緑郎のプレゼンテーションの通り、銀之介によって鈴緒の負担は格段に減った。おまけに彼の作る料理は、シンプルな家庭料理ながら「普通に旨い」でなく「立派に旨い」のだ。
朝食作りを彼に任せた初日、焦げ目一つない出し巻き卵を出された時には
「この人はどこかのお寿司屋さんで、修行したことでもあるのかな?」
と半信半疑になったほどだ。ちなみに出し巻き卵は断面も、綺麗で均等な渦巻き模様を描いていた。
初手で出し巻き卵を繰り出して来た辺り、銀之介は朝食にご飯を食べる派であるらしい。その後も焼き魚やおひたしなど、民宿の朝ごはんっぽいものを作り続けてくれている。
鈴緒も緑郎も、父の影響によって朝はパン食派であったものの、お互い特にポリシーがあったわけではない。彼らの属する派閥の理念を、より詳細に表現するならば
「こっちの方が楽だから、別にパンでいいかなぁ」
なのだ。なので朝食がガッツリ和風に方向転換したところで、これといって不満はない。作るのは、元板前疑惑が芽生えた居候であるし。
ただ鈴緒にとっては、料理よりも料理を作る本体の方に不満たらたらであった。
やはりと言うべきか、銀之介からお小言を食らう頻度が爆発的に上がっているのだ。『アルプスの少女ハイジ』の、ロッテンマイヤーさんと同居している気分である。
いや、ロッテンマイヤーさんは実はクララ思いの、いい人であるけれど。それに銀之介の威圧感はむしろ、アルムのおじいさんに近しい。
日々、チクチクと小さなストレスに晒されながら、鈴緒は今日も自宅の洞窟――通称・祠へ向かった。
祠の中の、祭壇と呼ばれる八畳ほどの空間には、土地神が宿っているらしい御神体の丸い鏡だけが置かれている。
鈴緒が新しい巫女になるまで、丸鏡は地面にそのまま置かれていた。そしてその前に敷かれた
半分フィンランド人という、福祉に特化した国民の血も受け継ぐ鈴緒は思った。
「こんなところで正座なんてできない。膝のお皿が早々に割れちゃう」
と。すぐさま木製の机と、揃いの椅子を持ち込んだ。
そして時は下って現在、花柄のテーブルクロスが敷かれた机に丸鏡は鎮座し、鈴緒も椅子に座ったまま向かい合っている。ついでにお菓子のお供えもしているが、今のところ天罰は下っていないので、土地神もまんざらでないらしい。
鏡の前にクリーム大福を置き、鈴緒は一つ深呼吸をして古い言葉で祈りを捧げる。
するとたちまち、ゴツゴツとした岩肌むき出しの祠内部に変化が訪れた。
鈴緒が直座りを躊躇するような地面は、ワックスで磨き上げられた木床に変わり、背後と左右はコンクリート製の壁になっている。そして前方の奥行きが広がり、真っ赤な緞帳が出現した。
巫女が先見を行う時、未来の風景は十人十色の方法で現れるらしい。
ある巫女は、祈りを捧げた直後に眠りに落ち、全て夢として視ていた。また、鏡に映像が視える者もいたという。
鈴緒の場合、祠そのものが舞台に変わって、そこで繰り広げられる演劇として視ているのだ。
なお今朝の先見という名の演劇は、なかなか駄作の部類であった。駄作の枕詞に「クソ」を選んでもいいレベルである。
舞台袖から出て来たのは、だらしない体をした全裸のオジサンだった。両手を腰に当て、緊張した面持ちで天を仰ぎ、深呼吸もしている。息をする暇があるなら、服を着て欲しいものだ。
男は反対側の舞台袖から歩いてきた若い女性を見つけると、両手を添えた腰をリズミカルに振り始めた。同時にナニも、ブルンブルンと左右に震えている。最悪の振り子だ。
こんなばっちぃ舞踊を見せられる鈴緒は、露出魔オッサンが出て来た時から死んだ目であったが、舞台上の若い女性の反応は活きのいいものであった。オッサンに気付くや否や可憐な悲鳴を上げ、元来た道をつんのめるようにして戻っている。
「わたしもちょっと前は、キャーって言えたのになぁ……」
書割の風景と周囲に置かれた大道具から、オッサンが出没する地域に目星を付けつつ、鈴緒はため息混じりに呟いた。
悲しいことに性犯罪の件数は、こんな地方都市でも結構多い。よって鈴緒も、彼氏が出来る前に男の裸に見慣れてしまったのだ。
膝に乗せたメモ帳へ、出没地域やオッサンと被害女性の特徴を、忘れないうちに殴り書きする。発生日はおそらく数日以内だろう――先見で視られる未来は、当日~数日以内に実現するケースが殆どである。特殊な場合には必ず、先見の中で日時の指定が行われる。
そうする内に、幻の舞台は消え失せた。
ただの岩穴に戻った祠の、唯一のインテリアである御神体に一礼してから自宅へと戻る。雨が降っているので、祠を出ても憂鬱さを引きずってしまった。
ジャケットをリビングのソファに掛け、ダイニングに向かうと銀之介が朝食を作り終えたところだった。
鈴緒はダイニングの椅子に座って、ダラダラとスマートフォンでゲームをしている緑郎にメモ帳を差し出す。
「全裸の露出魔が出るみたい。犯人の特徴、忘れないうちに書いたから報告お願いね」
「あら、やだ。こんな寒い時期にガッツあるねー」
緑郎は妙なところに感心しつつ、メモ帳を受け取った。警察や消防署といった、外部との連絡は巫女以外の家族――主に親や夫の役割なのだ。
銀之介はトレイに乗せた味噌汁椀や小鉢を配膳しながら、ちろりと鈴緒を見た。相変わらず、何を考えているのか読めない目だ。
「鈴緒ちゃん、顔色が悪いようだが」
朝から高速シェイキングするわいせつ物を見せられたら、誰だって顔色が悪くなるだろう。しかし敵に弱みを見せるのは悔しいので、鈴緒は取って付けたすまし顔になる。
「え? 別に普通だけど」
「そうは思えん。ちゃんと眠れているのか? 学業と巫女を両立する以上、体調管理も君の義務になるんだぞ」
ただでさえ擦り減っていた心に、この抑揚のないお説教は効いた。たちまち鈴緒の堪忍袋の緒が、袋ごと爆発する。
淡い青色の瞳を細め、ギロリと彼をにらみ返した。息も吸い、一気にまくしたてる。
「そんなこと言われなくても分かってるし、毎日スヤスヤ健やかに寝てますので、銀之介さんは気にしなくて大丈夫でーす! こちとら高校生の頃から、二足の草鞋生活送ってますからね、ハイ! なのでわたしのことなんか、視界に入れなくていいんで! なんだったら、今すぐあなたの死に目も視れるぐらいに、元気はつらつですからー!」
嫌味ったらしい丁寧語で応戦すると、銀之介はわずかに三白眼を見開いた。そのままぱちくりと瞬きをする。呆気に取られているのか、この間もずっと無言である。
(あ、予想以上に引かれたかも。気まずい)
鈴緒は短気寄りではあるものの、別に誰彼構わず喧嘩っ早いわけではない。嫌いな相手でも、こうも呆気に取られた反応を見せられると――非常にばつが悪かった。
居心地の悪さを覚えていると、緑郎が友人の分もとばかりに顔をしかめているのを、視界の隅に捉えた。
「鈴緒、そういう言い方は止めた方がいいと思うよ? 銀之介はただ、お前のことを心配してくれただけなんだからさ」
珍しく年長者らしい忠告をした兄だったが、この場合は悪手である。気まずさを覚えていた妹は、余計に意固地になって顔を強張らせた。
「別に、心配してなんて言ってないから! さっきも言ったけど、ほっといて!」
叩きつけるように二人に言い切り、鈴緒は美味しそうな朝食に背を向ける。
鮭の
彼女の背中を、銀之介が追った。
「鈴緒ちゃん。今日は雨脚も強いし、車で送ろうか?」
自動車通勤である彼からの、破格の申し出かつ寛大な和解の言葉だったのに。
「いらない!」
鈴緒は勢い任せにそれも断り、空きっ腹を抱えてそのまま家を飛び出した。