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77. 宣下


「陛下、珠妃様がお越しです」


 政務に追われる中、突如かけられた宦官からの言葉に晧月は非常に驚いた。


「珠妃が?」

「はい、何やら大切なお話があるとかで、ここまでとても急いで来られたようです」


 重華とは、朝、別れたばかりである。

 それから今の間に、それほど急ぎの用事が発生するとは、非常に考えにくいことだった。


(よほどのことが、あったのか……?)


 正直なところ、山積みな政務を見れば後にしたい気持ちもあった。

 しかしながらそれほど急ぎの、しかも大切な話となると、結局気になって政務が手につかなくなりそうだと思い、晧月は重華を天藍殿へと招き入れることにした。




 晧月の許可が伝えられると、重華は酷く慌てた様子で勢いよく天藍殿の中へ入ってきた。

 その様子にさすがの晧月も驚き、思わず立ち上がって重華に駆け寄る。


「何があった?悪いがあまり時間がないから、手短に……」

「私を冷宮に送ってくださいっ!!」

「は……?」


 信じがたい言葉が聞こえてきて、晧月はしばし呆然とした。

 しかし、ありえない言葉に、もしかしたらただのきき間違いだったかもしれない、晧月はすぐさまそう考える。


「陛下っ!私を、冷宮にっ!」

「聞き間違いでは、なかったか……」


 まっすぐな瞳を晧月に向けて、重華はまたしても晧月が信じがたい言葉を放った。

 晧月は頭がずきずきと痛むような感覚を覚えながら、深いため息をつく。


「まったく。今度は誰だ?舜永ではないだろう?」


 重華が自ら、そのような考えを持ったとは、晧月には考えられなかった。

 だが、晧月は最近は舜永の動向を注視させているけれど、今日はまだ皇宮にいるという報告は受けてはいない。

 何より、舜永ならば、そんなことは言わないだろうとも思っている。


「そなたを冷宮に送るよう言っていたのは、皇太后陛下か」


 晧月がいつまでも承諾しないことに焦れて、重華に告げたという可能性は皇太后の性格を鑑みれば十分に考えうることだった。


「だが、おまえが皇太后陛下の元へ行ったという報告は、受けていないんだが……」

「ご、ごめんなさい。春燕さんと雪梅さんには、内緒でお伺いしました」


 重華はいたずらをしてしまった幼い子どものように、肩を縮こまらせたが、事態は晧月にとってそんなかわいらしいものではなかった。


「余計なことを……皇太后陛下の話は忘れろ。おまえは何もしなくていい」

「そういうわけにはっ!」

「そろそろ、春燕と雪梅が探しているかもしれん。早く戻れ」


 そのまま、回れ右させられ、天藍殿から追い出されそうになるのに対し、重華は必死に晧月にしがみついて踏ん張った。


「陛下っ!」

「冷宮がどういう場所か、説明しただろう。何もしていないおまえが、そんなところに行く必要はない。いいから、帰れ」

「でもっ!!」

「俺も忙しいんだ。人を使ってまで、無理矢理追い出したくはない。早く帰ってくれ」


 重華は言う通りに帰ってしまいたい衝動に駆られる。

 いつもの重華なら、間違いなくここで、肩を落としながらも晧月の言葉に従ったことだろう。


(このまま、帰っちゃ駄目だ)


 今日だけは、絶対に引き下がってはいけない。

 重華は必死にそう自身を奮い立たせて、踏みとどまった。


「陛下、お願いしますっ!どうか、私を冷宮に……っ」

「いいかげんにしろっ!」


 晧月の瞳が、これまで見たことないほどの怒気を含み、重華を見つめている。

 重華はびくりと肩を揺らし、逃げ出したいような気にもなった。

 それでも、今この場を立ち去っては意味がない、と再度必死に自身を奮い立たせる。


「俺は何を言われようと、そんなことをするつもりはない。だいたい、今まで俺が他の妃を冷宮に送ろうとした時、真っ先に止めたのはおまえだろう!それなのに、なぜっ!!」


 罪を犯した妃嬪のことは庇い、何もしていない自身のことは冷宮へ送れという重華。

 晧月は今まで、何よりもそうしないために必死だったというのに、重華の言葉はあまりにも残酷に思えた。


「おまえは俺を、好いた女一人守れない皇帝にしたいのか!?」

「ちが……っ、違いますっ!!」

「だったらっ!!」

「違います、陛下」


 なんとか話を聞いてほしい、そんな思いから重華はぎゅっと晧月の手を握りしめる。

 それだけで、怒りを湛えた晧月の表情がほんの少し和らいだような気がした。


「陛下が守るのは、陛下御自身のお身体と、この国の民たちです。私を冷宮に送るのは、そのためですよ」


 晧月はぴくりと肩を揺らすと、黙り込んでしまった。


(きっと、陛下だって、本当はどこかでそうすべきだと、思っているんだ……)


 反論がない、ということはそういうことなのだろうと思った。

 多少なりとも反論の余地があるならが、この状況で晧月は黙り込んだりしないはずだから。


(でも、きっと、私のために、できなかったんだ)


 だったら、重華にできるのは、晧月がなるべく罪悪感を抱くことなく最善の方法を選択できるようにすることだ。

 そうすれば、きっと晧月は決断できるはずだと、重華はそう思った。


「陛下の政務が止まると困るのは、民たちだって、陛下も仰ったではないですか。そうならないためにも、どうか私を、冷宮に送ってください」


 重華は少しでも晧月を安心させられるようにと、精一杯笑みを浮かべる。


「大丈夫です。陛下の政務が落ち着いたら、冷宮から出してくださるって、皇太后陛下も……」

「そんなの、いつになるか、わからないだろっ!!」


 きっと、重華を説得するための、方便だろうと晧月は思っている。

 皇太后だって、もちろん罪のない重華を長く冷宮に置くつもりはないかもしれない。

 だが、そのためには重華が何の罪を犯していなかったと証明することが必要となるだろう。

 現状、そうできる保証がないのだ。

 なぜなら、それができるのであれば、今こんな状況になってはいないのだから。


「なら、陛下が出してください」

「は?」

「陛下が早く政務を終わらせて、すぐに私を出してください」

「そんな、簡単にいくわけが……っ」

「私は陛下を信じて、待っていますから」


 ね、と重華が微笑みかけると、晧月は一瞬それを受け入れてしまいそうになった。

 しかし、すぐさま頭を振って重華の手を払いのける。


「俺はまだ、おまえを冷宮に送るとは……っ」

「陛下だって、今のままではよくないと、思っているのではないですか?陛下がまた倒れてしまったら、多くの国民が困ってしまいます。だから、お願いします、陛下」


 あと一押し、そんな気がして、重華は必死に晧月に懇願した。


「くそっ」


 晧月は一度払いのけたはずの重華の手を取り、重華を引き寄せ強く抱きしめた。


「陛下……?」


 重華は驚きながらも、ただ晧月を見上げ、晧月の言葉を待った。


(震えてる……)


 触れたところから、晧月の震えが重華にしっかりと伝わってくる。

 晧月だって、わかっているのだ。

 今の状況を続けていても、事態は悪化する一方で何も解決できないことを。

 そして、解決策を模索しようにも、政務に追われるばかりでそんな余裕すらないことも。


「必ず、必ずすぐに迎えに行く」

「はい」

「絶対に出してやる。だから、少しだけ耐えてくれ」

「はい。お待ちしています」

「こんな、こんなことしか、できなくて、すまない……っ」

「いいえ、陛下は、ただ、私のお願いを聞いてくださっただけですよ」


 震えているのは、晧月の身体だけではなく、その声もまた震えていた。

 絶望感すら覚えている晧月の腕の中で、重華はただふわりと笑みを見せる。


「ありがとうございます、陛下」

「馬鹿、冷宮送りになって礼を言う妃がどこにいる」


 晧月は笑い飛ばそうとしたが、上手くいかなかった。

 おそらくは自身のため、笑みを崩そうとしない重華を見ていると胸が痛んで仕方なかったから。


「陛下、冷宮に行く前に、お願い聞いてもらえますか?」

「なんだ?」

「春燕さんと、雪梅さんに、ごめんなさいって伝えてください。あとお二人とも、きっとお仕事がなくなって困ってしまうと思うので、陛下の侍女に戻してあげてください」


 重華は黙って出てきてしまったことが、ずっと気になっていたのだ。


「謝罪は伝えてやる。だが、俺の侍女には戻さない」

「え?」

「どうせすぐに、戻ってくるんだ。いつ、戻ってきても大丈夫なように、二人にはおまえの侍女として、しっかりと琥珀宮の管理をさせる」


 重華の侍女であることは変わらない。

 そして、重華の侍女として、仕事はちゃんとある。

 そう言ってもらえているようで、重華は嬉しそうに笑った。


「宣旨を下す。珠妃を……冷宮送りとする」


 晧月が静かに告げ、それを傍にいた宦官がしっかりと聞いている。

 重華はやはり笑みを崩さないまま、晧月から少し距離を取った。

 そして、宣旨を受け入れるとでもいうように、晧月に一礼をした。

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