鈴緒が意図せぬ体当たりをかました男性は、しばし彼女を凝視する。
その間も見事な無表情で、眼鏡の奥の三白眼も冷ややかだ。どことなく爬虫類めいた顔である。
しかし加害者である鈴緒は、醒めた視線を注がれても一切怯まなかった。むしろ鼻にしわを作って、果敢に睨み返している。
先に視線を反らしたのは、意外にも男性の方だった。
「日向さん、きちんと前を見て歩くように」
無表情にお似合いの、抑揚がごっそり削げ落ちた読経のような低い声でのお説教だ。
「あー、はいはい。すみませんでしたー」
彼のこざっぱりとした忠告に、鈴緒はツンと顎を突き出して嫌味ったらしく返す。
隣の牧音は、この無礼千万な鈴緒の態度に猫目を見開いていた。
鈴緒の服の趣味は、たしかに派手だ。今日もオーガンジー素材の黒いミニワンピースに、赤いジャケットと同色のカラータイツ姿である。おまけに飴玉のようなまん丸のピアスは黄色い。自然界ならば絶対に毒を持っていそうな色味なうえ、兄に対しては毒づくことも多い。
しかし基本的には、礼節をわきまえた“よい子”なのだ。
そんな彼女が、自分に非があるにも関わらず、相手を威嚇するなんて珍事である。
鈴緒はぽかんと呆ける牧音の手を取り、速足で男性を追い越して共通教育棟へ向かった。追い抜きざま、キッと睨み返すのももちろん忘れない。
幸い講義には、開始時間前にギリギリ滑り込むことが出来た。広い講堂の、真ん中辺りの席に二人で座る。牧音はノートを取り出しながら、ためらいがちに鈴緒へ尋ねた。
「……鈴緒、あの職員さんと知り合い? なーんか、ギスギスしてたけど」
鈴緒の灰色がかった、青い瞳がじっとり半眼になる。
「違う、お兄ちゃんのお友達なだけ。わたしにとっては敵」
「敵ってなんで? ご飯食べられたコトあるとか?」
鈴緒の兄の緑郎は、二十五を過ぎた今も飲み屋で泥酔→路上で爆睡という恥知らずコースを隔週で実施している残念優男だ。その友人なら、赤の他人の飯を奪うぐらいやりかねない――牧音はそう考えたのだ。
しかし鈴緒は、ふくれっ面で首を二度ほど振る。
「ご飯盗られたぐらいで、そこまで恨まないよ。会うたび、さっきみたいな小言が酷くてうんざりするだけ」
「あー、なるほど」
ピカピカに磨かれた眼鏡といい、皺ひとつないスーツ姿といい無感動な顔といい、たしかに人当たりは厳しそうな男性だった。そんな人物からチクチク小言を賜っている鈴緒の姿も、容易に想像できる。牧音はついニヤリと口角を上げた。
「鈴緒って割と注意力散漫ってかドジだから、ああいう細かそうな人とは相性悪そうだね」
「ひょっとしてわたし、ディスられてる? ディスられたよね?」
「うん? 事実を言っただけだけど」
鈴緒は唇を尖らせ、頬杖を突いて笑う牧音に文句を言おうとした。
が、その前に眠そうな講師が入って来たため、話はそこで立ち消えとなる。そこそこ真面目に講義を受けている内、鈴緒のむかっ腹も落ち着いていく。
むしろ
(昨日は名前しか知らない人とデートして、よく分からない歴史好きおじさんと対談させられて、散々だったんだから。その分遊ぼう。いいえ、わたしは遊ばなければいけないのです)
と、謎の使命感を胸に抱いていた。
幸いにして今日の講義は、午前中の二コマだけだった。講義を終えた鈴緒は牧音と、もう一人の友人も誘って隣駅のショッピングモールへ向かった。
これといって目的はないものの、三人でダラダラと歩き回ってはお茶をし、生産性のない楽しい時間を過ごす。
フードコートの、全面がガラス張りになった壁際の席に座っていると、次の電車の時間を調べていた牧音が目を丸くする。
「ウチの大学の近くで、火事あったみたい」
コーラを飲んでいたもう一人の友人も、切れ長の目を見開いた。
「えぇっ、マジで? 大学とか大丈夫?」
「うん、すぐ消し止められたっぽいね。火元のマンションの何部屋かは駄目になったけど、死人は出てないって」
「おっ。不幸中のアレだね、アレ」
「うん、アレじゃなくて幸いな」
そう言って向けられた牧音のスマートフォンには、ヤシの木――ではなくフェニックスなる木がエントランスに植えられた、七階建てマンションの写真が映っている。
どうやら今朝、鈴緒が先見をした火事は最小限の被害に食い止められたようだ。
「命あっての物種だもんね」
安っぽい合板のテーブルに肘をつき、鈴緒もにんまりと笑った。
そうして電車の時間に合わせてショッピングモールを出て、ほのかな満足感を抱いて帰路についた。
が、鈴緒が幸せな心地でいられたのは、自宅の玄関を開けるまでだった。
石造りの玄関に、見覚えのない男性の革靴が置かれていた。かなり大きいし、ピカピカに磨かれている。
鈴緒はソワリとした、嫌な予感を覚えた。
それを振り払うように、顎の下で切り揃えた胡桃色の髪をふるりと揺らした。努めて革靴を視界から外しつつ、自分のブーツも脱いだ。スリッパを履き、廊下を進む。
自室へ向かう途中に設けられたリビングから、ドア越しに人の声がした。
兄の能天気な声と――酷く抑揚に欠ける、無感動な声がする。鈴緒は思わずギクリ、と足を止めてしまった。
先ほど靴を見かけた時に覚えた嫌な予感も、更に色濃くなり始めた。
おまけに鈴緒が動き出すより早く、リビングのドアが開かれる。ヨレヨレのスウェット姿の緑郎が、のほほんと笑って鈴緒を見つめた。
「おかえり、鈴緒。お客さん来てるよー」
(……わたしにとっては天敵なんだけど)
さすがにこの言葉は、鈴緒も飲み込んだ。
リビングのソファに座ってこちらを見つめる鈴緒の敵こと
鈴緒にとっては天敵というか大敵というか、因縁の相手であるけれど。