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第五話 永訣


 今日は一段と蒸し暑い夜だった。

 雲が月を覆い、ぼんやりとした光が宋長安の夜空を照らす。


 蘭瑛ランイン秀綾シュウリンは普段通り食堂で夕餉ゆうげをし、いつも通りの他愛もない会話をしながら、一緒に湯浴みをしていた。

 秀綾の口の中で、蘭瑛が作った喉飴が今日も転がっている。


 「秀綾、もう咳出ないでしょ?」


 「うん。ほぉなんだけど、おいひぃ〜からやめらんないのー」


 秀綾は口の中で左右に飴を転がしながら話す。


 「結構、苦くない?強い生薬入ってるからやめた方がいいって〜」


 秀綾は「いいの〜」と言って、味わうように飴を舐め続けた。

 蘭瑛は湯船に身体を浸しながら話を続ける。


 「そういえば、永憐ヨンリェン様にも飴のこと聞かれたんだよね。色んな人に配っているのか?って」


 「何?永憐様にも渡してるの?」


 「うん。以前、体調崩された時に渡して以来、継続的に」


 秀綾は顔をニヤつかせて続けた。


 「へぇ〜、ってことは俺だけじゃないのかって嫉妬したんだ」


 「ん?嫉妬?ん〜、そんな風には見えなかったけどなぁ〜」


 秀綾は「あんた鈍感だから…」と付け加えた。

 蘭瑛のポカンとした顔を見ながら秀綾は続ける。


 「にしても永憐様、よく舐めれるね。私好きだから舐めれるけど、コレ結構苦いじゃん?」


 「永憐様には甘く作ってる」


 「え?なにそれ」と秀綾は驚いた様子で蘭瑛を見た。


 「ん?永憐様は甘いのお好きだから」


 しれっと答える蘭瑛を見た秀綾は、驚いて目を丸くした。

 秀綾は目を大きく見開いたまま続ける。


 「永憐様って、寡黙で堅物だって聞くし…潔癖で人に触れたりしないって聞くから、食事係りの作る物以外はてっきり食べないんだと思ってた。だって、永憐様を追いかけ回してる侍女たちが作った甘味の差し入れも、絶対に受け取らないって噂だよ!?」


 「まぁ確かに、最初はいらないって私も言われたけど…」


 (あの時そう言われて、少しイラッとしたんだっけ…)


 蘭瑛は永憐を看病していた時のことを思い出した。

 そして、蘭瑛は少しだけ顔を手拭いで濡らし、話を続ける。


 「でもさ、不特定多数の人から好意を持たれるのも大変そう。顔を表に出せば毎回毎回喚き散らされて、追いかけられてさ。あの美貌だと、いつ媚薬を盛られたっておかしくないから、受け取らないのも分かる気がする。あの人は色んな意味で大変そうだよ。たまに見せる寂しそうな顔とか、冷たい眼差しとか、誰にも言えない傷を抱えているように見える」


 どこか永憐のことを分かったような口振りで話す蘭瑛に、秀綾はまた更に驚いた。

 二人は髪を洗う場所に移動し、たっぷりの洗髪剤をつけて長い髪を洗う。背中を洗い合い、外の露天風呂に移動した。


 「蘭瑛、予備の髪紐持ってない?切れちゃってさ」


 「あ、ちょっと待ってて。持ってくる」


 蘭瑛はいつも衣に入れている予備の髪紐を取りに、脱衣場へ向かった。衣の袖から水晶の玉がついた髪紐を取り出し、秀綾の元へ向かう。


 「はい、秀綾」


 「いいの?こんな素敵なやつ使って」


 「いいよ、むしろあげる」


 「え?くれるの?本当に?嬉しい〜ありがと」


 秀綾は嬉しそうに水滴を落としながら、濡れた髪を縛った。ぼんやりとした月明かりに反射して、水晶が一瞬光る。 まるで命が吹き込まれ、微笑むかのように。


 「ねぇ、蘭瑛」


 「ん?」と蘭瑛は秀綾の方を向く。


 「永憐様はきっと、蘭瑛に心を開いてる。どんなことがあっても自らそれを閉ざしちゃダメだよ」


 「ん?閉ざしちゃダメ?何を?」


 蘭瑛は必死に宙を舞う小さな虫を、手で避けている。

 秀綾は怪訝そうに蘭瑛を見ては、溜め息をつく。

 そしてひと息ついて、蘭瑛のおでこに向かって軽く指を弾いた。


 「聞いてた?人の話ぃー!」


 「いったぁー!」


 蘭瑛の声が夜の帳に響き渡る。

 蘭瑛は仕返しするように、秀綾に湯をかけた。二人は子どものように互いに湯をかけ合い、蘭瑛と秀綾は笑い合った。

 それから二人は、星の見えない夜空を見上げながら露天風呂で少し話した後、いつも通り「おやすみ」と言ってそれぞれの部屋に戻った。



 翌日の早朝。

 大粒の雨が降り注ぎ、雨の音と蒸し蒸しとした暑さが肌に纏わりつく。蘭瑛はそんな蒸し暑さに目が覚めた。

 いつも通り支度をし、油傘をさして医局へ向かう。

 医局に着くと、珍しく秀綾が来ていない。皆、特に気にする様子もなく、蘭瑛も普段通り白茶を淹れた。


 するとそこに、とある男が息を荒げて医局に走ってきた。

 蘭瑛は驚き、「どうしたのですか?」と尋ねた。


 「はっ。はっ。はっ。先生方…すみません、至急来ていただけないでしょうか…。焼身遺体が…」


 「焼身遺体!?」


 蘭瑛はすぐに薄衣を羽織り、ジャン医官とジン医官と一緒にその男のあとを追った。

 小走りになりながら蘭瑛は男に尋ねる。


 「何があったのですか?どういう状況なんです?」


 「早朝、ゴミを捨てに来た侍女が、黒い手があると血相を変えて私の所に来ました。何事かと見に行ったら、まるこげになった人間の遺体が横たわっていたんです。手の大きさ的には恐らく女性かと…」


 その言葉を聞いて蘭瑛は胸騒ぎがした。

 知ってる人間じゃないことをただただ願う…。

 男に連れて来られた場所は、ゴミを焼却する処理場だった。野次馬の人集りが蘭瑛たちに気付き、道を開ける。


 「こちらです」


 男に言われたその先に目線を向けると、蘭瑛は絶句した。

 藁にかけられた黒焦げの腕が視界に入った。

 蘭瑛は口元に布を覆い、江医官の横に立つ。


 「藁を取ります…」


 男がそう言いながら遺体の上に掛けられていた藁をどかすと、惨い遺体が露わになった。生きていた時に何があったのか疑うほど、その遺体を見て皆が驚愕した。

 余程、強い外力が加わったのだろう。顔半分が酷く陥没し、骨盤の骨の関節を外されたのか片足は本来の位置ではなく捻れて反転している。背丈や骨の細さを見る限り、女性であることは間違いなさそうだが、どこか見覚えのある人物なのではないかと蘭瑛は疑った。

 蘭瑛はしゃがみ、頭部から肩へと順に手を伸ばし遺体に触れていく。すると、強く握られていた左手から黒い灰に覆われた丸い玉を見つけた。蘭瑛はまさか…と思い、近くにあった手洗い場の水でその玉を洗う。違うと信じたい。自分が持っていたものではないと…。しかし、蘭瑛の手の中から見えてきたのは、見覚えのある美しい水晶の玉だった。


 「江医官!秀綾は?!秀綾はどこにいる?!ちょっと探してきて!」


 「わ、分かったわ。ちょっと医局の部屋を見てくる」


 江医官はそう言って、医局の方へ走っていった。

 金医官が蘭瑛の側に近寄る。


 「…阿蘭アーラン。このご遺体って…、もしかして秀綾なの?」


 「…かもしれない。昨日、秀綾にこれをあげたの…」


 蘭瑛は金医官に水晶の玉を差し出した。

 金医官は酷く肩を落として落胆する。

 蘭瑛はしばらく、遺体のあちこちを観察し様々なことを推測した。


 (恐らく夜中に襲われ、顔を何かで殴られた。その後、関節を外し動けなくして生きたまま火に炙られた…という感じか…。誰がこんなことを…)


 蘭瑛が思考を巡らせていると、野次馬を跳ね除けるように江医官が帰ってきた。


 「阿蘭、ダメ。どこにもいないわ。ちょっと遺体に触れさせてちょうだい。何か分かるかも」


 江医官はこう見えて、死体から何かを読み解く特殊な術を持つ解剖医である。江医官はすぐ遺体の額に指を乗せ、何かを問うかのように念を送る。蘭瑛は静かに江医官の言葉を待った。


 「阿蘭アーラン…。阿綾アーリンで間違いないわ…。『蘭瑛にごめんねって伝えて』って…」


 「……っ」


 江医官の言葉に蘭瑛は震え、目から大粒の涙がこぼれ落ちる。

 蘭瑛は遺体の前で腰から抜け落ちるかのようにしゃがみ、「秀綾…」と言って陥没した黒い遺体の顔に触れた。


 「何があったの…?誰に何をされたの…?ねぇ…秀綾、起きて話してよ…」


 蘭瑛は目を真っ赤にして泣きじゃくるように尋ねた。江医官と金医官の目からも、悔しさと怒りを含めた涙がとめどなく流れている。


 こうして周りに集まった人たちと悲しみに暮れていると、不覚にもクスクスと笑う声が蘭瑛の耳に届いた。蘭瑛は不謹慎にも程があると涙を地面に飛ばすように顔を上げ、その声の主を探す。

 すると、朱色の衣に派手な髪飾りを揺らした女が、数名の侍女を引き連れて、扇子で顔半分を覆いながらニヤニヤとこちらを見ている。

 蘭瑛と目が合ったその女はすぐに扇子で顔全体を隠し、侍女の後ろに姿を隠した。

 蘭瑛はすぐに立ち上がり、裾を大きく揺らしながらその女の元へ向かう。血相を変えた蘭瑛を止めるかのように、侍女たちは蘭瑛の目の前に仁王立ちをして立ちはだかった。


 「忌わしい者を触れた手で、美朱妃ミンシュウヒ様に何か御用ですの?」


 「そうですわ。美朱妃様は美しく尊いお方なのです。あなたみたいな汚らしい医術者と話す時間など、ありませ…」


 蘭瑛は一人の侍女が横柄に仰いでいた扇子をバッと掻っ攫い、その扇子で血が出るほど思いっきり侍女の頬を引っ叩いた。


 「きゃ!な、何するのよ!?」


 「ごちゃごちゃうるせーんだよ。おい、そこの妓女みたいな女。隠れてないで出てこい」


 蘭瑛の荒げた口調に周り全体が驚いた。いつもの蘭瑛ではない。蘭瑛の赤く腫らした目は坐り、心の底から憤慨している様子が見て取れる。

 するとそこに蘭瑛の襟を掴もうと、横からもう一人の侍女が手を伸びてきた。しかし、蘭瑛は持ち前の護身術でその手を掴み、怒りのままに手首を捻り潰す。


 「痛ーい!」


 「邪魔なんだよ。怪我したくないなら手を出すな」


 「放しなさいよ!その手を!」


 また違う侍女が蘭瑛の肩に触れようとするが、蘭瑛は反対の手でその侍女の経穴けいけつを突き、気絶させた。

 美朱妃を庇っていた侍女たちが次々とやられ、地面にしゃがみ込んでいる。美朱妃の姿を捉えた蘭瑛は美朱妃の襟元を掴み、睨みをきかせて問いただす。


 「何を笑ってたんだ?」


 「わ、笑ってなんかいないわよ…」


 「笑ってただろう!人が焼けこげて死んでんだぞ!」


 蘭瑛の手に力が入る。美朱妃の襟元はますます乱れ、歪んでいく。


 「何か知っているんだろ?!言え!」


 「な、何も知る訳ないじゃない!そんな忌わしい者のことなど…」


 忌わしいという言葉に蘭瑛の額に青筋が浮かんだ。

 次の瞬間、蘭瑛は襟から手を離し、派手に着飾った美朱妃の髪飾りと髪を同時に掴んで、美朱妃を思いっきり地面に薙ぎ倒した。

 そしてそのまま痛いと泣き喚く美朱妃を、秀綾の遺体の側まで引き摺った。

 殺気を帯びた今の蘭瑛を止められる者は誰もいなかった。

 蘭瑛はまた美朱妃の髪を思いっきり持ち上げ、皆の前で新たに問いただす。


 「何か知っているなら教えていただけませんか?じゃないと、このままあなたを殺しちゃうかも」


 蘭瑛の殺気帯びた薄気味悪さに、美朱妃は怯え出す。


 「わ、私はただ…本当に焼かれちゃったんだと思って…」


 「焼かれちゃった?!」


 蘭瑛は語尾を跳ね上げ、眉間に皺を寄せた。

 蘭瑛は続ける。


 「誰かに頼んだのか?」


 「…だ、誰だっていいじゃない!」


 美朱妃は開き直るかのように、反撃に出た。

 蘭瑛の問いに反撃するかのように、美朱妃の目にも怒りが込められた。


 「頼まれたから頼んだのよ!何が悪い!この女が裏切るようなことをするから悪いんじゃない!自業自得よ!私は何もしていない。妃の私が自ら手を汚す訳ないじゃない!あんたも、こんな真似、ただで許されると思ったら大間違いよ!」


 蘭瑛の心に止められない殺意が芽生えた。

 両親を斬ったあの者に対する殺意とほぼ同じだ。

 蘭瑛は、勢いよく美朱妃を地面に倒し、跨ぐように馬乗りになった。


 「人の命を弄ぶような奴は、同じ目に遭ったらいい。それが一番同じ恐怖を味わえる。私は人を救うこともできるけれど、殺すこともできるんだよ。首をこうしたら苦しくて涙が止まらなくなるんだ。苦しいだろ?どうしようか。秀綾にしたようにこのまま目の中に蝋燭のロウを垂らして失明させて、お前の汚いその面を斧でかち割ってやろうか。そしてその後、火じゃなくて生きたまま薬で身体を溶かそうか…」


 蘭瑛の手は美朱妃の首の窮地を掴んでいた。

 あともう少し力を加えれば、恐らく美朱妃は息絶えてしまうだろう。蘭瑛の恐ろしい言葉の数々に、美朱妃は失禁していた。今まで、どれだけ甘やかされ、人の手を使い、数々の悪事を働いてきたのだろう。到底許すことなどできない!


 蘭瑛の手に徐々に力が加わる。

 美朱妃はもう涙と鼻水と涎で顔をベタベタに濡らし、どこから何が流れているか分からないほど、酷い有り様だった。


 するとそこに、いざという時にいつも現れる、凍てつく程の冷たさを纏った男が蘭瑛の手を掴んだ。


 「やめるんだ…。蘭瑛」


 「……」


 この声を聞くと、蘭瑛はいつも何故か押し殺していた感情が濁流の如く溢れ出し、涙が滲み出てきてしまう。蘭瑛の心は誰にも止められない怒りから、深い悲しみへと変わっていく。


 「お前を罪人にしたくない。その手を退かすんだ…」


 「……」


 蘭瑛は永憐に手を取られ、静かに美朱妃の首から手を離した。美朱妃は息も絶え絶えで、すぐに護衛たちに抱えられ宮殿に運ばれていった。

 蘭瑛は俯いたまま立ち上がり、永憐に向かって呟く。


 「…どうして、あなたという人がいるのに、こんな事が起こるんですか…。あなたは一体何をしてるんです?どうしてああいう妃たちを野放しにしてるんですか…」


 蘭瑛はどうしようもない悲しみから、永憐を責め立てた。 本当はあなたの胸元で泣きたい。泣きたいけれど責めるしかない。誰かのせいにして、この秀綾がいない残酷な現実から目を背けたかった。

 永憐は黙ったままだ。

 蘭瑛は手に拳を作り、永憐の胸を叩くように力強く叫んだ。


 「宋長安の人は、人の命をどれだけ無下にすれば気が済むのですか!いい加減にしてください!こんなこと、到底許されるものではありませんよ!私はあなたに何を言われようとこの件も、あの妃たちも、あなたも絶対に許しませんから!」


 「……」


 蘭瑛の怒声が大きく響く。いつかのあの日のように。   永憐はやはり黙ったまま何も言わない。

 ここにいる誰しもも、何も言えず佇んだ。

 蘭瑛は上衣を脱ぎながら向きを変え、秀綾の遺体に上衣を掛けて、六華導ろっかどうを施した。


 「…どうか導かれる者、心安らかに」


 蘭瑛は静かに立ち上がり、いつもの蘭瑛に戻った様子で口を開いた。


 「皆さん、お騒がせしました。秀綾の遺体の処理を手伝ってくださる方はいらっしゃいませんか?」


 「も、もちろんよ!阿蘭。私たちもするわ」


 「私共もお手伝いさせてもらいます!」


 江医官の指示に従い、近くにいた男たちは率先して秀綾の遺体を綺麗な布にくるみだした。そして、簡素な車に気を遣いながら遺体を優しく乗せる。


 「では、裏奥の墓地まで運びましょうか」


 「えぇ。お願い」


 江医官と金医官は男たちの後に続き、歩き始める。

 蘭瑛は永憐の横を無言で通り過ぎた。

 喧嘩別れした恋人のように、二人の距離は背を向けて遠くなっていった…。

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