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第56話『お世話係は気にかける』

             ◇


『絃ちゃん観察日誌・5


 あんな事があっても絃ちゃんは僕の前でしか本音を漏らさない。スイが居ると上手く本音を隠してしまう。


 少し前の僕ならそれを嬉しく思ったんだろうけど、今回は違う。その虚勢がとても不安だ。僕はもしかたら今までちゃんと絃ちゃんの事を見ていなかったのではないだろうか。もしかしたら絃ちゃんは本当はもっと心の内を隠しているのではないだろうか。


 嗜好生物の事は何でも把握しておきたい。そうするのが飼い主の役目だと思っていたけれど、心の中までは見えない。それを見るには、僕はもっと絃ちゃんと信頼関係を築かなければならないのかもしれない。


 思わず本心を告げてしまったけれど、後悔はしていない。僕はずっと、僕だけの嗜好生物が欲しかったのだから。


 それから不安は他にもある。絃ちゃんが入院している間、僕は病院を出禁になってしまった……。絃ちゃんをスイと二人きりにさせるのが嫌だ。絃ちゃんには僕だけが居れば良い。これからもずっと』


 僕は日記にペンを走らせながらため息を落としてほんの数日前のことを思い出す。


 絃が目を覚ました時、それだけでもう他の事は一瞬どうでも良くなりそうになったけれど、痣を書き換えられ絃は心に大きなキズを負った。


「灰になったぐらいで許されると思うなよ」


 低く呟きながら病院に入っているコンビニで絃が気になると言っていたお菓子やカップ麺、ホットスナック、おにぎりを片っ端からカゴに入れていく。


 ああ、そうだ。ついでにあの有名チェーン店のカフェの新作も買っていこう。確かここの病院にも併設されていたはずだ。


 そんな事を考えながらレジを済ませて無駄に広い院内案内図を見ていると、若い看護師が声をかけてきた。


「あの、良かったらご案内しましょうか?」


 振り返ると看護師は僕を見上げて何か言いたげに視線を送ってくる。こういう顔は本当に嫌いだ。同胞と同じ、欲を孕んだこの目が色んな事を思い出させる。


「いや、大丈夫。もう見つけた」


 それだけ言って僕は歩き出した。大抵の吸血鬼はこういう時はチャンスだとばかりに人気の無い所へ相手を誘い込むが、もう僕にはそんな必要もない。


 絃の血を一度でも飲めば、きっと誰もが納得するはずだ。徹底管理されて生きてきた絃の血は最高級のマスクメロンのように甘く、とろりとした舌触りはまるで熟れきったマンゴーのように滑らかだから。


 だからこそ余計に許せないのだ。痣の契約を書き換えられた事が。


「でもそれだけじゃ無いんだよな」


 院内の中にある使用不可のエレベーターの中で本来は無いはずの4階を押して考え込む。


 絃でなければ。それは今も変わらないけれど、それだけじゃない。説明できない感情に僕は首を捻った。


 絃の為なら何でもしてやりたい。初めて絃を見つけたあの日から、初めて絃に受け入れられたあの日から、僕は絃に何でもしてやりたい。


「だって、泣いたんだ。僕でないと嫌だって……絃ちゃんは泣いたんだ」


 病院に荷物を預けた帰り、手の平を見つめながらハイヤーの中で呟いた。あんな風に泣かれたら、僕でないと嫌だなんて言われたら——。


 窓の外を流れる景色を見つめながらカップ麺を食べて目を輝かせていた絃を思い出す。


「可愛かったな。一生あんな顔させてたいんだけどな」


 誰にともなく呟いた言葉は誰にも伝わらない。それでも良かった。


 ただ、言いたかった。


             ◇


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