「大敵現るだな」
「何のことだ?」
棘なような目つきで言い返す
普段から感情の起伏を表に出さない者の怒気は恐ろしい。
するとその時、入り口から
「お〜!来たか
永憐は口元だけを緩ませ、返事は宋武帝に委ねた。
「はははっ。最近、よく言われます。それより、お元気そうで良かった。全く、気を揉むことばかりが続いて…」
「本当になぁ〜。
年長者は互いに溜め息を吐き合う。
近頃の世勢に、各国の疲弊度は増すばかりだ。
増え続ける
そんな会話を日が暮れるまでした後、橙武帝は気を利かせ小さな宴に皆を招待し、この
賑やかな宴は終わり、月明かりが雲に隠れるように黄華殿にうら寂しさが漂う。永憐もまた焦燥感に駆られていた。
初めて抱くこの感覚をどうにか落ち着かせる為、一杯の強い酒を飲んで寝台の上でただ目を瞑り続ける…。
すると、コンコンと部屋の扉を叩く音が聞こえてきた。
永憐はむくっと起き上がり、部屋の扉の前まで向かう。
「誰かそこにいるのか?」
「永憐様、蘭瑛です」
その声を聞いた永憐はそっと扉を開けた。
いつも見ている顔が目の前に現れた瞬間、漏れ出す安堵に思わず顔が緩みそうになったが、悟られぬよう精一杯抑える。
「何だ?」
「永憐様、宴の時から元気がないと思っていたので様子を見に来ました」
蘭瑛の陽だまりのような柔らかい笑みが、永憐の内側にある感情をくすぐる。ただ、ただ、その笑顔を自分のものだけにしたくて、誰にも見せないで欲しいという身勝手な独占欲が溢れ出す。
永憐は言葉に詰まり、揺れる碧眼で蘭瑛の瞳を見続けた。
「ん?どうしました?やっぱりどこか具合が悪いのでは…?」
蘭瑛の手がそっと永憐の頬に触れる。永憐はその華奢な手に自分の手を重ね、反対の手で蘭瑛の腰に手を回し、ぐっと自分の元に引き寄せた。
永憐と蘭瑛は互いに見つめ合い、揺れる視線に熱が籠る。
強い酔いすらも心地良いと感じるほど、身体中の感覚が熱を帯びて麻痺していく。
互いの顔が徐々に近づき、この日を待っていたかのような情熱的な吐息がぶつかり合う。
永憐はそのまま、蘭瑛の吐息を塞ぐように自分の唇を落とそうとした刹那、聞き馴染みのある声で名を呼ばれた。
永憐は咄嗟に蘭瑛を離し、普段通りの冷静さを装う。
二人の情熱的な空気を切り裂いたのは宇辰だった。
宇辰はすぐに状況を飲み込んだようで、慌てて頭を下げる。
「…こ、これは、申し訳ありません。お邪魔する気は…」
「いいから何だ?」
息を切らして走ってきた宇辰は、喉を潤すように唾を飲み込み続ける。
「…大変です!橙武帝と皇后様が何者かに殺されました…」
「何だと?!」
先程の情熱的な空気など一瞬で掻き消すほど、永憐と蘭瑛は驚愕した。
つい先程まで、互いに酒を交わし宴を共にしていたではないか!
「宇辰!案内しろ。蘭瑛もついて来い」
「はい!」
永憐と蘭瑛は宇辰の後に続き、橙武帝の住居となっている宮殿へ向かう。
中に入るや否や、目を疑うほどの痛ましい光景が目の前に飛び込んでくる!二人は何者かに激しく腹を抉られたのであろう。内臓が血飛沫と同時に各方面に飛び散り、橙武帝の顔には
「蘭瑛!こっちに来て六華術の力を貸してくれ!」
「そう、そんな感じで続けてくれ」
「うん」
「できる医家になったな蘭瑛〜、偉いぞ。後でうんと褒めてやらなきゃな」
とんだ惨状であるにも関わらず、秀沁はまた爽やかな笑みを蘭瑛に見せる。
二人の施術は一寸のズレもなく、まるで医家同士である秀沁の両親のようだ。
そんな二人の様子を見ていた永憐に当然出る幕は無く、何が起きたのかを深豊と護衛たちから聞く他無かった。
朝日が昇り始め、小鳥のさえずりが無情にも新しい朝を連れて来る。
翌朝まで秀沁たちは懸命に施術をし時間を費やしたが、残念ながらどちらの命も救うことはできなかった。
どんな医術を持つ者でも、救える命には限りがある。
蘭瑛は久しぶりに無念さを抱き、疲労困憊で放心状態だった。
遺体をなるべく綺麗にし、護衛たちは橙仙南の歴代宗主たちが眠る廟へと遺体を運び出す。悲しみに暮れる橙武帝の一人娘・
誰も励ます言葉を見つけられず、ただただ黙って俯くしかない。
永憐は蘭瑛の元に行き、部屋で休むよう伝える。
すると横にいた秀沁が得意げな笑みを見せて言った。
「王国師殿、ご心配なさらなくても大丈夫ですよ。蘭瑛は私が連れて行きますから。何なら私の部屋で預かりますし、王国師殿の心配には及びません」
永憐の目つきが氷瀑の先のように尖っていく。
しかし、永憐もこの後色々と年長者たちと集まって話さなければならない。何があったのかまるで興味のない橙武帝の弟・
永憐は気を取り直し、毅然とした態度で一言、秀沁に返した。
「では、お願いします。
秀沁の笑みが僅かに崩れたのを見届けて、永憐は笑いを堪えている深豊と穏やかな表情を浮かべた宇辰を連れて、この惨状の部屋を後にした。
永憐たちが宮殿の外を歩いていると、偶然なのか必然なのか朱源陽の
「これはこれは、
「端栄、何故お前がここに来ている?」
「橙武帝が昨晩亡くなられたと伺ったので…」
端栄は敵対視できない程、哀れみの表情を見せる。
しかし永憐は、強烈な違和感を抱き、端栄の口元が僅かに緩んだのを見過ごさなかった。
端栄は続ける。
「これから世勢は一体どうなることやら〜。どのようになるか分かりませんが、今まで通りという訳にはいかないでしょう。四国会の統治が保たれるかどうかも、気になるところですね。おっと、長々と失礼いたしました。またゆっくりお話ししましょう王国師」
「待て。一つ聞きたいことがある」
「何でしょう?」
端栄は薄気味悪い笑みを湛えて振り返る。
永憐は少し間を置いて尋ねた。
「朱源陽に
「天京?さぁ〜、そんな男の名は聞いたことありませんね。近頃、
「そうか…」
「お役立てず、申し訳ありません。それでは皆さま、私はここで」
そう言って、端栄は拱手をして足早に去っていった。
横にいた深豊が不満げに口を開く。
「あの野郎、お高くとまりやがって。いつかあの口を塞いでやっからな!」
「やめろ、深豊。今はケンカをしてる場合じゃない」
永憐は大きく溜め息を吐いた後、これから奔流のごとき荒波を立てるであろう