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78. 光


 重華が冷宮に入って以降、毎日のように顔をあわせていたはずの重華と晧月は一度も顔をあわせていなかった。

 だが、その一方で、寵妃であっても厳罰に処した晧月に対し、誰も文句など言えなくなり、それまで大量にあった嘆願は一気になくなった。

 そのため、晧月は政務に専念することができ、今までの遅れを取り戻しつつあった。


(重華……)


 晧月は、何度も重華の冷宮送りを撤回したい衝動に駆られた。

 しかしながら、何の理由もなく出したところで、元の状況に戻ってしまうだけ。

 寵妃だから処罰を甘くしていると、より一層事態を悪化させる可能性もある。

 そうすれば、冷宮で必死に耐えているだろう重華の努力を水の泡にしてしまいかねない。

 だから、その度に飾っている重華の絵を眺め、なんとかその衝動を抑え込んでいた。


 せめて、頻繁に顔を見に行ければと思ったけれど、それは決してしないよう皇太后から釘をさされている。

 もっとも、そんなことをしてしまえば、重華は結局冷宮にいても皇帝の寵愛を受け甘やかされている、何の罰にもなっていない、と重華に対しさらに厳しい罰を求める声が上がりかねない。

 晧月もそれは理解しているため、うかつにそんなことをしようという気はないのだけれど。






(何にもない……)


 それが、はじめて冷宮を見た重華の感想だった。

 あるのは簡素な寝台と机と椅子くらいという、窓もない薄暗い小部屋。

 それでも、通常の罪人が入れられるような牢獄を考えれば、ずっと環境がよいのかもしれない。

 食事や生活に必要な最低限のものは、定期的に届けてもらえる。


(ごはんはしっかり食べないと、陛下に怒られてしまう)


 届けられる食事は、春燕や雪梅が用意してくれる温かくやわらかな食べやすい食事とは違い、冷たくかたい食べにくいものが多かった。

 それでも、重華は晧月を思い出しながら、必死にそれを口に運んで飲み込んだ。


(何もしなくても、ごはんがもらえる。家に居た時よりは、ずっといい)


 重華は最初こそ、そう思った。

 働かなければ食事を得られなかった頃に比べれば、十分すぎるほど恵まれているから大丈夫だと。

 しかし、日が経つにつれ、そんな感情が塗りかえられていく。


(何もすることがないのも、こんなにも辛いのね……)


 冷宮には、晧月に貰った画材も筆も書物もない。

 絵を描いたり、文字の勉強をすることもできない。

 物を運ぶために、定期的に人は訪れるが、そこに会話が生まれることもない。

 食事をする以外の時間は、何もせず、ただ呆然と過ごすしかなかった。

 重華は徐々にどれくらい時間が経ったのか、今が昼なのか夜なのかさえ、よくわからなくなっていった。






 重華が冷宮送りになって数日が過ぎた頃、晧月はようやく政務が落ち着きを取り戻し、自身にも多少余裕が出始めていた。

 政務以外のことも少しは考えられるようになってきた晧月が、最初に考えたのは人知れず冷宮を訪れることだった。

 皇帝である晧月が冷宮を訪れてはいけないわけではない。

 それでも、やはり今、晧月が重華の元を訪れている、という話が広がるのはよくない。

 そう考えた晧月は、信頼できる人を集め、誰にも知られることなく重華の元を訪れられるよう準備をはじめた。

 幸いなことに、晧月の周囲には優秀な人材も多く、晧月が考え始めてから数日後には準備がしっかりと整った。


(柳太医も連れていくか)


 重華の体調も心配だった晧月は、信頼できる柳太医に重華の診察もさせようと考えた。

 そうして、晧月は柳太医とともに、なるべく人目につかないようにと夜遅い時間を選び、ようやく重華の元を訪れることができた。




「重華……?」


 晧月が重華のいる冷宮の扉を開き、最初に見たのは椅子に座りただ呆然と壁を見つめている重華だった。

 その瞳にはまるで生気が感じられず、晧月は最後に見た重華と別人を見ているのだと錯覚しそうになった。


「重華、大丈夫か?」


 重華に近づき、再度声をかけるとようやく重華の視線が晧月に向けられた。

 しかし、壁を見つめている時と変わらず、ただ呆然と晧月を見つめるだけの重華。

 まるで知らない人でも見ているかのような視線に晧月が不安を覚え始めた頃、重華の目がゆるゆると見開かれていった。


「えっ!?陛下!?どう、して……」


 重華ははじめ、幻覚でも見ているのかと思った。

 けれど、目の前には、しっかりと晧月の姿がある。


(もう、政務が、終わったの……?)


 重華はあれからどれくらいの日にちが経ったのか、よくわかっていない。

 もしかしたら、かなりの時間が経過していて、重華はもうここを出られるのかもしれない。

 一瞬、重華はそんな淡い期待を抱いた。

 そして、それはすぐさま晧月にも伝わったのだろう。

 晧月が申し訳なさそうに、視線を落とした。


「すまない、まだ、出してはやれないんだ」


 ようやく政務が落ち着きはじめた、まだそれくらいであり、完全にその遅れを取り戻せたわけではなかった。

 そして、遅れを取り戻せたとしても、何の問題もなく重華を冷宮から出すには、重華の無実を証明できなければならない。

 それには、まだまだ時間がかかりそうであった。


「で、ではっ、ここにいらしては……っ」

「大丈夫だ。俺がここに来たことは、誰にも知られていない。もちろん、皇太后陛下にも」


 重華の反応を見て、晧月はすぐに重華もまた皇太后にしっかりと釘をさされているのだと察した。

 まさにその通りで、重華が冷宮に入ってすぐ、一度だけ皇太后の侍女が重華の元を訪れている。

 その際に、晧月が重華の元を訪れることがあっても、決して会うことなく追い返すようにと告げられていたのだ。


「よかった……」


 重華はほっと息を吐く。

 それから、すぐに立ち上がろうとした。

 この部屋の椅子は、重華が今座っている一脚だけ。

 それを晧月に譲ろうと考えたのだが、それに気づいた晧月はすぐさま重華の腕を掴んでそれを止めた。


「いい、座っていろ」

「ですが……」

「どうせ、長居はできない」


 人知れず訪れられる時間は限られている。

 長居すればするほど、誰かに知られる可能性は高くなってしまうから。


「体調はどうだ?」


 掴んだ腕は、以前よりも細くなったように感じられた。

 顔色も、どこか青白いように感じる。

 だが重華はやはり生気の感じられない瞳で、それでも元気だと言って笑ってみせた。


「柳太医、入れ。珠妃の診察を」


 晧月は共に来たけれど、少しの間、外で待機しておくよう指示していた柳太医をようやく中へ招き入れた。

 重華は何も言わなかったけれど、太医まで来ていることに驚いている様子を見せた。


「珠妃様、お食事はきちんと召し上がられていますか?」


 それが、重華の脈を診た柳太医の最初の言葉だった。


「もしかして、食べていないのか!?」


 そのような質問が出る、ということはそういうことなのではないかと、晧月は重華に詰め寄った。

 重華は少しばかり身を引きながらも、首を振る。


「い、いえ、ちゃんと……」

「本当に?」


 問いかけたのは、柳太医である。

 それだけで、晧月は重華の言葉が嘘なのだと判断した。


「重華」


 嘘は許さない、というように名前を呼ぶと重華はばつが悪そうに俯いた。


「あ、あの、その、食べてはいるんです……でも、ここ数回はその……食べても、戻してしまって……」

「胃腸が弱っていらっしゃるようです。薬を煎じますので、そちらをお飲みください」

「あ、ありがとう、ございます」


 こんな場所で薬まで煎じてもらえるとは思っていなかった重華は、てっきり脈を診るだけで終わるのだろうと思っていた。


(いろんな薬が用意できるように、道具や薬草をたくさん持ってきてくださったのね……)


 よくよく見ると、柳太医はかなりの大荷物を抱えていて、重華はその様子にただただ感謝した。




「やはり、体調を崩していたんだな」

「そんなたいしたことは……次はちゃんと、ごはんも食べますから」


 青白い顔で薬を飲みながらも、晧月に心配をかけないようにと笑みを浮かべる重華。

 その姿を見ているだけで、晧月は胸が痛んだ。


「陛下は、その……」

「俺は見ての通り、健康そのものだ。おまえのおかげで、政務も随分と楽になったしな」

「よかったです」


 晧月はとてもそうは思えなかったけれど、重華はほっとしたようにそう言った。

 自身の行動にはちゃんと意味があった、そう感じられて、それだけで重華はもう少し頑張れそうな気がしたから。

 生気を失ってしまったかのような重華の瞳に、ほんのわずかながら光が灯った瞬間だった。


 その後、重華と晧月が少し会話をしたところで、外にいる見張りの男から声がかかった。

 名残惜しくも、これ以上ここに留まることはできないのだと、晧月は肩を落とした。


「すまない、そろそろ……」

「私なら大丈夫です。久々に陛下のお姿を見れて、お話もできて、十分すぎるほど満足です」

「また、すぐに様子を見に来る」

「決してご無理は……っ」


 離れがたく思い、最後に、と重華の手を強く握りしめる晧月。

 一方で、重華は無理に訪れる必要などない、とでも訴えるかのようにただ首を振るだけだった。


(この状況でも、俺の心配をするのか)


 誰とも会話することなく一人きりで過ごしているのだから、きっと人恋しいことだろうと晧月は思う。

 けれど、重華はそんなことは決して言わず、今も晧月がこの場を立ち去りやすいように、そして無理をしないように、そればかりを考えているようだった。


「無理などしてない。俺が来たいから、来るだけだ」

「では、お待ち、しています」


 あまり期待して晧月を困らせてはいけない、そう思いつつも、重華はその訪れを待ち望む気持ちを隠しきれなかった。


「もう、夜も遅い。ゆっくり休めよ」


 その言葉で、重華はようやく今が夜なのだと知った。


「陛下も。お休みなさい」


 去り際にそう声をかけると、晧月がふわりと笑った。

 ここに来てからの晧月の表情は、重華を心配してかその表情は曇りがちだった。

 最後に笑みが見れたことで、重華は今日はぐっすりと眠れそうな気がした。

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