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3:巫女、悔し鳴きをする

 鈴緒と天敵もとい銀之介の初遭遇は、今から二年ほど前まで遡る。彼女が高校生の時のことだ。

 緑郎が彼を含めた友人数人を、夕食に招き入れたのがきっかけだった。友人とは外で遊ぶことの多い兄なので、なかなか珍しいなと思ったのを覚えている。

 初対面での第一印象は、少なくとも鈴緒側はそう悪いものではなかった。


 なにせ兄の、古くからの友人とは思えぬきちんとした身なりの男性だったのだ。表情は今と変わらず虚無で、上背もあって威圧感がすさまじいものの、真っ当な仕事に就いていそうという一点だけで

「どうぞこのまま、末永く兄の面倒を見てやってください。わたしの分もお願いします」

と、思わず平伏したくなったものだ。


 が、その好印象も緑郎が

「お前の職場の佐久芽大にさ、鈴緒も入りたがってるんだよねー」

と朗らかに言った直後に瓦解した。銀之介は無表情から、害虫でも見るような不機嫌丸出しの目になって一言だけ問いかけて来たのだ。

「君、本気か?」

 その声の温度からも、こんなアホそうな娘が合格できるわけないだろう、と蔑んでいることが丸見えだった。


 今にして思えば、銀之介は緑郎というアホの身内として鈴緒を見ているのだ。学力が同程度、と思われても仕方がないのかもしれないが――

 それでもあの瞬間、鈴緒は彼を敵と認定することを決意したのだ。ついでに、絶対に大学に合格してやろう、とも。


 二年前の決意は、今も継続中である。不必要に鈴緒から攻撃することはないものの、銀之介を見かけ次第威嚇し、距離を置く日々は続いている。

 今日もおざなりに頭だけ下げ、さっさと部屋に戻ろうとしたのだが

「あ、ちょっと待って。待ってよ、スズたまー。ちょっと話があるんだって」

ヘラヘラ笑う緑郎に呼び止められ、腕も掴まれた。彼が妹を「スズたま」と呼ぶ時はすなわち、何か頼みごとがある時だ。鈴緒は眉をひそめた。


「……何?」

「まあまあ、ひとまずさ、お座りなさいよ。ほら、お菓子もあるよー」

「そのお菓子、わたしが買ったのなんだけど」

 緑郎は不機嫌丸出しの妹を笑って受け流し、リビングへと招き入れた。お気に入りのカレ・ド・ショコラが勝手に開封されていたことにもムッとしてから一拍置いて、鈴緒は銀之介のそばに置かれたものに気付いた。


 でん、と置かれたものはキャリーケースだった。それも、海外旅行にも使えそうな大きさである。


 何故キャリーケースがここにあるのか、と鈴緒は更に顔をしかめる。彼女のしかめっ面を、銀之介は別の意味で解釈したらしい。

「部屋に運び入れる時に、水拭きはしている」

「あ、そう。お気遣いどうも」

 鈴緒は低い声での淡白な注釈に、最大限に素っ気なく返した。ついでにそっぽも向いて、彼と向かい合うソファの隅に座る。


 緑郎は彼女の隣に座り、わざとらしい揉み手を作った。

「ほら今朝さ、スズたまが火事を先見してくれたでしょ?」

「したね。ネットニュースでも、死者は出なかったって読んだよ」

「そうそう。消防署が警戒してくれてたおかげで、火はすぐに消せたんだけどさー」

 ここで言葉を切り、緑郎は銀之介の横に置かれたキャリーケースを見る。彼の柔らかな目元が、少し辛そうに細められた。


「……実は、火元が銀之介のお隣さんだったんだよねー。寝たばこかましちゃっててさ、延焼やら消火活動やらで、銀之介の部屋もグチャグチャになったから、引っ越さなきゃいけなくなってさ」

「ふぅん、大変だね」

 全く大変だと思っていない声音で返すと、物憂げだった緑郎が悪い笑みに変わる。甘ったるい容姿なだけに、ちょっと結婚詐欺師っぽい。

「だからしばらく、ここに住んでもらおうと思うんだー」

「ハァッ!?」

 鈴緒はまん丸などんぐり眼を、更にまん丸にした。今年一番の可能性もある、バカデカい声も出す。


「どうしてうちに!? 他に行ってもらってよ!」

「だって地元に住んでる友達、独身者はだいたい狭いワンルーム住まいだし、結婚してるヤツは新婚さんが多くてさ。どっちもご厄介になりづらいでしょ?」

「ぐうぅ……」

 鈴緒は瞬間的に「そんなの知らない」と言おうとしたが、それに追いすがる形で「たしかにわたしも、そんな家にはご厄介になれない」という共感がしゃしゃり出て来た。つい口ごもる。


 そんな妹の人の好さに付け込み、緑郎は更に身を乗り出した。

「どうせ次の新居が決まるまでの話なんだからさ、おねがーい。それに銀之介、ご飯作るのも上手いぞー。スズたまの負担も減るぞー」

「ぅぐうぅぅぅっ!」

 鈴緒は歯ぎしりした。兄との二人暮らしなのに、その兄はとんでもないメシマズヒロイン属性で。先見の巫女と大学生の、二足の草鞋わらじを履きながら料理もこなすのは地味にストレスだったのだ。それこそ、優しい家政婦さん(またはママ)を欲するほどに。


(ママじゃないしパパ寄りだし、優しいどころか鬼教官みたいな家政婦さんだけど……)

 鈴緒が悔しげに斜め向かいの銀之介をにらむと、彼は無表情のまま一つ頷いた。

「居候するのだから、最大限君の手伝いはする。料理も率先して行おう」

(悔しい……天敵なのに、ちょっと後光が見えちゃう……)


 呉越同舟ごえつどうしゅう――そんな言葉だってあるじゃない。鈴緒はそう、自分に言い聞かせることにした。

「家が決まるまでの間なら、我慢する。でも、出来るだけ早く決めて引っ越して」

「勿論だ。善処する」

 最後の抵抗で絞り出した嫌味も、重々しい首肯で受け止められた。銀之介は次いで、一人で万歳している緑郎を見る。


「ところでお前。まだ鈴緒ちゃんに料理を任せきりなのか?」

 珍しく呆れ切った声と目だ。両手を下ろした緑郎が、てへっと舌を出して小首を傾ける。

「ほら人間さ、向き不向きってあるじゃない?」

「人間には努力や成長という概念もある。俺が厄介になっている間、味噌汁ぐらいは作れるようになれ」

「えええー」


 ぶーたれる兄の声を聞き流し、鈴緒は遠い目になる。

 たぶん銀之介が講師役でも、それは無理だろうなと。

 人間には努力や成長という概念はあるが、同時に

「犬がどう頑張ったところで、大根の桂剥きは出来ない」

という世界の真理もあるのだ。そして兄は残念なことに、料理に関しては見事に犬側である。

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