森嶋悠人は宮川の警察手帳を確認すると、何処かホッとしたような表情を浮かべた。
その後、宮川から提案された事情聴取にもほとんど何も話さずに快諾し、そのまま警視庁の取調室まで同行することになる。
取調室に座した森嶋は、非常に落ち着いた印象だった。
感情の僅かな機微すら揺らがせることのない雰囲気。表情はまっすぐと取調室の扉を見据えていて、自分がどうしてここにいるのかも理解している様子すらあった。
そんな態度に対して、彼の体は異様な状態であった。
左手首は完全に切断されており、にも関わらず傷が塞がっているのか自然な状態に見える。
森嶋の振る舞いも遠因であるとは思われるが、対面したとしても注視しなければ、手首の欠損に気が付かないかもしれない。
森嶋が取調室に到着しておよそ十数分。そんな彼の様子をマジックミラー越しに確認していたのは宮川だけではない。捜査一課長である新井もまた、その場にいて森嶋のことを見ていた。
「あれが手首の持ち主か……それで、お前の見立ては?」
多忙な新井が時間を作って森嶋の取り調べの状況を把握しているのは、一連の事件の報告書に目を通しているからである。
裏付けのない突飛な内容。そんな印象になる内容であっても、新井はしっかりと状況を理解したうえで、宮川へ状況説明を求めた。
手首が発見されたという事実はあれど、現状そこから先の犯人像や目的などの物証は何一つとして存在しない。
出てきたのは事件の関与が疑われる自殺遺体が出てきたことだけである。それすらも「確実に事件が関係している」と言えるものはない。
捜査と言う進行状況で、現段階を表現するのであれば、「ほとんど有効な手がかりは発見できておらず、事件に関係しているかもしれない」程度の段階にすぎない。
そんな状態であっても、新井が爪の先程度の話を聞きに時間を作っているのは、「森嶋が手首の持ち主である」からだ。
状況証拠はなくても、被害者が生存しており、そこから証言が出てくれば、捜査の段階は大きく前進する。
明確に被害者がいて、刑事事件としての方向性が定まったということになるからだ。
それはすなわち、今まで「事件の可能性がある」だったものが、「事件である」と判断されることに等しい。
故に、ここから先の組織としての行動はより慎重にならざるを得ない。
明確に警察組織に責任が生じることになるため、確実な状況の精査が前提となってくる。
もちろん、森嶋のあらゆる言動については正式な形で記録され、彼に何があったのかがこれから確認されていく。
新井は宮川に問うのは、「事件の確度と透明性」に加えて、「これからのこと」も含まれていた。
「現在進行系で、発見された手首と森嶋悠人のDNAを照合しています。これから彼にあの手首のことや送られてきたこと、事件概要を把握したうえで正式な手続きを経て犯人検挙を目的に捜査します。もしかしたら、彼から具体的な犯人名や人物像が明らかになるかもしれません。そうなれば大規模な捜査とはならずとも、少人数での捜査に切り替えたうえで、犯人検挙に臨みます」
「……そうだな。森嶋の態度を見るに、一連の犯人に対しネガティブな感情を抱いていない可能性もある。十分に留意したうえで、できるだけ最低限の人員で捜査に臨むように。以上」
宮川と新井は、会話すらも最低限に留めたうえで取調室を後にして、各々の職務に戻る事となる。
どちらもベテランの刑事であるということから、二人の意図は一致する。
宮川としては、正式な手続きを踏み、一定の人員が入ってくることは良いことだけではない。
情報の共有や事件関係者の関係構築など、新しい人員が入ることで必要な時間もある。それは「捜査の迅速性」を壊す恐れがあるためあまり好ましい話ではなかった。
そうでなくとも、これまでの事件内容を共有して、方向性をまとめるなどの対応は必要になる。
対する新井もまた同じである。これまで捜査への参加が乏しかった宮川の事件を引き継いでまで、他の刑事に負担を強いるのはチームとして不満が噴出しかねないうえ、現在別の大規模な捜査がなされている。
この状況では最低限の人数で、今まで通りに捜査を進行することが適切であろう。
本来であれば刑事は単独での捜査は行わない。いわばこの状況は、二人の大ベテランの思惑がグレーゾーンで交錯した結果の出来事だ。
それはつまり、組織としての動きに注視しなくてはならない宮川にとって、第一の壁を乗り越えることに成功したということだ。
宮川はせわしなく取調室の扉を開き、森嶋の眼の前に座った。
一方の森嶋は全く表情を変えることなく、落ち着いた様子を保ち続けている。
だが宮川は、その森嶋の態度が一辺倒に、「落ち着いている」のではないと気がつく。
真正面から相手のことを観察することで、その表情がどこか虚ろだということが見て取れた。今までの態度はむしろ、「何に対しても興味がない」と表現するほうが適切だろう。
落ち着いて見えるのは、彼自身がこの状況に虚無感を抱きながらも、咀嚼しようとしているから出た感情かもしれない。本質的な「投げやり感」が態度の端々で迸っていると感じたのは、この事件を追ってきた宮川だからこそであろう。
当然ながらこの推測がどの程度まで的を射ているのかなど、宮川はわからなかった。
ただ森嶋の態度は、「坂峠付近のバス停で彷徨っていた」という異質な行動を肯定するように見えたのは確かだった。
「まずは確認をさせてください。森嶋悠人さん、御本人ですね?」
「はい」
「単刀直入にお聞きします。先日、警視庁に送り主不明の不審物が届きました。そこには何者かの左手首が入っており、DNAの照合をしたところ、警察のデーターベースにあった貴方のDNAと合致しました。それについて、心当たりは?」
「……お、僕の手首が、ここに?」
意外な反応だった。
今まで完全に凪いでいた森嶋の感情が、そこで初めてさざ波を立てるように、感情の表面が揺れ動く。
宮川は即座に、今自分が続けた言葉から、森嶋の感情の水面に波紋が生じたことを解する。同時に何によって、その波紋が生まれたのかと思考を弄った。
複数の要素、森嶋の反応。微かに表情が動き、眼差しに生じた驚きの色。
揺れる感情から宮川が推察したのは、「想像と違う」という感情であった。
「えぇ。手首です。普通ではありえません。手首を失えば極めて高い確率で死に至ります。にも関わらず、貴方は今ここにいます。差し支えなければ、あの手首と、貴方の左手のことをお話しいただきたい」
「……手首は、手首……」
「ゆっくりで大丈夫です。そして、ここでは誰も貴方のことを責めません。誰かに聞かれることも、ありませんから」
本来の取り調べでは、こんな風に諭すことは珍しい。宮川にも多くない経験であった。
けれどなぜか、そんな言葉をかけてしまうたび、目に見えて森嶋はおかしくなる。先程まで虚無感に包まれていた表情には、狼狽が浮かび上がり、波紋は徐々に強くなっていた。
同時に宮川の頭の中で、三島の語った拷問の内容がフラッシュバックする。
それは、三島との会話の内容ではなかった。会話の中で紡がれた、実態を帯びた妄想。宮川自身が想起した、嫌な妄想に頭に浮かび消えていく。
一方の森嶋はというと、残った右手で左手の切断部を触っており、未だ話すことをためらっているようだった。
一般的な取り調べではここで、いろいろな情報を相手に提示して揺さぶりをかけていく。
相手が事件に関与しているということが明白であれば明白であるほど、その傾向は強くなると言えるだろう。
だが森嶋の場合は、彼の感じている正体不明の恐怖感から、話すことができない様子を理解する。
その時点で、ある程度長丁場になることは容易く予想することができた。宮川は静かに黙り込み、森嶋の語りが始まるのを待つ。
それからおよそ八分程度、宮川と森嶋の間のには気まずい沈黙が流れており、その沈黙を打ち破ったのは森嶋の方だった。
「……何処から話して言いのか、正直わかりません」
「どこからでも構いません。貴方に何があったのか、最初からお話いただければ、こちら側で必要なものを適宜、質問させていただきますから」
宮川は明確に「最初から」という部分に対して意図を持たせていた。
尋常じゃないほどの怯えと混乱。まず森嶋の感情を吐き出させることが必要だ。
ここで言う「最初から」は、スタートを設けない。森嶋が話したいところから話が始まり、そのままの流れで一連の事件の経緯について拾っていく。
恐らく、今の彼であればそれで話が通るはずだ。宮川の確信的な考え方は、刑事としての勘によるところが大きいものの、今回の場合では驚くほど効果的に作用することになる。
「……昔、事故を起こしたことがある。あの時は無免許で、子どもだった。その時に、人が死んじまった」
森嶋の選択は、恐らく自分の人生が一変したであろう、森嶋自身が起こしてしまった事件を語るところからだった。
口調が、明らかにこれまでと比べると砕けている。
その時点で宮川は、自分の選択が正しかったことを理解しながら、調書に筆を走らせて話を傾聴する。
「……こういっちゃ、最低なんだけど。最初は罪の意識とか、自分が悪いって感覚が全くなかった。家族仲があんまり良くなかったっていうのもあったけど、自分以外の人間がどうなろうが、って感じだったんだ。事故だって、そもそも俺が殺そうとして起こったことじゃない。確かに、酒飲んで運転したのはヤバかったけど、そんなのやってる奴は俺だけじゃない。だから俺も、別に、そんな大したことじゃ、って思っちまったんだ」
「それで、貴方は一度刑務所を経験してから社会復帰をしましたね?」
「あぁ。刑事さんなら知ってると思うけどさ、刑務所なんて本当、ろくでもないところだよ。クズとゴミの掃き溜めって、クズな俺が言う話じゃないけどさ。でも今思うと、刑務所ってちゃんと寝る場所があって、食べるものが出てきてすげぇなって思うんだ。社会に出て色々な奴と会ってきたから、ちゃんとした生活ができることって、滅多に無いんだなって思い知ったよ」
「高橋製鉄所でも、色々な人生の方がいましたからね。どうして、そこを辞めたんです? 高橋工場長、貴方のことを気にしていましたよ」
彼の勤めていた高橋製鉄所の話を出すと、森嶋は少々驚いたような顔をしているが、すぐに何かを察するような表情へと戻る。
森嶋は、自身に宮川がたどり着いた時点で、相応の調べをしていると直感したのだろう。
だからそれに対して動揺することなく、森嶋は自らの存在しない右手首を宮川へ見せて「これだよ」とようやく核心部に触れ始める。
「その手首は一体どうしたんです?」
「……人生の更生、だって聞いた気がする。だけど正直、あの時のことはよく覚えていない。いや、思い出したくない」
「森嶋さん、ここからの証言は重要になってきます。苦しいのは承知ですが、できるだけ、詳しく教えて下さい」
「刑務所のときから、俺のことを良くしてくれた人がいた。社会復帰をしてからも、時々その人と会って話すことがあったんだ。俺も社会に出て働き始めて、自分がしたことが重荷になり始めてきて、そのことを相談した時があった。その時に教えてくれたのが、更生の方法だったんだ」
宮川は自らの心臓が激しく高鳴る音を感じた。
正直なところ、森嶋が犯人のことを知っている可能性は低いと感じていた。あまりにも一方的な犯行であることに加えて、森嶋の欠損箇所があまりにも多すぎる。
その嗜虐的なやり方の時点で、犯人が素性を晒すようなことをしているとは思えなかった。
しかしながら、この語り口からすれば、恐らく森嶋は犯人のことも知っていて、しかも顔見知りだったかもしれない。
明確に、犯人への足がかりができた瞬間である。それでも宮川は、今までの経験から来る慢心への忌避を腹に決め込み、冷静に森嶋の話を傾聴する。
「更生の方法?」
「……そのことについて、知りたいって話を聞いた時にはもう遅かった。何処かはわからない。気がつけば、真っ白な部屋の中央の椅子に縛り付けられていた。正直何が起こったのか、自分でもわからなかった。だけどその人は、これから何をするか、俺に向かって話始めたんだ」
「一体、なにを?」
「今からするのは、自問自答だって。自分のことを考えて振り返り、反省をする……みたいな話だった気がする。なんだか長ったらしい話だったけど、正直俺はそんなことどうでも良くなるくらい、焦ってた」
「どうして?」
「必要なもの以外を、切り落とすって言われたから」
真っ白な部屋。欠損を想起させる表現。
宮川の頭の中で散々してきたであろう最悪の妄想が、今まさに頭の中で組み上げられていくような感覚を抱く。
同時に恐怖すら感じていた。
これから彼の口から話されることは、三島の語ったそれと、似たものかもしれない。ややもすれば、それ以上の惨憺たる状況が語られるかもしれない。とすれば、宮川の感情が揺らぐのも無理はなかった。
それでも、宮川は冷静さを装って話を調書に落とし込んでいく。
冷静に、俯瞰的に。そう心がけなければ、この状況を咀嚼し耐えうる事ができないように感じていたから。
「正直何言ってるのか、よくわからなかった。だけどその後はすぐに分かったよ。その人は俺に輸血の準備をして、何本か注射を打って準備が終われば、早速、俺の足の小指を切り落とした。どっちから先だったなんか覚えてない。もう、痛くて痛くて、その一本で声が枯れるくらい叫んだよ。自分が何されてるのかもわからなくて、当たり散らした。だけど、その時あの人は、こういった。君の事故で死んだ人間の痛みはどうだったんだろうね? って」
「その痛みを、貴方自身で味わうように仕向けた、ということですか?」
「小難しいことはわからねぇ。でも、真っ白な部屋に自分の血が、自然に乾くまでそのまま放置されるんだ。それで、あの人は部屋から出ていった。カチカチうるさい時計だけを置いていってな」
宮川はそこで、三島の考えから少しずつ変化が生じ始めていることに気がつく。
ここまでは、三島もほぼ同じ考え方だった。
少しずつ指先を切り落とし痛みを与える。だが、それだけでは人間が更生するなどには至らない。三島が感じた違和感の空白が、森嶋の口から出た言葉により埋まり始めていく。
「部屋には時計だけ。真っ白な部屋に、自分の血が流れてる。考えられるか? 一体自分に何が起こっているのかもわからない。このまま失血死するかもなんて思った時の怖さを。もちろん叫んださ。でも何時間とそんな状態が続けば、声を出そうって気持ちもなくなる。そうなりゃ聞こえてくるのは時計の、カチカチって音だけだ」
「……それから、犯人が戻ってきたのは?」
「それは覚えている。最初に足の指を落とされてきっかり六時間後だった。その頃にはもう声も出なかった。それで帰ってきたあの人は、こんな事をしたとは思えないような態度で、タバコを差し出してきたんだ」
ここに来て、タバコが話に出てきた時点で、宮川は無意識に彼の左手を一瞥する。
その視線に気がついたのか、森嶋は「気づいたかもしれねぇが」と話を続けた。
「届いた手首、指が何本かなかっただろう? どうしてだと思う?」
「……タバコを吸うための、指を切り落とされたから?」
「アンタも、あの人と同じような発想になったわけだ。そういうことさ。俺、利き手が右手なんだが、左手だけ自由にさせられてタバコを差し出された。その時、タバコを吸ったら指を切り落とすって言われて、最初はそりゃ吸わなかったさ。だけど、その時間が何時間も続けば、タバコが吸いたくて仕方がなくなる。気がついたら、手に取ってたよ。そしたら、このざまさ」
「指を、一本ずつ?」
「……あぁ。タバコを吸い終わると、まずは人差し指。もう一本タバコを挟んで、親指、最後に中指。その次は手首を丸ごと切り落とされた。そこまでやられれば、自分は何処かで死ぬんだと思ったんだが、これがなかなか死なないんだわ。血だって、あんなに沢山流れてるのにすぐに止まっちまうしな。もう、ただただ痛いって気持ちしか出てこないんだよ」
「ですが、貴方は生きて解放されています。どうやって、解放されたんです?」
森嶋はそこで首を縦に振る。「俺も考えるまで忘れていたよ」と自嘲すると、宮川は最初の話に戻ってくるように、「更生だ」と口に出す。
「……必要なのは、完全な更生をすることだった。そのために、俺は体のいろいろな所を失った」
「結局、何処までそれは続いたんです?」
「正直時間感覚はあんまりなかったから覚えてない。でも、痛みがずっと続けば、なんだか頭で考えていることが整理されてくるんだよ。昔あったこととか、自分がしちまったバカみたいなこととかも、全部思い出すんだ。で、足りない頭なりに考えてみるんだ。自分はどうしたかったとか、これからどうすればいいかとか、色々なことを」
森嶋の言葉はそこから途切れてしまう。恐らくは彼もそこから先につなぐ言葉がなかなか出てこないのだろう。
言語化できない感覚そのものが、森嶋を「完全な更生」の足がかりとなっているようだった。
当然、宮川は「完全な更生」がそれによって成されるなどとは考えてはいない。
だが、森嶋の態度や言葉を聞くに、この事件が彼に何かしらの「きっかけ」を与えているのは事実だったと確信する。
宮川が内容以上に気になっていたのは、森嶋が犯人に対して「あの人」という、何処か敬意を払った表現をしていることだった。普通、被害者が加害者にこのような言葉づかいをすることは稀である。
それこそ、特定の状況では過剰に犯人に肩入れするケースも見られるが、今回の場合はそのようなケースでもない。
にも関わらず、森嶋は犯人への表現を常に警戒しているようだった。その感覚が宮川にとっては大きな引っ掛かりとなっていた。
多分、これ以上事件当時のことについて聞くことは難しいだろう。
宮川はそう判断して、事件の核心へと迫り始める。
「森嶋さん、貴方に、そんなことをした犯人は、一体誰なんですか?」
「どうしても、言わなくては、いけませんか?」
そこで、森嶋の態度は再び急変する。
先のように、少しずつ元に戻っていくのではない。犯人の言う「完全な更生」を終えた森嶋へと変化するような感覚。それはもはや、強迫観念というべき代物であろう。
宮川は直感する。更生という大義を持って、森嶋へと接しており一定の信頼も持ち合わせる犯人像。
これまで散りばめられていた犯人像の中で、微かな違和感の滞留が、「父性的」という一言に収斂されるようだった。
そう、この犯人は「父性的」なのである。厳格で徹底的な縛りを加え、まるで我が子を服従させるようなやり方。そして森嶋は、その徹底的な父性に感化されるように、今の彼がある。
擬似的で、奇妙な親子の関係。
宮川はこの関係と近いものを長年見てきているような気がするが、それを思い出すことができない。キリキリと頭痛の軋む脳を鼓舞したところで答えは出てこず、引っかかりを残したまま沈黙は過ぎていく。
森嶋は頑なに、犯人の名前を告げることはしなかった。
そこからは永遠に続くような沈黙が流れ、宮川も限界を感じ始める。なにせ森嶋が押し黙ってから一時間以上が経過している。
こちらからの応答に対してもほとんど生返事になってしまっており、ここいらで一度休憩を挟もうかと思い始めていた時だった。
宮川の胸ポケットで、小さな振動が響き出す。それは宮川のスマホのバイブレーションであり、取調べ中ではあるが、その画面を一瞥する。
そこには、登録したことのない電話番号が羅列されていた。
「失礼、少しの間休憩とします」
本来取調べ中の電話は歓迎されるものではないが、宮川は今日に限ってその電話が天の恵みだと自嘲する。
森嶋との沈黙は、宮川の心臓をじりじりと締め上げ、強烈な負荷を与えていたからだ。
宮川は会釈をしながら取調室から抜け出し、廊下にてその電話に出ると、聞き覚えのある女性の声が電話越しに響いてくる。
「あの、突然お電話して申し訳ありません、長根と申します」
宮川はその電話の主の名前を聞いて驚いた。それは、不躾にも突然自宅を訪ねた、長根道江である。
この事件に巻き込まれて自殺をしたと思われる、木内の起こした強盗事件の被害者、長根亜希子の母親だ。どうしてここに来て、自分のスマホに連絡をよこしたのか分からず、宮川は間抜けな調子で電話に対応した。
「道江さんでしょうか? こちら宮川です。先日は突然お伺いをして失礼を……」
「とんでもありません、こちらこそ、急にお電話してごめんなさい。今、ちょっとよろしいですか?」
「えぇ、勿論こちらは大丈夫ですが、どうされました?」
「あの時宮川さん、確か木内と一緒にうちへ来た方のことをお聞きしましたよね? 思い出したんです、その人の名前を」
宮川はその言葉で、道江とのやり取りを思い出す。
被害者遺族である長根家を、その加害者である木内は訪れていた。その際にもう一人、木内の他に長根家を訪れたものがいたという。
宮川が長根家を訪れた際には、道江がその者の名前を思い出すことはなかったが、なんとここでその名前を思い出したという。
思わず叫んでしまいそうな感覚をぐっとこらえ、宮川は「本当ですか?」と冷静な素振りで聞き返す。
「そうなんですよ。私、貴方から名刺をいただいて思い出したんです。あの人も確か、名刺を下さった気が、なんて」
「そうだったんですか、それで、その方は一体?」
道江は宮川の動揺は恐らく届いていないであろう、ゆっくりな調子で答えた後、「こんなことでわざわざ連絡しちゃって」と丁寧に謝罪をする。
だが、道江が思い出したという男の名前は、宮川にとって予想もつかない名前だった。その衝撃は、驚きのあまり手に持ったスマホを滑り落としてしまいそうなほど大きい。
そんな宮川にとって、道江へ丁寧なお礼を告げて電話を切るという動作は、ここ数年で最も辛い出来事であった。
完全な更生。自問自答をさせる。森嶋の「あの人」という不自然な呼び方。
激しい脈動が、これらの要素の一つずつが、道江から聞いた「ある名前」によって繋がっていく。宮川は踵を返して取調室の扉を開き、森嶋の前に座り込んだ。
そして、宮川は最後の警告と言わんばかりに言葉を続ける。
「犯人について、見当がついています」
その言葉に森嶋はというと酷く驚いた様子であるが、意志は硬いと言わんばかり宮川から視線を外した。
そんな森嶋に対して、宮川は「ある名前」を口走る。
「……どうして、どうして知っている!?」
森嶋は慟哭の如き叫び声を上げた。その態度が、森嶋が口を閉ざしていた「犯人の名前」であることを証明する。
それにより、ようやく踏ん切りがついたのか、森嶋もまた自らの口で、「犯人の名前」を告げる。