森嶋の取り調べを終えた宮川は、ようやく森嶋の口から語られた衝撃的な犯人名を聞いて、心臓が早鐘を鳴らしていた。
むしろ、これまでの捜査の中で収集してきた情報から導き出せる犯人は、この人物を置いて他にはいないだろう。
最初の犯行、「切り落とした手首を警視庁に届けた」という時点から、犯人が持っている「プライドの高さ」が滲んでいる。
自分が間違ったことをしていないという強い気持ちと、捕まえられるものであれば捕まえてみろという挑発の念。
それらはすべて、「完全な更生」なる目的によって行われていたのだ。
自分の正しさを相手に知らしめるために行われているのであれば、それらの行動に合点がいく。
あえて、この行動を司法機関ではなく、警察機関に届けたのは、「自分がしていることが警察に捕まる行動」であると理解しているからだ。
それがあっても、自分のやっていることは正しいと主張しているかのように。
森嶋を始め多くの犯罪者に対し犯人は、恐らく同じようなことをしていたと考えられる。
徹底的な痛みと、時間をかけることによって生じる「考えるため」の時間。いわば思考の余白を与えることで、本人自身が納得した形の「更生」を考えさせるに至る。
これこそが、犯人が目指した「完全な更生」ということなのだろう。
尤も、そんなことが実際にまかり通っていて、犯人が更生するのであれば苦労しない。適当に自分の考えに合致している人間へ行った浅はかな犯行。
頭では理解していた。宮川はこれまでの沢山の経験から、犯罪を犯した人間が社会に出て、どんな道筋をたどっていくのかを知っている。知りすぎていた。
だから犯人に対して一定の共感と理解を抱いてしまったのだ。
結果として、犯人が自殺を選んだとしても、「罪を犯した自分の責任である」と吐き捨ててしまいたい気持ちもある。
宮川はそんな、腹の底に煮えきらない感情を再燃させながら、捜査一課長の新井へ犯人の報告を行う。
「犯人は、保護司・清島誠一郎です」
その言葉を聞いて新井は珍しく表情を険しくする。
森嶋が犯人だと示した人物、それは森嶋自身を担当したという保護司、清島誠一郎。
捜査の過程で宮川自身も話を聞いた人物であった。
電話越しでも理解できる清廉潔白な人間性と、真っ直ぐな人物像。到底「手首を切り落とす」という行動と結びつかない。だが、森嶋の話に出てきた「完全な更生」という言葉は、忌々しいほどに彼のイメージに羈束される。
「森嶋は、清島によって自らの手首や上下肢の指を切断されたと主張しています。森嶋を人間的に更生させるためという理由で、拷問じみた手法による犯行が行われ、最終的には一連のことを口外しないと言う約束で解放されたとのことです」
宮川の言葉を咀嚼しながら、新井は手元にある調書を握っている。
したためられている文字列は、「生々しすぎる」という言葉では足りないほど、森嶋への犯行が丁寧に書き込まれていた。
当然、新井もこれに対して真っ向から「ありえない」と主張することはできなかった。
宮川の刑事としての能力を買っていたし、状況証拠しかないことを除けば、一定の筋が立っているように思われる。
しかしながら、これは警察としても、司法としても重大な出来事になりうる。本来であれば加害者を守り導く存在が、こんな凄惨な事件を起こしたとなれば、社会的にも大きな激震となることは予想に容易いことだった。
その時点で、新井は逡巡する。藪を突いて出てきたものがヘビなどではなく、起こしてはならなかった獣だったことを。
だからこそ、新井は宮川に対して静かに名前を呼び、「お前の考えを聞かせろ」と威圧的な態度を見せる。
「調書にもあるように、森嶋本人の意思で犯人と接触しているため、拉致監禁は適用外でしょう。徹底的に生命維持に勤めているところから見ても、殺人罪での起訴も難しい。まずは状況から話を聞き、外堀を埋めての逮捕・起訴となりうるかと」
「これは難しく、慎重にならざるを得ない案件だ。これまでの経緯から、お前が犯人逮捕の要になることは間違いないが、お前のこれまでの勤務態度から、好ましく思わない面々もいることを理解しているか?」
「えぇ。また仰るとおり、現在で揃っている状況証拠だけでは、逮捕たる事由となりません。清島の自宅への家宅捜索による証拠物の押収及び実況見分が揃っての逮捕となるでしょう」
「その通りだ。今回の事件は、たまたまお前が最初の担当となり、ここまでの解明に至った。此処から先は刑事ではなく、個人として聞こう。どうして、この事件に対してここまでの熱を持った? 何年ものらりくらりとしていた宮川源一郎は、どうしてこの事件に肩入れした?」
新井は熱を帯びた口調で宮川の言葉を投げつける。
その言葉はまさにその通りであり、これまでの勤務態度を知っている人間ならば、宮川の行動に疑問符が浮かぶことだろう。
宮川は、事の発端を思い出す。
言うなれば、偶然だった。態度のでかい新人に煽られ、ちょっとやってやろうじゃないかと思った矢先、突いた藪から正体不明の怪物が現れた。
それをそのままにすることもできず、ただ闇雲に探すうち、久方ぶりに宮川は自分自身の感情と向き合うことになる。
宮川は向き合えば向き合うほど、「犯罪者」に対する自分の考えが不明瞭になっていった。この事件において、被害者と加害者は明らかに逆転している。そんな中で、宮川は自分の気持ちが確実に、「清島(はんにん)側」に寄っていることを知った。
煮えきらない感情と、刺すような新井の視線が、宮川は言葉に詰まらせる。
その瞬間、新井は凄まじい勢いで調書ごとテーブルを手のひらで叩きつけた。
直後、捲し立てるような口調で言い放つ。
「いい加減しろ! 貴様、舐めているのか? その程度を即答できない中でよく俺に清島の犯行を報告したな。分かりやすく聞いてやろう。お前は、犯罪者を追っているデカなら誰でも感じたことのある、完全な更生をしてくれる人間がいれば、なんてありもしない偶像に、何処までデカとしての線引ができているか、ということだ」
「……あぁ」
「警察組織である以上、自身の正義感ももちろん重要だ。だが最重要は、公正なテミス像の前に犯人を突き出させることただ一つ。俺たちは、法と正義を、刑事として昇華する。身勝手な正義は淘汰される。お前が一番、よく理解できているはずだ」
「かもしれないな」
「最後のチャンスだ。シンプルに聞いてやろう。お前の正義は?」
新井の言葉を受けて、半ば偶然でも発端となった新人の言葉を思い出す。
「解決できる事件が未解決のまま終わるのは本意ではないでしょう?」
あぁ、その通りだ。本心であるはずがない。
自分の正義とは、矜持とは、「刑事として事件を解決すること」である。
そんな当たり前が揺らぐのは、耄碌の証だろうと笑いこめば、自らの表情がみるみる変わっていくのを感じた。
「勘違いした正義感を、問い直す。俺たちが、いつもしていることだ」
ストレートな眼差しを向けた宮川に対して新井は、微かなほほ笑みを浮かべつつ首を縦に振る。
それはまさに、「清島に対する家宅捜索の許可」に他ならず、「いけ」と新井の声が室内に木霊した。