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第50話『お世話係は慌てる』

「死にたくなければ助けを呼べばいい」


 そう言って僕は背後から女の首筋に噛みついて無理やり力を注ぎ込み、その場に放りだした。


 誰かが助ければこの女は生き延びるだろうが、誰も助けなければあのまま崩れて灰になる。


 けれどそれは自業自得だ。身の程も知らずに格上の者に力を無理やり供給されたらどうなるか、知っているだろうに。


 僕は音楽室へと急いだ。絃の話を聞いてあらかじめこの校舎の下調べをしておいて良かったと心の底から思う。


 音楽室に向かう途中、吸血鬼の気配が2つ消えた。一人はここから離れ、一人は灰になったようだ。


「絃っ!」


 僕が音楽室に入った時、絃はまるで糸が切れた人形のように首元から血を流してピアノの足元で仰向けに倒れていた。


 目を閉じる事さえ出来ないのか、虚ろな目で空虚に宙を見つめ、半開きになった唇には一切の色が無くなっている。脈は弱まり、鼓動も小さくか細くなっていた。怖かったのか頬には今も涙の筋が出来ている。


 僕はすぐさまスイの元へと向かい絃の治療を言いつけたが、やはり絃は失血死寸前にまで追い込まれていて、僕の血を使うことになった。


 嗜好生物に吸血鬼の血を大量に輸血するなど前代未聞だが、それ以外に方法が無いし、何よりも緊急事態だったのだ。


 絃の隣に転がって真っ白の天井を眺めていると、不意に音楽室で無機質に天井を眺めて倒れていた絃の顔が蘇った。


 どれほど怖かっただろうか。どれほど苦しかっただろうか。それは運んでいる時もずっと流していたあの涙が全てを物語っている。


 ジャンクフードを食べては感動して泣き、両親を苦しませたのは自分だと嘆き、迷路で僕が居ないと座り込み、僕と同じ匂いだと言って喜んだ絃。


 何よりも飼い主が僕じゃなくなるのは嫌だと叫んだ絃。


 絃の事を考えると知らぬ間に涙が溢れてくる。こんな事で僕が泣くなんて。それは自分でも思ったけれど耐えられなかった。絃は僕のだ。僕だけの絃だ。


 ベッドの上で力なく眠っている絃を見ると、一時だけ過ぎ去っていた怒りが蘇ってくる。


 僕は震える手で絃の頬を撫でると、全身の血が逆流しそうになるのを必死に堪えながら言った。


「……ぶち殺してくる」

「は?」

「僕の大切な嗜好生物を壊そうとした事は、死んで後悔してもらう」

「……あまり目立つなよ」


 スイは止めなかった。こうなった僕は止めても無駄だと言う事を知っているからだ。


 どの吸血鬼がやったのかを気配で辿る事など出来ない。であれば、この土地にいる吸血鬼を全て狩れば良い。


 それから数時間、血まみれで戻った僕の手には意識を失った吸血鬼が一人拘束されていた。


 吸血鬼は既に瀕死の状態だったが、まだ息はある。


 けれどそれも時間の問題だ。ここに来るまでに散々僕の力を流し込んだのだから。いずれ苦しみながらあのお化け屋敷の入口に居た女吸血鬼のように骨だけ残して消え去るだろう。


 その後病室に戻ると、絃の血色が少し戻り始めていた。僕はそんな絃に静かに供給のキスをする。


 ところが、僕の供給を渡しても絃の体が少しも回復しない。それが何を意味するのか、嗜好生物を研究し尽くした僕が知らない訳がない。


「スイ……書き換えられた」


 血の気が引く、とはこういう事を言うのだろう。僕は絃のカルテを書いていたスイにポツリと言った。


「は?」


 僕の言葉が信じられないのか、珍しくスイがポカンとした顔をしている。そんなスイに僕は叫んだ。


「まずい。スイ! あいつから早く血を抜き取るぞ!」

「あ、ああ!」


 まさかの事態に僕とスイは病室から駆け出し、急いで絃を襲った吸血鬼の元へ向かった。


 男は既に意識はなく、指先から崩れ始めている。


「お前、どれだけ力を流したんだ! 灰化が早すぎる!」

「仕方ないだろ! まさか痣まで書き換えられてるなんて思わなかったんだ!」


 いつだったか絃に言った冗談は、今さら現実になってしまった。


 僕達は輸血パックをいくつも男に繋ぎ、残っている全ての血を抜き取っていく。この男が死んでしまったら、もう絃に供給をする者がいなくなってしまう。そして絃はあっさりと灰になるだろう。痣の契約を書き換えるとは、そういう事だ。


 急いで残っていた男から全ての血を抜き取ると、男はすぐに音もなく灰になってしまった。


「タブレットは頼む」


 あの男の血を凝縮したタブレット。それだけが痣の契約を書き換えられた絃を生かすことが出来る。


「ああ」


 スイは短い返事をして輸血バッグを持って部屋を出ていった。


 すんでの所で処置を終えて病室に戻ると、まだ絃は眠っていた。

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