「兄上がこのような惨虐に見舞われたというのに、どうして平然としていられるのだ?!」
「奴は死ぬべきして死んだんだ!私には関係ない!」
橙剛俊は憤慨し眼球を赤くして捲し立てる。
宋武帝も額に青筋を浮かべて、今にも殴りかかりそうな衝動を抑えながら拳を振るわせていた。
「お前、何か企んでいるのか?!」
「はっ。何を企んでいようと私の勝手だ。あんたには関係ない。今まで散々あいつに振り回され続けたんだ!今こそ橙仙南は自由になるべきだろ!あんたこそ橙仙南を心配してる場合か?あんな奴を心配する前に、自国の心配をしたらどうだ?倅を残してきたんだろ?大丈夫なのか?」
宋武帝は遂に堪忍袋が切れ、橙剛俊の顔を思いっきり殴った。橙武帝が今までどれだけの功績を残し、橙仙南の繁栄を守ってきたか。四国会の統治を守ってくれたのも橙武帝がいたからだ。
橙剛俊は床に伏して赤く腫れ上がった頬を摩る。
「お前とは桃園の儀を結べそうにない。お前が誰かと手を組みその者たちの所へ行くのなら勝手にしろ。しかし、橙武帝を侮辱するような真似は許さない!覚えておけ!」
そう言って宋武帝は踵を返す。
すると橙剛俊は唇を震わせながら、宋武帝の背中に向かって叫んだ。
「あんたこそ、これからどうなっても知らないからな!そこにいるお前らも出て行け!」
ずっと様子を伺っていた永憐の元に宋武帝が来る。
「永憐。私は先に帰る。頃合いを見て帰ってこい」
「分かりました。私たちもここを出よう」
永憐たちは宋武帝の後に続き、救いようのない愚か者を置いて宮殿を出た。
先に帰る宋武帝に宇辰が護衛として付き添うことになり、永憐と深豊は二人を見送る。そして、歩きながら深豊が口を開いた。
「まったく、どうなっちまうんだよ…これから」
深豊は溜め息を吐きながら、門の近くにある石畳みの階段に腰を下ろす。
永憐は何も言わず、遠くを見るように目線を上げて空を仰いだ。永憐の碧色の瞳には雲の模様が浮かび、わざと一抹の不安と恋慕を掻き消しているようにも見えた。
するとそこに、橙剛俊の倅・
「兄様方にお話しがございます…。お時間いただけませんか?」
「風宇殿下!こんな所にお一人で出歩いてはっ…」
深豊の言葉を遮るように人差し指を口元にあてて、風宇は静かにするよう深豊に促した。
「こちらへ一緒に来てください」
風宇に言われるがまま、永憐と深豊は風宇について行く。
少し離れた人気のない庭園を歩き、そこにぽつんと佇む小さな宮殿の中に案内される。
「ここは、私の別宅のようなもので一人でよくここに籠っては書物を読んでいます。どうぞ中へ入ってください」
宮殿の中は、本棚がずらりと並ぶだけで置いてあるものは橙仙南内に建てられてるとは思えないほど、簡素なもので溢れていた。
「茶をお出ししたいところですが、父のこともあるので私の信用も無いでしょう。疑われたりするのは嫌なのでこのままでお許しください」
それは構わないと、永憐と深豊は風宇と向かい合うように椅子に腰を下ろした。
風宇は神妙な面持ちで話し始める。
「こたびは、愚かな父上の背信のせいで、このようなことになってしまい申し訳ありません。実は数ヶ月前からずっと、叔父上に内緒で父上と朱陽帝と端栄様が何度も会っているところを見かけ、叔父上に相談しておりました。叔父上は朱源陽から術滅印を被り、近頃は術も上手く使えなくなったと私に嘆いていました。それからずっと叔父上は警戒心を強めていたのですが…。私は絶対、これらの一連の事件は、全て朱源陽の目論みだと思っています!橙仙南が朱源陽の配下になるだなんて…、そんなのは絶対…、絶対に認めたくはありません!」
風宇は抑えきれない気持ちを、永憐たちへ涙ながらに訴えた。永憐は静かに口を開き、言葉を繋げる。
「誰しもが、受け止め難い事案だと思っています。ここにいる深豊も然り、私も同じ気持ちです。宋武帝が恐らく何かしらの手立てを講じてくださると思います。それを今しばらくお待ちいただけませんか?」
宋武帝と橙武帝はいかなる時も、共に助け合い国同士を支え合ってきた。宋武帝がこのまま見過ごす訳がない。
すると、風宇に橙剛俊がお呼びであると知らせが届き、永憐は自分も一度宋長安へ戻り、宋武帝と手立てを考える事を誓い、ここは解散となった。
永憐と深豊は来た道を戻るように、開放的な庭を歩きながら二言三言話す。
「蘭ちゃん連れて早めにここを出ろ。何かあればまたお前に鶴紙を出す」
「うん…。ただ、あいつが俺と帰りたいかどうかだ」
「連れて帰んだよ!馬鹿!連れてきたのはお前なんだから」
深豊は喝を入れるかのように、永憐の肩を軽く叩く。
こうして、橙仙南での悲惨な悪事を何一つ解決できないまま、永憐は深豊は守衛たちに
医局の部屋の扉は開放されており、中を覗くと永憐を待っていたかのように蘭瑛は秀沁と茶を飲んでいた。
「あっ、永憐様!終わりましたか?」
「うん。帰ろうと思うんだが…」
「もうですか?!」
「うん」
蘭瑛は啜っていた茶を飲み干し、立ち上がって秀沁に礼を言う。
「秀沁兄様、私行かなきゃ。色々ありがとう。また会おうね!」
「え〜、寂しいなぁ〜蘭瑛…。別にここに居てくれたっていいんだよ?でもまぁ、また会えるだろうから大丈夫。その時はもっと長く一緒に居れると思うから」
秀沁は永憐の見てる前で、蘭瑛の長い茶色の横髪をそっと掴み、くるくると指先で絡める。そして頭をそっと撫でた。
永憐は「外で待っている」と言い、これ以上見てられないといった様子で部屋を出ていった。
蘭瑛は親しげに秀沁と別れ、仏頂面で腕を組み、外の壁に凭れて待っていた永憐の所へ向かう。
「お待たせしました。すみません」
「……」
永憐は冷たくあしらうかのように蘭瑛を見遣り、無言のまま先に歩いて行く。
すると、守衛と話し終えた深豊が慌てて蘭瑛に駆け寄り、優しく声を掛けた。
「蘭ちゃん、あいつのことよろしくね。あーやってまた、すぅ〜ぐ怒っちゃうから」
「やっぱり、永憐様怒ってるんですね。何かあったんですか?」
「はははっ。気にしなくていいよ。言葉が足んねー奴だからちょっと不器用なの。許してやって」
はて?といった様子で蘭瑛は首を傾げ、永憐の後ろ姿を眺めた。
それから永憐と蘭瑛は深豊と別れ、橙仙南を後にする。
どうやら帰りは縮地印を結ばず、少し遠回りをして帰るようだ。
蘭瑛は永憐の後ろについて行くしかなく、二人はしばらく無言のまま、履き物の擦れる音だけが無情に聞こえるように歩き続けた。
すると、永憐が膨らんだ沈黙に小さな穴を開けるように、小声で口を開く…。
「随分とあの医家と仲がいいんだな…」
「秀沁兄様ですか?」
永憐は真っ直ぐ向いたまま何の返事もしない。名前すら聞きたくないといった様子だ。蘭瑛は続ける。
「幼い頃から面倒を見てもらっていたので、兄の様な存在です。久しぶりに会ったので色々話していただけですよ」
「そうか…」
永憐はそれっきり何も言わなくなった。また二人に気まずい沈黙が流れる。近くにいるのに遠くに感じるというのは正にこういう事を言うのだろう。
二人の会話は元々そんなに長くは続かないが、今日は二人の間に見えない壁があるようだ。
しかし、橙仙南の下町を抜け、林道に入った時だった。
違う壁が立ちはだかっているかのように、永憐が突然足を止めた。
「何かいる…」
「な、何ですか…」
蘭瑛は慌てて永憐の背後にくっつき、永憐の袖を掴む。
永憐は背後にいる蘭瑛を守りながら、スッと
すると後ろにいた蘭瑛を目掛けて、一筋の光芒が過った。
永憐はそれに気づき、すぐに蘭瑛を脇に抱え袍を翻し、永冠で光芒を遮った。
剣先の感触、探知術で感じる妖気、永憐はすぐに正体を見破った。
「出てこい、玄天遊…」
永憐は夕陽を背に浮かび出てきた黒影を見た瞬間、余りの衝撃に最後の言葉を詰まらせる。
永憐たちの目の前に現れたのは、端栄だった。