞相の娘となれば、わがまま放題かと思ったけど)


 晧月が気に入ったのであれば、それはないだろうとは思った。


(美人で、聡明で、威厳ある、とかそんな感じかな)


 浮かぶのはそう、前皇后でもある皇太后のような女性だった。

 女性ながら、知識は豊富で政治にも明るい。

 自身の母と違って嫉妬に狂うような行動もなく、常に落ち着いた堂々とした姿ばかりを見せてきた人である。

 だが、その姿を一目見た瞬間、舜永はその想像はかすりもしていなかったことに気づく。


(ああ、そういえば、身体、弱いんだっけ)


 何かと頻繁に太医が訪れている、という報告も受けてはいた。

 ただ、丞相の娘の体調まで、舜永は興味を持ってはいなかった。


(威厳の欠片もないし、丞相の娘だなんて信じられないくらい、おどおどしてるし、弱々しい奴だったな)


 押しに弱く、自身が唯一の寵妃だという自覚すらなさそうな様子だった。

 丞相の娘であり、最も高位な妃でもあり、皇帝の寵妃でもあるのに、その有用な立場をどれ一つとして有効活用していそうにないことが、舜永にはただただ不思議でならなかった。

 そして、何より驚いたのが、互いの足の引っ張り合いが当たり前に行われるような後宮に居ながら、1人の妃嬪の死に衝撃を受けるほどの脆さだった。


(そんなに弱くて、晧月に利用されてもやっていけんの?)


 敵対勢力を率いるものの娘とはいえ、さすがの舜永も心配になるほどだった。


 そんな、現皇帝の寵妃であり珠妃である重華の絵は、舜永を非常に惹きつけるものがあった。

 正直、絵画をはじめ芸術にはあまり興味を抱くことはなく、皇帝になるための教養として最低限の知識を学んだ程度である。

 今まで絵を見て欲しいと感じることさえ、舜永にはなかった。

 けれど、なぜ丞相がもっと自慢してまわらなかったのか、そう考えてしまうほどに重華の絵には惹かれたのだ。

 だが、それ以上に舜永を惹きつけたものがあった。

 それが、絵を描く重華の姿だった。


 舜永は、重華は特別美人な妃だとは思ってはいない。

 見た目は決して悪くはないと思うが、もっと美人な女性を他に見たことがある、そう思う程度であった。

 しかし、周囲の雑音など何も聞こえていないかのように、一心不乱に絵を描く姿は非常に美しいと思ったのだ。

 重華の絵よりも、今目の前で絵を描く重華そのものが欲しい、気づけば舜永の心の内はそんな思いで埋め尽くされていた。


「ねぇ、俺の妃にならない?」


 相手が晧月の、現皇帝の妃であることを忘れたわけではなかった。

 それでも、どうしても、欲しいという自分の気持ちに逆らうことはできなかったのだ。






「な、何を言ってるんですか!?私が誰の妃か、ご存知ですよね?」


 重華は立ち上がり、顔を赤くし、声を荒げて舜永にそう言った。

 しかしそれは、おとなしく弱々しいという舜永の印象を打ち破るには至らなかった。


(怒った顔も、悪くないかもな)


 そんなことを思われているなんて、怒りを露わにする重華には思いもよらないことだろう。


「私は、陛下の……っ、皇帝の妃ですよ!?」

「へぇ、一応その自覚は、あったんだ」


 とてもその自覚あるような態度は、見たことがなかったのに、と舜永は思う。

 同時に、重華が自ら晧月の妃だと口にすることに、不快感も募った。


「あいつの妃だからって、俺の妃になれないとも、限らないだろ?」


 何を言っているんだ、という重華の視線を痛いほど感じながらも、舜永は言葉を止めることはない。


「妃を下賜する、なんてこともないわけじゃないし」


 とはいえ、唯一の寵妃が下賜されるなんて、舜永だって思ってはいないけれど。


「廃妃になって後宮を出ちゃうことだってあるかもだろ?」

「そんなこと……っ」

「それに……」


 怒りのせいなのか、ふるふると震える重華の言葉を遮って、舜永はさらに言葉を続ける。

 これを言えば、重華の怒りはさらに増すことだろう、頭のどこかでそんなことを考えながら。


「あいつが皇帝じゃなくなって、俺が皇帝になる可能性だってある」

「陛下はまだご健在なのに、いったい何を……っ」


 まるで、親の仇でも見つめるかのように、重華は鋭い視線で舜永を睨みつけている。


(こんな表情、晧月は見たことないだろうな)


 まだ、出会ってほんの数日、ともに過ごした時間もほんのわずかでしかない。

 それでも、重華が皇帝である晧月に、そんな視線を向けるなんて、まずありえないだろうと舜永は思った。

 どんな表情であれ、晧月の知らない表情が向けられている、ただそれだけのことで舜永は気分が良くなるような気がした。


「人間いつ死ぬかなんてわからないし、死ななくたって何かあって帝位を失う可能性だってなくはない」


 さすがに舜永とて、晧月の命を奪おうという気はなかった。

 本人たちが認めたくなくとも、晧月が舜永の兄であるという事実は揺らがない。

 兄を殺して皇帝になったとなれば、どうあっても悪評が付きまとう可能性が高い。

 だが、いずれその座は、もっと穏便な方法によって、明け渡してもらう気ではいるのだ。


「俺が皇帝になったら、俺の後宮で最高位の俺の寵妃にしてあげるよ。どう?」


 相手は丞相の娘、これをきっかけとして、丞相の勢力を全て取り込めるかもしれないとしても、今まで舜永に仕えてきた他の勢力のものたちがまず黙っていないだろう。

 何よりも、自身の母が、晧月についたことで目の敵にしているような人物でもあるので、そのようなことを許しはしないだろう。

 舜永は確かにそう理解している、それでも、自身が皇帝になれば重華に与えられる全てを享受させてやりたいと思っていた。


「私は、陛下の妃です。他の方の妃になったりしませんっ!!」


 舜永の言う通り、人はいつ死ぬかわからない。

 それが、今すぐのことでなくとも、いつか晧月も病に倒れ重華より先にこの世を去ることもあるかもしれない。

 晧月は重華より年上である、その点を鑑みても、晧月の方が先にこの世を去ってしまう可能性は十分に考えられる。


(それでも、私は、最期まで、陛下だけの妃でいたい)


 重華はこれ以上舜永と話していたくなくて、広げていた画材を片付け始めた。


「もう、帰っちゃうの?」

「今のお話は、聞かなかったことにします。ですので、舜永様も今日はお引き取りください」

「なんで?俺はちゃんと覚えててほしいのに」


 あっけらかんとした様子の舜永を、重華は再び鋭い視線で睨みつけた。

 だが、どれほど睨みつけようと、舜永が怯むようなことはない。

 むしろ、楽しそうな表情を浮かべられ、重華はただただ悔しかった。


「陛下の妃にこんなことを言ったなんて知れたら、たとえ舜永様でも、重い罰を与えられてしまいますよ?」

「それは、どうかな?」

「え?」


 晧月の言葉を思い返してみても、ただでは済まないはずだと重華は思っている。

 けれど、舜永はそれを恐れる様子など微塵も感じない。

 その様子を見ているだけで、重華は自身の考えが間違っているような気がして不安になった。


「確かに、皇帝の妃に言い寄ったなら、最悪首をはねられる可能性もあるかもね」

「だったらっ!」

「でも、それ、どうやって証明するの?」

「私が陛下にお伝えすればっ」

「それ、信じてもらえるの?」

「陛下なら、きっと」

「そうだね。晧月なら信じるだろうね。なんといっても、寵妃の言葉だし」


 晧月ならば、重華の言葉を信じ、きっと舜永が二度とそんなことを言わないようにしてくれるだろう。

 重華はこの瞬間までは、そう信じて疑うことなどなかった。


「でも、他の人間はどうかな?例えば嫌疑をかけられた俺が、珠妃から言い寄られたと証言すれば?」

「そんな、嘘なんてっ」

「先帝の息子と、皇帝の寵妃である丞相の娘、皆、どっちを信じるだろうね?」


 重華の顔は一気に真っ青になった。

 晧月はきっと、自身を信じてくれるだろうと思う。

 それから、春燕や雪梅だって、きっと重華の言葉を信じてくれるだろう。

 しかしそれ以外の人間は、自身の父も含め、とても自分の言葉を信じてくれるだなんて重華は思えなかった。


(ううん、もしかしたら、陛下だって……)


 いつも、晧月は重華の言葉に耳を傾けてくれていた。

 けれども、弟である舜永とどちらの話を信じるかということになれば、舜永の言葉を信じる可能性さえも重華は否定できなかった。


「試してみる?」


 問われて、重華は瞬時に怖いと感じた。

 かたかたと身体を震わせながら、緩く首を振ることしかできない。


「じゃあ、俺の妃になる?」


 だからといって、そんなことを受け入れられるはずなどない。

 やはり、緩く首を振れば、舜永から溜息が聞こえた。


「両方嫌だなんて、虫が良すぎない?ま、いいけど。俺が皇帝になってしまえば、全て俺の思い通りにできるわけだし」


 たとえ、重華が嫌だと泣き叫んだとしても、皇帝となった舜永が妃に封じると言えば、重華に断る術などないのだ。


「なんか、今までよりやる気出てきたかもな」


 そう言うと、舜永はようやく立ち上がった。


「皆が俺の言葉を信じる中、晧月だけが最後まで寵妃の言葉を信じてたら、いったいどうなるんだろうね?」


 晧月はまだ若いながらも、品行方正、文武両道、政務が滞ることもなく非の打ちどころのない皇帝の姿ばかりを見せてきた。

 それは、舜永からすれば、腹立たしいほどに。

 唯一残念な点をあげるとするならば、妃嬪の誰にも目を向けず、とても世継ぎを期待できないところであるが、女色に溺れることがないという点でそれもまた美徳とされていた。

 そんな晧月が、ただ一人、最後まで重華を信じ続ければ、きっと誰もが思うはずだ。

 とうとう晧月も寵妃に溺れてしまったようだ、と。

 そんな光景を想像するだけで、舜永の表情に笑みが浮かんだ。


「あー、楽しみだな」


 うきうきとした足取りで去っていく舜永を、重華は絶望感を抱きながら見つめることしかできなかった。

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