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第三話 做梦

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 十五年前の春。

 剣門山けんもんざんにある剣心極道の道場から満開の桜が見えていた。

 穏やかな風が吹き抜けるたび、桜の花が丸ごと宙を舞い、地面にはたと落ちていく。しかし、剣豪と呼ばれ始めた永憐ヨンリェンの心は常に殺気に満ちており、鮮やかな桜色すら色味を感じられないほど、永憐の視界は常に澱んでいた。


 「永憐。今日は宋長安の助太刀すけだちだ。行けるか?」


 太くて落ち着き払った渋い声が、永憐の脳天から降りてくる。

 父でもあり、師匠でもある王心悦ワンシンユエだ。


 「…はい。父上」


 「今日は、六華鳳宗を焼き払い、宗主を討ちに行くそうだ。宋長安より先に宗主の首を斬ってこい」


 そう言われた永憐は、虚な目をしながら永冠を握り締めて、道士たちと一緒に六華鳳宗の討伐へ向かった。


 六華鳳宗のある華山の麓に到着すると、六華鳳宗の敷地には既に火を放たれており、建物は炎上していた。

 柱が激しく焼け落ち、細かい火種と灰色の煙が上空へ舞い上がる様子を、永憐はただただ無意識に眺めた。

 するとそこに、宋長安の武官たちが一斉にやってくる。


 「剣門山の道長殿。六華鳳宗は焼き尽くしました!六華鳳宗の者たちは華山の奥へと身を隠しているそうです!私たちはあちらから周ります。道長の皆さんはそちらから中へ入ってください!」


 宋長安の武官たちにそう言われた永憐たちは、言われた通りの方向から、華山の奥へと歩みを進めた。


 しばらく歩くと、六角形の結晶が刺繍された衣を羽織った三人の男たちが、山の中へと走っていく後ろ姿が見える。

 永憐は永冠を鞘から抜き出し、三人の後をつけた。

 凍てつくような冷たい鍔音に気づいた六華鳳宗の宗主・鳳鳴ホウメイは振り向いたと同時に、全員を庇うかのように永憐たちの前で両手を広げ立ち止まった。


 「玄天遊鬼の責任は六華鳳凰の末裔として私が担う。しかし、ここにいる者たちの命だけは取らないでいただきたい」


 鳳鳴は跪き、永憐たちの前で頭を下げた。

 永憐は自分にどんなけ赦しを乞おうが知ったことではないと、鳳鳴の首を目掛けて殺気を込めた剣光を放つ。

 途中、この者を庇うかのように女が岩から飛び出してきたが、諸共始末した。

 剣の先から目線を上げると、白い兎を抱えた幼い女子おなごが震えながらこちらを見ている。目を怒りの如く赤くし、この惨劇と惨状を見るに耐えないといった様子で、何かを訴えているようだ。


 斬れと言われた者を斬る。それが剣士たちの役目だ。

 誰に情けの目を向けられても、斬った数が多ければ多いほど、強い者とみなされるのであれば、どんな殺戮も厭わない。どこで誰が何で死のうが、当然、今目の前で血の海で横たわるこの者たちを見ても、目の前にいる幼い女子を見ても、自分の感情は微塵も感じない。永憐は常に冷酷な野心だけで瞳を動かしていた。

 混沌としたこの世局の中で、勝ち抜き、孤独に生きていくには斬り続けるしかない。

 永憐はそう思いながら、永冠を鞘に仕舞う。


 そこに宋長安の宋長帝と息子の宋武帝がやってくる。

 血の海と化した惨憺たる光景に、宋長帝は大変満足したらしい。

 その横で、何者だと言わんばかりに永憐のことを一点の曇りもなく見つめていたのは、宋武帝だった。


 「では、私はこれで」と永憐は踵を返し、歩き始めようとした刹那。小石を背中に当てられた。永憐は立ち止まり、冷え切った視線をその方向へ向けると、先ほど永憐のことを見ていた白い兎を抱えた女子が、大粒の涙を流しながら永憐に向かって叫んだ!


 「返して…返して!私の家族を返して!返してよ!」


 永憐は女子を冷たく一瞥する。

 女子はずっと顔をぐしゃぐしゃにしながら、言葉にならない怒声で叫び続けている。

 刃には刃を…。そんな因果応報のような負の巡還と、罪のない者に責任を擦りつける殺戮が罷り通っているこの宋長安に、永憐はいささか嫌気が差していたが、永憐は鳥のさえずりさえ耳に入れまいと聴覚を遮断し、再び歩き出す。


 しかし、最後の言葉が無意識に永憐の真髄をついた。

 まるで脳天に雷が落ちたかのように永憐は立ち止まる。


 「奪った者は奪われるからな!」


 これが何を意味するかは、この頃はまだ分からなかった。

 ただ、物凄く鋭利なものが目に負えない程の速さで、頬を掠めていったような気がしたのは確かだった。

 強い光が瞼を掠め、視界が歪んでいく…。


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 永憐は静かに目を開けた。

 いつも見る天井に焦点を当てようと眺めていると、突然視界に蘭瑛ランインの顔が入った。


 「永憐様?具合はいかがですか?」


 その声は耳に心地よく、泣く子どもを安堵させるような柔らかく温もりのある声だった。


 「凄い動いていましたよ、腕。夢の中でも妖魔を斬ってたんですか?」


 「……」


 違うと信じたい。

 目の前にいるお前が、あの日白い兎を抱えた女子ではないことを。

 永憐は平然を装いながら起き上がる。


 「…また苦い薬か」


 「あはははっ。今日もとびっきり美味しくしますね〜」


 永憐は冗談を言う蘭瑛に目を細める。

 蘭瑛から小机に置いておいた茶杯を渡され、永憐はまた一気に飲み干した。


 するとすぐに、蘭瑛から桂花糕グイホアガオを差し出される。


 「お口直しに食べます?六華鳳宗でよく作ってるやつで、医局の厨房を借りて作ってみました。あ、でも…永憐様は他人の作った物は食べないんでしたっけ?じゃ、要らな…」


 永憐は、桂花糕を引っ込めようとする蘭瑛の手を咄嗟に掴む。


 「…もらう」


 そう言って永憐は蘭瑛の手を掴んだまま、自分の口元に桂花糕を持っていき、一口口に含んだ。


 「ど、どうですか?」


 「…美味い」


 「もしかして、甘いのお好きですか?」


 「…うん」


 蘭瑛にクスッと笑われ、永憐は「何がおかしい」と尋ねる。「いえ、甘い物好きには見えなくて〜」と、また蘭瑛は笑い出す。その笑みは見てて飽きないほど豊かで、自分に無いものだと永憐は思った。


 「では、永憐様。私は医局に行くので、これで失礼します

。夜の分の薬はここに置いておきますね。大丈夫そうなら飲まなくていいので」


 「分かった。……蘭瑛」


 くぐもった声で、永憐は部屋から出て行こうとする蘭瑛を止める。

 蘭瑛は「ん?」と首を傾げながら振り向く。


 「色々と世話になった。…ありがとう」


 突然、礼を言われた蘭瑛は目を丸くして驚いている。

 永憐はというと、自分から言っておいて気恥ずかしく目も合わせられないといった様子で、珍しく目を泳がせていた。

 蘭瑛は永憐のそんな姿を見兼ねて「こちらこそ」と微笑み、永憐の部屋を出て行った。

 永憐は、二度と自分の冷めた顔に笑みを浮かべることなどないと思っていたが、何かが触れるように口角が僅かに揺れ動いたのを感じた。


 しばらくすると、宇辰が部屋にやって来る。


 「永憐様、体調はいかがですか?蘭瑛先生のおかげで、随分と顔色は良くなったように思いますが」


 「うん。もう平気だ」


 宇辰は安堵の笑みを見せ、言葉を繋ぐ。


 「宋武帝がお呼びです。行けますか?」


 「うん。分かった。すぐに行く」


 永憐は白い中衣から青い道服に着替え、宇辰と一緒に紫王殿へ向かった。

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