坂峠のパーキングエリアに停車させた宮川は、そのまま車内で一夜を明かすことになる。
静まり返ったパーキングエリアに明かりが灯るのは、長距離ドライバーの休息を知らせる時くらいのものだ。それすらもほんの僅かな喧騒に留まりすぐに黙り込む。
そもそも峠のパーキングエリアだ。いくら都内であるといっても郊外であり、所詮そんなところに来る人間はそれなりの理由の者しかいないだろう。
日が昇り始めて宮川は早速、坂峠付近に来た人間へ片っ端から森嶋悠人の写真を手に聞き込みを開始する。
こればかりは長年のブランクがあれど、宮川の経験が腕を鳴らした。
相手に対しての聞き方、返答への応対、細かなことはあれど聞き込みの質はそのまま刑事の力量の評価となる。
もちろん、本当に知らないことを聞き出すことはできないが、日常に潜む事件性を問いただすように、相手の記憶をくすぐるにはそれなりの経験値が必要だ。
質問において大切なのは、ある程度具体的であること。
それに加えて、こちら側が求めている内容を明確にすること。そして、先入観を与えないことだ。
まず最初に具体的に聞きたいことを尋ねる。一方で、その内容について、どのような意味で調べているのかは、相手の答えを完全に聞き終えてからにする。
当然、不必要なことについては話さない。捜査上の機密でもあるし、余計なことを話して先入観が生じてしまうと、聞き込みの信用性が激減するからだ。
日本人はその国民性からか、多くの場合は聞き込みに対して従順である。
同時に「役に立ちたい」という意思が存在することが多い。だからか事件に対して過剰に「都合の良い話」が出てくることがあるのだ。
恐らくこうだったかもしれない、ここであんな事件があったのなら、あの出来事はこうだった。
そんな風に、事実が先入観によって都合の良いものにすり替わってしまう可能性がある。厄介なのはそれに対して、自覚することが困難であることだ。そうなってしまえば有益な情報はそこで打ち止めになってしまう。
必要なものは、先入観のないただの事実である。にも関わらず、人間は勝手に都合の良い解釈を付け加えて真実を歪めてしまう。
刑事の聞き込みにおいて重要なのは、「事実をありのままに話してもらう」ということだ。
この技術は人によってノウハウが全く違う。それぞれの刑事がまとっている雰囲気や態度によって、相手に与える印象が違うからだ。
宮川は風貌と態度から、「柔和な雰囲気」を繕うことに長けている。
それは相手にとって親近感と、話しても良いという安心を抱かせる事ができる。
この場合、会話の糸口はすぐに切り開ける反面、過剰に相手が話を開示し、主観が生じてしまいがちなのが負の側面だ。
そのため聞き込みのコツは、自分の雰囲気や特性を理解し、負の側面を意識して帳尻を合わせること。宮川はそれを長年の経験によってカバーしていた。だからか、有益となりそうな内容をいち早く見つけ出すことができる。
今なおそれは変わらず、坂峠という僻地であっても、一日と待たずに「森嶋悠人」にに関連した情報を聞き出すことができた。
「あぁ……時々、バス停の辺りをうろついている人に似てる気がしますね」
そう証言したのは、坂峠にほど近い、閑散としたバス停の前に居を構える老婆だった。
都内とは思えないほど寂寥感に満ちたバス停と家屋の間で宮川は、その老婆に声を掛ける。
老婆は乾いたアスファルトを見つめながらもその声に返事をし、そう答えた。
「彼がこの辺りを? 失礼ですが、この辺りに人がいることは珍しいように見受けられますが……」
「えぇ。全くもって。この辺りに来るのなんて、登山家か走り込みをしている人くらいでしょうかねぇ。だからこの人は覚えていますよ。なーんか思い詰めた表情で、バスでここに来ては、歩いて帰っていってしまうんですよ」
歩いて帰る、とはいっても、ここから最寄りの駅までは甘く見積もって三十分はかかるだろう。バスの本数も日に何本かと考えると、不自然な行動極まりない。
宮川はそれを表情に晒すことなく、更に老婆の話を傾聴する。
「なんか変な服装でねぇ。軽い感じなのに、ずいぶんとたくさん入りそうなリュックサックを背負ってるんですよ。それで、山登りでもしようと悩んで、また引き返すような、不思議な子ですね」
「最後に、彼をご覧になったのはいつ頃で?」
「少し前かしら。いつだったかなぁ、でも最近も来てましたよ。同じように帰っちゃいましたけどね」
「またここに戻ってくるでしょうか?」
「来るんじゃないかしら。なんだかんだ、何日かに一回は見かける気がしますから」
その時、唸り声をあげてバスが停車する。
思わず反射的に振り返ると、空っぽのバスから運転手が顔を出して「おーい、アンタ、乗るの?」と気さくな態度を見せる。
都内のバスとは思えないほどバスは静まり返っており、人っ子一人いないなかで、運転手はバスを停車させている。
まるで昭和のような情景に宮川はくすぐったい感覚を抱くも、すぐに冷静さを取り戻し、バスに飛び乗って「一つ聞きたいことが」と運転手を制止した。
「おー、この好青年ならよくこのバスに乗るな」
宮川はとっさに「好青年」という形容に引っかかりを抱きそうになるが、経験がその感情を抑えこみ、「ご存知ですか?」と問い返す。
一方の運転手はまるで気にした素振りを見せることなく、気さくな調子で答えていく。
「二、三日に一回くらい乗ってくるね。一式丘から乗って来る子だよ」
「一式丘……失礼ですが、前回、彼を見たのは?」
「それこそ、昨日くらいだったかな。いつもこんなところで下りて、何処に行くんだろうね。アンタ、彼の知り合い?」
「えぇ……そんなところです。彼のことを探しているんですが……」
「あー、それなら一式丘バス停付近じゃないかな。バス停の近くのアパートから出てくるとこ見たからね」
宮川はあまりのとんとん拍子に、胃の中からなにかがせり上がってくる感覚を抱く。
この話を聞けば、今現在の時点で森嶋悠人は生存している。
手首が警視庁に届いてからようやく掴んだ森嶋への紐緒を手繰るように、宮川は二人に丁寧な挨拶を行いその場を去った。
一式丘。この路線のバスから考えると始発にほど近い駅のはずだ。
それだけ彼の自宅からは距離がある。にも関わらず森嶋は、わざわざバスを使ってまでこの坂峠に来ていた。
住人やバスの運転手から記憶される程度にそれを繰り返し、そのたびに踵を返す。
その彼の心境はどんなものがあったのだろうか。宮川は無意識に彼の腹の中を想像するが、すぐにその愚行を止めて車へとたどり着く。
いそいそとイグニッションにキーを回してエンジンを掛ける。
一式丘へは、車なら三十分もかからない。その僅かな時間の間、宮川は森嶋の生存を願い続けていた。
一式丘についてからは再びの聞き込みを行うが、そこから森嶋の自宅を特定するのは、数時間もあれば事足りた。
バスの運転手が自宅から出てくるところを発見した時点で、人間の視野角とバス停の位置関係で、可能性のある住宅は限定される。
その周囲で顔写真を持って聞き込みをすれば、森嶋が現在「野口アパート」であると判明するのは、そう難しい話じゃなかった。
表札のないアパートの一室の前に宮川は立って呼吸を整える。
この先に森嶋悠人がいるのだろうか。もし、手遅れだったとすれば? 扉を開けた先にぶらりと力なく垂れ下がる森嶋がいるかも知れない。そんな嫌な逡巡が頭に立ち込めた。
けれども冷静さを繕うように、宮川はインターホンを鳴らす。
反響する音が鼓膜に触れるまでの間すら、呼吸が止まるような緊迫を突き詰められている気がした。
しかしながら、その宮川の態度を嘲笑するように扉は音を立てて開かれる。そこには、粗末な服装をした、左手のない青年の姿があった。
「警視庁の宮川です。森嶋悠人さんですね?」