翌朝。
馬に跨った
さすが、栄耀栄華と言われる橙仙南だ。
宋長安に初めて来た時に感じた感動が蘇る。
「永憐様、橙仙南ってこんなに素敵なんですね〜」
「そうだな。ここは、宋長安より
二人はしばらく馬に揺れ、いつも馬を預かってくれるという預託舎へ向かう。到着すると、各国の上級来賓の御馬がずらりと並び、皆大人しく主人を待っているようだ。
永憐は蘭瑛を馬から降ろし、馬の紐を門番へ授ける。
そして、二人はしばらくこの煌びやかな橙仙南の町を歩き、風情を愉しんだ。
すると食べ物に目がない蘭瑛は、ある食事処に目が留まった。
汁物屋から漂う美味しそうな匂いが、蘭瑛の食欲を誘う。
「永憐様、一緒に食べませんか?あそこの汁物屋で」
「うん」
蘭瑛は永憐の袖を引っ張り、人集りの多い食事処へ向かう。蘭瑛が店の扉を開けると、気前のいい女将が出迎えてくれた。
「いらっしゃい!あら、素敵なお嬢さんに素敵な郎君ね。こちらにどうぞ」
穏やかな笑みを湛えた女将に席を案内され、二人は並んで窓際に座る。
蘭瑛は鶏肉と根菜の汁物を二つ頼み、店の中をきょろきょろと見渡した。
「そんなに楽しいか?」
永憐は、茶を啜りながら落ち着いた様子で蘭瑛に尋ねる。
蘭瑛は破顔した顔を見せながら答えた。
「はいっ!だって、久しぶりに外に出れたんですよ〜。たまには羽を伸ばしたっていいじゃないですか〜」
「まぁ、そうだな」
永憐は窓枠から見える景色を遠目に眺めながら続ける。
「お前はやっぱり、宋長安は嫌か?」
唐突な質問に答えが詰まった。
「嫌ではないですけど…」
蘭瑛はそれ以上言葉を繋ぐことが出来なかった。
決して嫌な訳ではない…。梅林の食事は美味しいし、藍殿にいるという安心感もある。ただ、何となく寂しさを埋められないだけで…。
蘭瑛がそんな事を思っていると、頼んでいた熱々の鶏肉と根菜の汁物が運ばれてきた。
汁物の湯気が蘭瑛の気持ちを瞬く間に蒸発させる。
「さぁ、冷めないうちに食べましょう!」
蘭瑛は気まずい雰囲気にならぬよう、汁物に手を付けようとした刹那、永憐が自分の蓮根を一つ取って、蘭瑛の器に乗せた。
「好きだろ。蓮根」
「…何で知ってるんですか?」
「梅林に聞いた」
蘭瑛は口元を緩くしながら、白い歯をこぼして礼を言う。
(こうやって、しれっと優しさを見せるところがずるいんだよな…この人は)
蘭瑛はそう思いながら、永憐の優しさを口に入れるように蓮根を齧った。
しばらくして汁物を食べ終わると、後ろから気前のいい女将が蘭瑛に声を掛ける。
「ねぇ、もし良かったらこの紙持っていって!私の身内が宿屋を始めたの。もし、泊まるところに困ったらここに行ってみて」
「わぁ、いいんですか?ありがとうございます!いただいていきますね」
蘭瑛はそう言って、軽く目を通し、貰った紙を胸元に仕舞った。
そして、蘭瑛は先に店を出ていた永憐に駆け寄り、二人は橙仙南の正門まで向かう。
しばらく歩くと、華やかな金色の花模様の細工が施された橙仙南の正門・
人が多く行き交うこの花柳門は、宮廷と下町を繋ぐ唯一の門らしく、複数の門番が立って検問をしている。永憐は門番に宋長安の札を差し出し、二人分の通行の許可を得て進んでいく。
そしてようやく花柳門を潜り抜けると、開放的な情景に溶け込むようにして、美しい身なりをした長身の女性が、永憐に向かって手を振りながら近づいてきた。
「やだぁ〜
「……」
「ちょっと、なんか言ったらどうなの?!あ、もしかして私に見惚れちゃってる〜?」
「誤解を生むようなことを言うな」
しれっと交わす永憐に女はまた笑みを湛える。
蘭瑛は永憐とその女を交互に見て、知り合いか何かだと察し、ここは永憐から離れた方がいいと距離を置こうとした。
しかし、永憐はそれを拒むように蘭瑛の手首を掴み、硬い表情で「隣に居ればいい」と引き留める。
女は口元に手を当て、酷く驚いた様子だ。
「あら〜。あの堅物お兄さんが女の子の手に触れるなんて、信じらんな〜い!」
「もうやめないか、
女は口を尖らせ、鼻息をふんと吐きながら、美しい蝶が舞うように本来の姿へと変わっていく。
「もうちょっと付き合ってくれたってよくねぇ〜?ったく、つまんねーの。んで、その横の可愛い女の子は?」
深豊は薄く重なった袍を整えるように手でパタパタと払いながら、永憐に尋ねた。
「宋長安の御医、蘭瑛だ」
「へぇ〜、蘭ちゃんね!初めまして」
目を点にして茫然と突っ立っている蘭瑛に、深豊が手を差し出す。蘭瑛は慌ててその手を取り、握手をした。
「ねぇ、蘭ちゃん!俺の
「は、はい!大変驚きました!
「俺の何だ?」
永憐に質問された言葉に、蘭瑛は目を泳がせながら答える。
「よ、永憐様のお妃候補のお一人かと…」
「ぶははははははははっ!蘭ちゃん!冗談はよしてくれ〜。誰がこんな堅物の男と…」
深豊が蘭瑛の肩に触れようとした刹那、永憐か深豊の手首を掴み「堅物ですまなかったな」と阻止した。
「悪ぃ、悪ぃ。もう何もしない」
深豊は永憐に苦笑いを見せ、手を引っ込めながら続ける。
「お前を待ってたのは、こんな事をする為じゃないんだ。俺について来てくれ。
「分かった」
「蘭ちゃんもこの堅物の後ろについて来てね」
蘭瑛は「はい!」と言って、睨みを利かせてきた永憐の後ろを隠れるように歩いた。
艶やかな金色の宮殿をいくつか通り抜け、深豊は永憐と蘭瑛を、橙仙南の宮廷・
中に入り階段を登ると、そこには虚ろな表情を浮かべた橙武帝が、上座の上段で待っていた。
永憐を見るや否や、橙武帝は
「これはこれは国師殿。わざわざ来てもらって申し訳ないね。元気だったか?おや、お隣にいるのは君の客人かい?」
「ご無沙汰しております、橙武帝。こちらは、宋長安の御医でもある六華鳳宗の蘭瑛です。
橙武帝は「そうか。それは、すまないね…」と言いながら、眉間を揉みながら上座の階段から降りてくる。
「まぁまぁ、そこに座って話そうではないか」
そう言って、橙武帝は人工池が眺められる中段の座敷に皆を座らせた。
蘭瑛は人工池から咲き誇る数々の花を眺めながら、耳を傾ける。
橙武帝に忠実な永憐と深豊は、橙武帝に真剣な眼差しを向けた。
「実はな、何者かに命を狙われとってな。恐らく弟の目論みだと思うんだが、朱源陽は私を殺して橙仙南を配下に置きたいようだ。そこで、二人にはワシの護衛と悪党の抹消を命じたい。隣にいる君は、
蘭瑛は驚いたように目を見開く。
そして独り言のように尋ねた。
「秀沁兄様が来てるのですか?!」
「そうだ。お!秀沁たちがちょうど戻って来た。おい!秀沁をこちらに呼んでくれ」
橙武帝が近くにいた護衛に伝えると、その男はすぐに爽やかな茶の香りを漂わせてやって来た。
懐かしい茶の香り。幼い頃から馴染みのある香りだ。
香りに乗ってやって来た秀沁は、蘭瑛たちに向かって拱手する。
「お呼びに預かりました
頭を上げると、永憐に引けを取らない程の眉目秀麗な顔が露わになる。
秀沁は永憐にはない、朗らかな笑みを蘭瑛に見せた。
「蘭瑛。久しぶりだね。元気だった?」
「秀沁兄様…」
蘭瑛は久しぶりの再会に胸が熱くなった。
普段は、橙仙南の
秀沁は、蘭瑛の横にいた永憐に改めて頭を下げる。
「蘭瑛の横に、あの麗しき王国師殿がいらっしゃるとは。御高名はかねがね伺っております」
永憐も拱手をし、毅然とした態度で礼を言う。
秀沁は更に穏やかな笑みを浮かべて蘭瑛の腕を掴み、自分の元に引き寄せながら言葉を繋げる。
「上級の皆さまにはまだお話しがありましょう。私はこの者を連れて、医局へ戻ります。よろしいでしょうか?」
「あぁ、構わん。秀沁、引き続きよろしく頼むな」
橙武帝の言葉で、この場は解散となった。
橙武帝と残された二人は蘭瑛と秀沁を目で見送る。
「蘭瑛、足元気をつけて。僕の手握っていいから」
秀沁の優しく甘い声が聞こえてくる。
階段を下る際、秀沁は蘭瑛に手を差し出し、とても丁寧に動線を導いた。まるで、わざと誰かに見せつけているかのように。
すると、永憐は誰もが凍てつくような硬い表情で、秀沁と手を重ねている蘭瑛の後ろ姿を、険しい目つきで見つめていた。