けれどその番号に寸分の狂いはなく、恐る恐るもう一度ドアを開けようとした所で、ドアが内側から勝手に開いた。
「お待ちしておりました、お嬢様」
男の声は低くも高くもなく透き通るように甘い。瞳の色は綺麗な薄紫で、肩ぐらいの長さの金に近い茶髪は無造作に真紅のリボンで結ばれているが、そんな無造作な出で立ちでさえも息を呑むほど美しく、中性的でどこか作り物めいた顔立ちはどう見ても日本人ではない。
「お、お嬢様?」
どういう事だ? 何も聞いていない。咄嗟にスマホを取り出そうとした私を見下ろして男は慌てる様子もなく柔らかく微笑む。
「ええ。絃お嬢様、ですよね?」
「そ、そうだけど……」
怖い。はっきり言って怖すぎる。また一歩後ずさろうとした私を見て、男は柔和な笑みのまま近づいてきたかと思うと、私の手から荷物を取り唐突に自己紹介を始めた。
「ああ、ご紹介が遅れてしまいました。私の名はセルヴィ・ハミルトン。セルヴィでも、親しい者だけに許される愛称のヴィーと呼んでくれても構いません。本日よりお嬢様の身の回りの世話をするよう、ご両親から言付かっております」
「聞いてない……のだけれど」
聞いてない。何にも聞いてないっ!
私は出来るだけ平静を装って慌てて脱げかけていたお嬢様の仮面を被りセルヴィを見上げると、セルヴィは何かを思い出したかのようにポケットから一枚の紙を取り出してそれを私に見せてくる。
一体なんの紙かと思いセルヴィに近づいて紙を見ると、そこには全文英語で何やらごちゃごちゃと書かれている。そしてその最後の所に確かにパパとママのサインが入っていた。
「これで疑いは晴れましたか?」
「……ええ、よろしくお願いするわ」
ぱっと見ただけなので何が書かれていたのかよく分からなかったが、家長の決定には何があっても従わなければならない。それが香住家の掟だ。
せっかく勝ち取った一人暮らしだと言うのに、ここでもまたお嬢様を演じなければならないのか。
私はうっかり地が出そうになるのを堪えながら視線をセルヴィが持っているお菓子の袋に移した。
とりあえずどうにかあの袋を取り返せないだろうか。その為に家を出てきたような物なのだ。そんな私の視線に気づいたのかどうかは分からないが、セルヴィはちらりと袋の中身を確認して驚いたような顔をする。
「ああ、なんて事! 一体誰にこんな物を売りつけられたのですか?」
「え!? い、いえ、別に売りつけられた訳では——」
言い淀む私を見てセルヴィがさらに言う。
「では自らお買いになられたのですか? ああ、なるほど。理解しました。お嬢様は経済の事を考えてこんなにも沢山のジャンクフードを購入してこられたのですね?」
「え、ええ、そうなの。せっかく一人暮らしを始めたのだし、少しでも社会に貢献したくて。ほ、ほほほ」
多分私は今引きつっているのだろうが、本当の事は言えない。決して。
「お嬢様は話に聞いていた通り素晴らしい方なのですね。感心しました。ではこちらは処分しても?」
どこか挑戦的な笑顔のセルヴィに私は思わず顔を上げたが、すぐに自分の立場を思い出してどうにか笑みを浮かべた。
「ええ!? え、ええ、もちろんよ……もちろん……」
あまりの事態に思わず語尾が涙声になってしまったが、私の言葉を聞いてセルヴィは玄関から廊下の奥へと移動して行く。
慌ててそれについていくと、セルヴィは正に今、キッチンのゴミ箱に買ってきた物を入れようとしていた。
それを見て私は気付けばセルヴィの腰に抱きついてその行為を止めようとしてしまう。
「待って! 捨てないで! それは私の——」
その言葉にセルヴィはクルリとこちらを向いて私を見下ろしてくる。
「私の? 何ですか?」
「わ、私の……私の初めての社会貢献の塊なの。それに捨ててしまうのは勿体ないわ。食べ物を無駄にするのはいけない事だもの。ね? そうよね!?」
必死になってセルヴィを止めようとする私を見下ろして、セルヴィが口の端を吊り上げた。その笑顔は何だかとても意地悪だ。
「確かにお嬢様の仰る通りですね。ではこれは私が責任を持って頂くとしましょう。大切なお嬢様にこんな物を食べさせる訳にはいきませんから」
「ひぃんっ!」
そう来たか! 私はとうとう悲鳴を飲み込めなくて目を泳がせた。
せめて、せめてハンバーガーのセットだけでも! 心はそう叫んでいると言うのに、長年染み付いたお嬢様の仮面は少しも剥がれようとはしてくれない。
「お嬢様?」
「た、助かるわ……ええ、とても助かる……わ」
それだけ言って私はよろよろとキッチンを出た。