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第十一話 御用医家


  蘭瑛ランインは夢うつつな状態で目を覚ました。

 見たことのない四角形に区切られた天井の梁を、ぼんやりと眺める。


 (ここは…どこだろう…)


 蘭瑛の動きに気づいた梅林メイリンが、水の入った茶杯を持って寝台に歩み寄ってきた。


 「おはよう、蘭瑛。気分はどう?」


 眠っていた全身の感覚が徐々に蘇り、顔や頭、折られた脚の痛みが全身に走る。蘭瑛は、効果があるか分からない寛解の術を自分に施し、痛みを抑えながら「…大丈夫です」と言い、上半身だけ起こした。

 梅林は水の入った茶杯を蘭瑛に渡しながら話す。


 「ここは永憐ヨンリェン様のお部屋よ。昨日、湯浴みをしている間にあなた気を失っちゃって、ここで寝かせればいいって永憐様が…。一晩中、ずっと側にいてくださったのよ。永憐様は昨日のことを報告しに、朝早くから帝のところへ行かれているわ」


 「…そうでしたか」


 蘭瑛は少し間を空けて「秀綾シュウリンは?」と尋ねた。


 「永憐様と一緒に帝のところへ行ったわ。今までのことを全部話すそうよ。あなたがこんな目にあって、皆責任を感じているわ…。もちろん私もよ。もっとあなたを気にかけていたら、守れていたかもしれないのに…ごめんなさいね」


 蘭瑛は目尻を垂らして、首を小さく横に振った。

 ここにいる者は誰も悪くない。悪いのは全て光華妃コウファヒだ。皇后という立場を濫用し、賢人と服従関係を結び、自らの手は汚さず人を排除しようとする。

 なんて卑怯で悪辣な女なんだ!

 蘭瑛は怒りをぶつけるかのように、自由に動く左腕で掛け布団を叩いた。

 心的外傷は身体についた傷よりも深く、後になってやってくると言われている。怒りと共に、段々と昨日味わった恐怖も蘇り、蘭瑛は目を赤くしてまた涙を浮かべた。


 「蘭瑛…大丈夫?よしよし…」


 梅林はそう言って、蘭瑛の背中と頭を交互に撫でた。

 蘭瑛は、梅林の手があまりにも温かく感じ、母親に頭を撫でてもらった幼い頃を思い出した。

 そんな感傷的に浸っていると、突然「ぐぅ〜」と情けなく腹が鳴った。

 梅林は口元に手を当てながら、クスクスと笑いだす。


 「お腹はいつもの蘭瑛のようね。美味しい芋粥を作ってきてあげる!それまで、少し横になっていなさい」


 梅林にそう言われ、蘭瑛は口の中に溢れてくる涎を飲み込み、また寝台の上で横になる。

 今は、傷の痛みで体力はすぐに消えてしまうようだ。

 蘭瑛はまたうとうとと、梅林の粥も忘れて深い眠りについてしまった。


 再び目を開けると部屋は薄暗く、隣の部屋から蝋燭の光が漏れている。

 蘭瑛は梅林の芋粥を思い出し、ゆっくりと上体を起こす。

 折れている右足をそっと寝台から下ろし、ゆっくり壁に沿って立ち上がった。

 蘭瑛の動く音が聞こえたのか、隣の部屋にいた永憐が顔を覗かせる。


 「目が覚めたか?」


 「よ、永憐さま…」


 蘭瑛は永憐に腫れ上がった醜い顔を隠した。

 永憐はそんな蘭瑛の容姿など気にする様子もなく、蘭瑛に近づく。


 「あんまり…近づかないでください…。酷い顔なので…」


 「……」


 「そんな近づか…」


 突然、永憐に腫れ上がった頬を触れられ、蘭瑛は言葉に詰まった。永憐は何も言わず、瞳を揺らして傷を見つめている。すると永憐は呟くように囁いた。


 「申し訳ない」


 永憐からの謝罪に驚いた蘭瑛は、思わず永憐の顔を見つめる。その顔はとても悲しそうで、碧眼の上にある長い睫毛が僅かに揺れていた。見つめ合っていることに気づいた蘭瑛はすぐに目線を横に逸らし、ゆっくり口を開く。


 「永憐様が悪い訳では…」


 話を変えるかのよう蘭瑛は続ける。


 「あ、あの…梅林さまの芋粥は…、まだありますか?」


 「うん」


 永憐の手がそっと頬から離れる。

 なぜか、今まで感じたことのない冷たい感触が肌に残った。まるで、大きな雪片が頬に落ちたかのように、じんわりと小さなを儚さを残して…。

 それから蘭瑛は、永憐に支えられながら隣の部屋に移動し、梅林特製の冷めても美味しい芋粥を啜った。



 回復してからではないと、鳳明葯院ほうみんやくいんには送れないと永憐に言われ、蘭瑛は必死に六華術で折れた右脚を回復させていた。顔の腫れは随分と落ち着き、顎の噛み合わせも元に戻り、ようやく粥ではなく固形物を食べられるようになった。時々、秀綾に来てもらい心的外傷で負った不眠を、清命長宗せいめいちょうしゅうの法術でこっそり改善してもらったりもした。

 蘭瑛は秀綾にあれから何か動きがあったか聞いてみると、秀綾曰く、梓林はあの日、「全て光華妃に言われてやった」と宇辰に吐いて死んでいったそうだ。あの場に居合わせた男たちも、打首に処された後、骨も残らず焼かれたようだ。

 極刑の場合、宋長安では亡き骸すらも残されない。

 首謀者の光華妃はというと、宋武帝に咎められたそうだが「私は知らない」と、今も堂々と扇子を仰いでいるらしい。

 面の皮が厚い狡猾な女はどこにでもいる。

 しかし、蘭瑛はもうどうでもいいと思っていた。早く華山に戻れればそれでいいと。


 しばらくそのように過ごしていたある日、蘭瑛は突然、藍殿に来るようにと呼び出された。ようやく帰れると蘭瑛は胸を踊らせ、藍殿に向かって感慨深くゆっくり歩いていく。

 すると、仏頂面の永憐が藍殿の門の前で腕を組んで待っている姿が見えた。


 「永憐様?」


 「来たか。ゆっくりでいい。着いてこい」


 「は、はい…」


 蘭瑛は首を傾げながら、永憐の後に続いた。

 改めて永憐の背中を近くで見ると肩幅が広く、強靭な体格であることが分かる。少し前に湯堂で聞いた女子たちの言葉を、蘭瑛はふと思い出す。この身体に上から覆い被さられたらと、卑猥な妄想で声を裏返していた女子がいたが、確かに目の前にこんな逞しい身体が降りてくると思うと、少し戸惑うかもしれないと思った。それに、永憐の胸元はとても安定感があって、心地が良かったことを何故か名残惜しむかのように振り返る。


 「何を考えている」


 「い、いえっ。何も」


 蘭瑛は真顔を見せ、すぐに邪念を塞ぐ。

 そして、しばらく永憐の後ろを歩いていくと蘭瑛も行ったことのある場所に到着した。紫王殿しおうでんだ。


 (最後に、宋武帝そんぶていに挨拶をしろという訳か…)


 蘭瑛は、永憐に続き紫王殿の中に入る。

 紫王殿の護衛が客間の扉の前で、二人が来たことを宋武帝に伝えた。


 「入れ」


 渋く掠れた声が聞こえた後、永憐と蘭瑛は中に入り、宋武帝の前で拱手をした。


 「お待たせしました。かの者を連れてまいりました」


 「ん。よく来た。二人でそこに座るがよい」


 永憐と蘭瑛は宋武帝と向かい合うように座り、蘭瑛は宋武帝の顔をしっかりと捉えた。前回薬を渡した時とは、若干痩せたようで雰囲気が違う。

 蘭瑛はふと、誰かに似ていると思った。

 だが、その誰かの名前が出てこず、出された茶が喉を通過する。

 しばらくすると、宋武帝が口を開く。


 「蘭瑛と言ったな。此度は、身内のことで心身共に深傷を負わせてしまい申し訳なかった。責任は全て私のところにある。全て遠志宗主に経緯を報告し、六華鳳宗に納めてもらうよう詫びを送った」


 蘭瑛は深く頭を下げた。

 宋武帝は一息ついて、また続ける。


 「君が華山から来てくれなければ、私の息子は恐らく助からなかっただろう…。六華鳳宗の功績を認め、礼を尽くしたい。そこでなんだが、君を宋長安の御用医家として認めたい。ここに引き続き居てもらうことはできないか?」


 口角を少しだけ上げて、宋武帝が尋ねた。

 蘭瑛は一瞬固まり、目を丸くする。


 「…えっ⁈私が…、ご、御用医家ですか?」


 「そうだ。宗主殿に相談したら、是非君をとの事だった」


 (叔父上め…。俸禄を受け取れるからって、私を…)


 蘭瑛は目元を引き攣らせながら、顔面蒼白になった。

 ようやく帰れると思ったのに、まるで残しておいた大切な包子を、目の前で食べられたかのようだ。

 蘭瑛は泣くに泣けず、笑うに笑えずといった様子で永憐の方を向く。

 すると、永憐も蘭瑛の方を向き「そういうことだ」と、まるで受け入れるしかないと言わんばかりの澄まし顔で話す。


 蘭瑛はほんの少し唇を尖らせ、永憐を見遣った。

 そんな二人の姿を見ていた宋武帝は、小さく微笑む。


 「衣食住は今まで通り心配しなくてもよい。そこにいる永憐が全てやってくれるだろう」


 そう言って、宋武帝は袖を直しながら立ち上がった。


 「では、蘭瑛。よろしく頼んだぞ」


 「は、はい…」


 こうして蘭瑛は帰省するという手段を絶たれ、正式に宋長安の御用医家となり、この宮殿内の人々の命を預かる流医となった。


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