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第二話 橙仙南


 翌朝。

 馬に跨った永憐ヨンリェン蘭瑛ランインは、梅林メイリンとパオに見送られながら宋長安そんちょうあんを後にした。縮地印しゅくちいんを結び、橙仙南とうせんなんの下町まで一気に進む。すると、活況に満ちた町並みが見え始め、永憐の背後に乗っていた蘭瑛は、目を泳がせるように景色を堪能した。

 さすが、栄耀栄華と言われる橙仙南だ。

 宋長安に初めて来た時に感じた感動が蘇る。


 「永憐様、橙仙南ってこんなに素敵なんですね〜」


 「そうだな。ここは、宋長安より富貴ふうきが多い。世に逢う生活を送ってる者ばかりだ」


 二人はしばらく馬に揺れ、いつも馬を預かってくれるという預託舎へ向かう。到着すると、各国の上級来賓の御馬がずらりと並び、皆大人しく主人を待っているようだ。

 永憐は蘭瑛を馬から降ろし、馬の紐を門番へ授ける。

 そして、二人はしばらくこの煌びやかな橙仙南の町を歩き、風情を愉しんだ。


 すると食べ物に目がない蘭瑛は、ある食事処に目が留まった。

 汁物屋から漂う美味しそうな匂いが、蘭瑛の食欲を誘う。


 「永憐様、一緒に食べませんか?あそこの汁物屋で」


 「うん」


 蘭瑛は永憐の袖を引っ張り、人集りの多い食事処へ向かう。蘭瑛が店の扉を開けると、気前のいい女将が出迎えてくれた。


 「いらっしゃい!あら、素敵なお嬢さんに素敵な郎君ね。こちらにどうぞ」


 穏やかな笑みを湛えた女将に席を案内され、二人は並んで窓際に座る。

 蘭瑛は鶏肉と根菜の汁物を二つ頼み、店の中をきょろきょろと見渡した。


 「そんなに楽しいか?」


 永憐は、茶を啜りながら落ち着いた様子で蘭瑛に尋ねる。

 蘭瑛は破顔した顔を見せながら答えた。


 「はいっ!だって、久しぶりに外に出れたんですよ〜。たまには羽を伸ばしたっていいじゃないですか〜」


 「まぁ、そうだな」


 永憐は窓枠から見える景色を遠目に眺めながら続ける。


 「お前はやっぱり、宋長安は嫌か?」


 唐突な質問に答えが詰まった。


 「嫌ではないですけど…」


 蘭瑛はそれ以上言葉を繋ぐことが出来なかった。

 決して嫌な訳ではない…。梅林の食事は美味しいし、藍殿にいるという安心感もある。ただ、何となく寂しさを埋められないだけで…。

 蘭瑛がそんな事を思っていると、頼んでいた熱々の鶏肉と根菜の汁物が運ばれてきた。

 汁物の湯気が蘭瑛の気持ちを瞬く間に蒸発させる。


 「さぁ、冷めないうちに食べましょう!」


 蘭瑛は気まずい雰囲気にならぬよう、汁物に手を付けようとした刹那、永憐が自分の蓮根を一つ取って、蘭瑛の器に乗せた。


 「好きだろ。蓮根」


 「…何で知ってるんですか?」


 「梅林に聞いた」


 蘭瑛は口元を緩くしながら、白い歯をこぼして礼を言う。


 (こうやって、しれっと優しさを見せるところがずるいんだよな…この人は)


 蘭瑛はそう思いながら、永憐の優しさを口に入れるように蓮根を齧った。

 しばらくして汁物を食べ終わると、後ろから気前のいい女将が蘭瑛に声を掛ける。


 「ねぇ、もし良かったらこの紙持っていって!私の身内が宿屋を始めたの。もし、泊まるところに困ったらここに行ってみて」


 「わぁ、いいんですか?ありがとうございます!いただいていきますね」


 蘭瑛はそう言って、軽く目を通し、貰った紙を胸元に仕舞った。

 そして、蘭瑛は先に店を出ていた永憐に駆け寄り、二人は橙仙南の正門まで向かう。

 しばらく歩くと、華やかな金色の花模様の細工が施された橙仙南の正門・花柳門かりゅうもんが見えてきた。蘭瑛は目を奪われるように、その大きさと細工の圧巻さを遠目から眺める。

 人が多く行き交うこの花柳門は、宮廷と下町を繋ぐ唯一の門らしく、複数の門番が立って検問をしている。永憐は門番に宋長安の札を差し出し、二人分の通行の許可を得て進んでいく。

 そしてようやく花柳門を潜り抜けると、開放的な情景に溶け込むようにして、美しい身なりをした長身の女性が、永憐に向かって手を振りながら近づいてきた。


 「やだぁ〜天藍テンラン。私に内緒で女の子と来るなんて〜、聞いてないわよ」


 「……」


 「ちょっと、なんか言ったらどうなの?!あ、もしかして私に見惚れちゃってる〜?」


 「誤解を生むようなことを言うな」


 しれっと交わす永憐に女はまた笑みを湛える。

 蘭瑛は永憐とその女を交互に見て、知り合いか何かだと察し、ここは永憐から離れた方がいいと距離を置こうとした。

 しかし、永憐はそれを拒むように蘭瑛の手首を掴み、硬い表情で「隣に居ればいい」と引き留める。

 女は口元に手を当て、酷く驚いた様子だ。


 「あら〜。あの堅物お兄さんが女の子の手に触れるなんて、信じらんな〜い!」


 「もうやめないか、深豊シェンフォン


 女は口を尖らせ、鼻息をふんと吐きながら、美しい蝶が舞うように本来の姿へと変わっていく。


 「もうちょっと付き合ってくれたってよくねぇ〜?ったく、つまんねーの。んで、その横の可愛い女の子は?」


 深豊は薄く重なった袍を整えるように手でパタパタと払いながら、永憐に尋ねた。


 「宋長安の御医、蘭瑛だ」


 「へぇ〜、蘭ちゃんね!初めまして」


 目を点にして茫然と突っ立っている蘭瑛に、深豊が手を差し出す。蘭瑛は慌ててその手を取り、握手をした。


 「ねぇ、蘭ちゃん!俺の変化へんげ術どうだった?なかなかの女っぷりだったでしょ?」


 「は、はい!大変驚きました!変化へんげ術だったのですね。とっても綺麗だったので、てっきり永憐様の…」


 「俺の何だ?」


 永憐に質問された言葉に、蘭瑛は目を泳がせながら答える。


 「よ、永憐様のお妃候補のお一人かと…」


 「ぶははははははははっ!蘭ちゃん!冗談はよしてくれ〜。誰がこんな堅物の男と…」


 深豊が蘭瑛の肩に触れようとした刹那、永憐か深豊の手首を掴み「堅物ですまなかったな」と阻止した。


 「悪ぃ、悪ぃ。もう何もしない」


 深豊は永憐に苦笑いを見せ、手を引っ込めながら続ける。


 「お前を待ってたのは、こんな事をする為じゃないんだ。俺について来てくれ。橙武帝とうぶていがお待ちだ」


 「分かった」


 「蘭ちゃんもこの堅物の後ろについて来てね」


 蘭瑛は「はい!」と言って、睨みを利かせてきた永憐の後ろを隠れるように歩いた。


 艶やかな金色の宮殿をいくつか通り抜け、深豊は永憐と蘭瑛を、橙仙南の宮廷・黄華殿おうかでんへ案内する。

 中に入り階段を登ると、そこには虚ろな表情を浮かべた橙武帝が、上座の上段で待っていた。

 永憐を見るや否や、橙武帝は変化へんげのように顔色を変え、笑みを湛える。


 「これはこれは国師殿。わざわざ来てもらって申し訳ないね。元気だったか?おや、お隣にいるのは君の客人かい?」


 「ご無沙汰しております、橙武帝。こちらは、宋長安の御医でもある六華鳳宗の蘭瑛です。赤潰疫せっかいえきが酷いと聞き、私が連れて参りました」


 橙武帝は「そうか。それは、すまないね…」と言いながら、眉間を揉みながら上座の階段から降りてくる。


 「まぁまぁ、そこに座って話そうではないか」


 そう言って、橙武帝は人工池が眺められる中段の座敷に皆を座らせた。

 蘭瑛は人工池から咲き誇る数々の花を眺めながら、耳を傾ける。

 橙武帝に忠実な永憐と深豊は、橙武帝に真剣な眼差しを向けた。


 「実はな、何者かに命を狙われとってな。恐らく弟の目論みだと思うんだが、朱源陽は私を殺して橙仙南を配下に置きたいようだ。そこで、二人にはワシの護衛と悪党の抹消を命じたい。隣にいる君は、玉針経宗ぎょくしんけいしゅう秀沁シウチンと、妻のことや赤潰疫の改善に努めて欲しい」


 蘭瑛は驚いたように目を見開く。

 そして独り言のように尋ねた。


 「秀沁兄様が来てるのですか?!」


 「そうだ。お!秀沁たちがちょうど戻って来た。おい!秀沁をこちらに呼んでくれ」


 橙武帝が近くにいた護衛に伝えると、その男はすぐに爽やかな茶の香りを漂わせてやって来た。

 懐かしい茶の香り。幼い頃から馴染みのある香りだ。

 香りに乗ってやって来た秀沁は、蘭瑛たちに向かって拱手する。


 「お呼びに預かりました玉針経宗ぎょくしんけいしゅう秀沁シウチンと申します」


 頭を上げると、永憐に引けを取らない程の眉目秀麗な顔が露わになる。

 秀沁は永憐にはない、朗らかな笑みを蘭瑛に見せた。


 「蘭瑛。久しぶりだね。元気だった?」


 「秀沁兄様…」


 蘭瑛は久しぶりの再会に胸が熱くなった。

 六花鳳宗ろっかほうしゅう玉針経宗ぎょくしんけいしゅうは昔から仲が良く、幼い頃から付き合いのある秀沁は蘭瑛の兄的存在だ。昔から、艶福家えんぷくかギョク様と言われ、医家の間では一躍目を光らせる存在だった。

 普段は、橙仙南の河南こうなんに屋敷を構え市井の医家として生活している秀沁だが、今日は橙武帝の妻・仙月シェンユエの様子を見に来たそうだ。

 秀沁は、蘭瑛の横にいた永憐に改めて頭を下げる。


 「蘭瑛の横に、あの麗しき王国師殿がいらっしゃるとは。御高名はかねがね伺っております」


 永憐も拱手をし、毅然とした態度で礼を言う。

 秀沁は更に穏やかな笑みを浮かべて蘭瑛の腕を掴み、自分の元に引き寄せながら言葉を繋げる。


 「上級の皆さまにはまだお話しがありましょう。私はこの者を連れて、医局へ戻ります。よろしいでしょうか?」


 「あぁ、構わん。秀沁、引き続きよろしく頼むな」


 橙武帝の言葉で、この場は解散となった。

 橙武帝と残された二人は蘭瑛と秀沁を目で見送る。


 「蘭瑛、足元気をつけて。僕の手握っていいから」


 秀沁の優しく甘い声が聞こえてくる。

 階段を下る際、秀沁は蘭瑛に手を差し出し、とても丁寧に動線を導いた。まるで、わざと誰かに見せつけているかのように。


 深豊シェンフォンがそっと永憐の様子を伺う。

 すると、永憐は誰もが凍てつくような硬い表情で、秀沁と手を重ねている蘭瑛の後ろ姿を、険しい目つきで見つめていた。

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