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第123話

             ◇

『絃ちゃん観察日記・18


 馬鹿だ。本当に馬鹿だ。僕を助ける為にあんな所を自分で傷つけるなんて、どうしたらそんな事が出来るんだ。


 そして僕はいつだって絃ちゃんに救われてばかりだ。意識を完全に失っていた僕は、恐らくもういつ死んでもおかしくない状態だったはずだった。


 けれど絃ちゃんの思い切った行動のおかげで僕は一命を取り留める事が出来た。感謝してもしきれない。未だかつてこんな形で主人を救った嗜好生物など居ただろうか? 


 そして今回の事で一つ分かった事がある。もう最後だからと思っていたからか、死の間際に立たされた時に僕が唯一後悔した事、そして心から欲しかったもの。それはどちらも絃ちゃんだった。


 セシルは何となくこの感情が分かると言っていたが、僕にもようやく分かった気がする。


 だけどそれを僕が認めるのは立場上、とても厳しい。


 ハミルトンの血を引くものとして子孫は必ず残さなければならないが、絃ちゃん以外をもう血と同様に欲しいと思えないのだ。絃ちゃんが吸血鬼であればどれほどに良かっただろうか。答えが分かった今、強くそう思う』


 スイに連れられて絃が部屋を出た後、僕は忘れないうちにスマホに急いで日記のメモを残した。そんな僕の腹の上にトンスケが飛び上がってきて、相変わらずブサイクな声で鳴く。


「お前も来てくれたのか」

「びあぁ」

「悪かったな。ありがとう」

「びあ」


 それだけ言ってトンスケは僕の足元に移動して丸くなった。本当に肝の座った猫だ。


 部屋にはまだ信じられないとでも言いたげな顔をしたサシャとセシルが佇んでいる。


「お前たちにも心配をかけたな」


 その声に弾かれたようにサシャが顔を上げて飛びついてきた。あのセシルですら涙を浮かべている。


「したよ! めちゃくちゃ心配したんだから! 絃なんて飛行機の中でずっと泣いてたんだよ!?」

「うるさくて敵いませんでした。しかしあの娘も思い切った事をしますね」

「全くだ」


 まさかセシルも絃が自分の舌を切り落とさんばかりの勢いで傷つけるとは思ってもいなかったのだろう。


 しばらくしてようやく絃とスイが戻ってきた。スイに叱られたのか、絃はしょんぼりした様子で部屋へ入ってきたが、僕を見るなり顔を輝かせる。


 その顔を見てようやく生きているのだと実感する事が出来た。


 手招きすると絃は小走りで駆け寄ってくるが、そんな様がいちいち可愛い。


「ありがとう、絃ちゃん。来てくれて」

「うん! でも怒ってるよ。嘘ついた事」

「……それはごめん。今回の事で僕は二度も君に助けられてしまった」

「二度? どういう意味?」


 首を傾げる絃を見て僕はスイと顔を見合わせて吹き出した。珍しくスイも笑いを堪えきれなかった様子で口元を抑えて肩を震わせている。


「なに? 兄貴もスイも何で笑ってるの?」

「いや、絃ちゃんに貰ったお守りのおかげで僕の心臓は守られたんだけど……ねぇ絃ちゃん、どうしてお守りに鰹節なんて入れたの?」

「っ! ま、まさか絃ってばあの一生懸命砕いてた鰹節……!」


 何か知っているのかサシャが絃を凝視しているが、当の本人はキョトンとしている。


「え? だって海外を旅行する人は皆、日本食が恋しくなるんでしょう? だから何にでも使えるし出汁が良いかなって……いけなかった?」


 絃は色んな意味で普通の人間とズレているが、まさかこんなズレ方をするとは流石の僕も思ってはいなかった。


「ふはっ! だからってあんな鰹節の塊を持って旅行する人なんて居ないよ! でもあれのおかげで僕の心臓は守られた。ありがとう」


 そう言って絃の前で両腕を広げると、絃が嬉しそうに僕の胸に飛び込んできた。


 ああ、この感触と匂いと温度。僕はこれが欲しくて仕方なかったんだ。


 しばらく絃を堪能していると、同じように僕を見つめていた絃が不意に顔を赤らめる。


「なに?」

「髪、短くなっちゃったね」


 どうやら絃は僕の髪が短くなってしまった事を気にしているらしい。随分と年相応の反応を見せた絃に僕は問いかけた。


「似合わない? 長いほうが良かった?」


 別に故意に伸ばしていた訳でも無かったが、絃があちらの方が好きだと言うのならまた伸ばすのもやぶさかではない。そう思ったのだけれど——。


「ううん、短いヴィーも格好良いよ。どっちも好き」

「っっっ!」


 何の衒いも無い絃の言葉に僕はその場で悶え、残りの三人は顔を見合わせて無言で部屋を出て行く。


 ようやく部屋に二人きりになり、僕は真顔で絃を見つめた。そんな僕に気づいたのか、絃も真剣な顔をして僕を見つめてくる。


「生きてて良かった」


 そっと僕の頬を撫でる絃の手は微かに震えていた。その手に自分の手を重ね手の平に軽いキスをすると、絃は耳まで真っ赤にしている。


「僕もそう思う。また、君に会えて良かった」


 その言葉に絃の目から涙がこぼれ落ちた。


「大丈夫だよ、絃ちゃん。怖くないよ。もう怖くないから」

「うん……うん!」


 いつもの言葉を告げると、絃はようやく安心したように僕に縋りついてきて静かに泣いていた。

           ◇

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