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70. 唖然


(結局、たいした用件なんか、なかったじゃないか)


 勝手に皇宮を訪れ、寵妃と噂される妃の寝殿まで訪れておきながら、今まで皇帝である晧月に挨拶すらなかった舜永の方が悪かったとはわかっている。

 それでも仲睦まじく談笑するような兄弟仲でもない晧月からの呼び出しは、できることなら無視してしまいと思うほど、舜永にとってはおもしろくなかった。

 ささくれだった心を抱えたまま、あてもなく歩いていた舜永は気づけば重華の寝殿である琥珀宮まで来ていた。


(今日はいないのか)


 きょろきょろと見渡したが、周囲に重華の姿は見えない。

 絵を完成させたから、もう今日は外で絵を描いたりしないのかもしれない。

 舜永がそう考えて、まさに立ち去ろうとしたその時、画材を抱えた重華が外へと出てきた。

 その姿を見ただけで、舜永は先ほどまでの不機嫌さが一転し、気分がよくなるのを感じた。


「ね?今日も絵を描くの?」

「えっ!?舜永様!?今日も、いらしたんですか?」


 その顔には、もう用などないだろう、と書いてあるようだったが、舜永はそんなことは気にならなかった。


「ねぇ、描くの?」

「その、つもり、ですが……」


 だからなんだと言うのだ、早くここを立ち去って欲しい。

 そんな思いを抱えて重華は舜永を見つめたけれど、そんな視線にさえ舜永は動じることはない。


「じゃあ、俺にも絵を描いてよ。昨日描いてたみたいな、風景のやつがいい。場所は、どこでもいいからさ」

「はい?」

「まだ描いてない絵なら、先約もないだろ?晧月が他に頼んでる絵があるなら、その後でもいいし、お金が必要なら言い値でちゃんと払うから」

「いえ、お金は必要ないのですが……」


 ずいっと詰め寄られ、重華は一歩二歩と後ずさる。

 しかし、そうすればするほど、舜永はまたさらに詰め寄って重華との距離を縮めるだけだった。


「じゃあ、いいだろ?」

「えっと……」

「何?晧月が、俺には渡すな、とか言った?」

「いえ、決してそのようなことは……」


 渡しては駄目だとは、言われていない。

 けれど、渡してもよいとも、言われてはいない。

 重華は晧月以外に自身の描いた絵を渡すことなど、想像すらしたことないのだ。

 他の人に渡してよいかなんて、確認したことなどあるはずもなかった。


「お金をお支払いできるなら、名のある絵師に描いていただいては、いかがでしょうか?」


 琥珀宮の庭園の風景画が欲しい、というわけでもなさそうな様子である。

 それならば、素人の重華の絵よりも有名な画家の絵の方がいいだろう、と重華は思う。

 皇子という立場ならば、そういった絵を、簡単に手に入れらるはずだ。


「他の絵師の絵なんかいらないよ。俺、別にそんな絵に興味ないし」


 だったら、重華の絵だっていらないだろう、と重華は思った。

 けれど、どうやらそうでもないらしい。

 必死な様子で、舜永は今度は重華の手を握ってくる。

 重華は追い詰められて逃げ場を失ったような気分だった。


「珠妃の描いた絵が欲しいんだ。駄目?」

「どう、して……?」

「え?そう言われると、よくわかんないけど……なんか好きなんだ」

「はぁ……」


 よくわからないなら、諦めてくれたらいいのに。

 重華はそう願ったけれど、そう上手くはいかないようで、舜永はまるで引く気はなさそうだった。


(もし、舜永様にお渡ししたら、陛下は嫌な顔をされないかしら?)


 重華が気になるのは、ただただ晧月の反応だけだった。

 絵を渡した時、嬉しそうに笑ってくれたことが、重華はとても嬉しかった。

 だからこそ、そんな晧月の表情を曇らせるかもしれないようなことを、重華は決してしたくないと思ったのだ。


「晧月にしかあげないって、決めてるの?約束でもした?」


 いっそ、そうだと認めてしまえば、舜永も諦めたかもしれない。

 けれど重華はこういう時に上手く嘘がつけず、否定するように首を横に振った。


「じゃあ、いいじゃん」

「えっと、その……」


 受け入れるべきか、断るべきか、断るならばどう断るべきか、正解がわからずただ頭の中でそれがぐるぐると回り続けるだけだった。


「はぁ、もういいよ。その代わり、見るならいいでしょ?」


 しばし重華が答えらず狼狽えた後、舜永は深いため息とともにそう言った。


「え?」

「これから、絵描くんでしょ?それを見るだけ、なら、問題ないだろ?」


 絵を描く様子を眺められるなんて、非常に落ち着かないだけである。

 是非とも今すぐ立ち去って欲しいと重華は思ったけれど、何から何まで断り続けるのも申し訳なく感じ、それくらいならばと頷いた。


「じゃ、ほら、早く」


 先にその場に腰を下ろすと、舜永は隣に座れといわんばかりに隣の地面をばんばんと叩いた。


(この場所で絵を描くって決めたわけじゃなかったんだけど……)


 そもそも今日は何を描くかさえ、重華の中では決まっていなかった。

 けれど、舜永に急かさせるままに、重華は少しだけ距離を置いて舜永の隣に腰掛けた。




(お、落ち着かない……)


 隣の舜永はただじっと、重華を見つめている。

 正確には重華の描く絵を見ているのかもしれないが、ただじっと視線が向けられているのを、振り向かずとも重華はひしひしと感じていた。


(何か喋るかと思ったのに)


 重華が絵を描き始めてから、舜永は一言たりとも言葉を発していない。

 何が面白いのか、重華には謎でしかないけれど、ただじっと重華が絵を描く様子を眺めているだけなのである。


(気にしちゃだめ。もっと集中すればきっと……)


 絵を描くことに没頭すれば、晧月や春燕たちに声をかけられようとも気づかないことだってあった。

 とにかく今は描くことに集中し、舜永が隣にいることなんて忘れてしまおう、重華はそう思ってぎゅっと手に力を入れた。




「ねぇ、俺の妃にならない?」

「え……?は!?」


 ずっと黙ったままの舜永が、突然喋り出した。

 重華は目論見通りすっかり絵を描くことに没頭していて、隣に舜永がいることなどすっかりと忘れていたのだ。

 そんな舜永から突然話しかけられたことにも驚きだったけれど、それ以上にその内容が驚きだった。

 あまりに信じられない言葉に、重華はその内容を理解するのに時間を要したし、理解した今も尚、聞き間違えたとしか思えなかった。


(聞き間違えただけだわ。私が、誰の妃か、知らないわけじゃないんだもの)


 重華は、深呼吸をし、再び絵に向き合おうと考えた。

 だがあまりに驚いたせいなのか、先ほどまで描いていた絵にいらない線が多数増えている。

 まだ、色をつける前の線画なので、修正可能かもしれない。

 けれど、気分を変える意味でも、新たに描きなおそう、そう思って描いていた絵に手を伸ばした。


「それ、捨てるの?」

「はい」

「じゃあ、ちょうだい?」

「えっ?」


 捨てようとして描きかけの絵を、重華はまじまじと見つめる。

 それは未完成な上に、不要な線がいくつもあり、かなり不格好な絵になってしまっていた。


(こんなの渡したら、それこそ一生揶揄われそう……)


 どうせ渡すなら、少しでも上手く描けたと思えたものにしたいものである。

 重華はそう思って、ぶんぶんと首を振った。


「いいじゃん、捨てる絵なら」


 そう言うと、舜永はさっと重華から絵を取り上げた。


「あっ」

「屑籠にでも放り込んだと思えばいいじゃん」


 それだと、舜永が屑籠ということになってしまうけれど。

 重華の頭の中にそんな考えが浮かんだりもした。

 だが、相手は第三皇子、もちろんそんな恐れ多いことを口にしたりはしない。


(まぁ、いいか)


 どうせ、捨てるだけだったもの。

 それなのにそれを手にした舜永は、ものすごく嬉しそうで。

 重華はそれを見ていると、すっかり取り返す気が失せてしまった。


「で、俺の妃にならない?」


 まるで、ちょっと落とし物を拾ってくれ、くらいの軽い感じで、舜永は再び信じられない言葉を口にした。


(さっきの、聞き間違いじゃなかったの!?)


 重華は目を丸くし、舜永を凝視した。

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