鈴緒は家を出て、割と早めに後悔していた。敷地を出る前から既に、恥を忍んで銀之介に相乗りを申し出たいぐらいには後悔していた。さすがに恥が致死量を越えそうなので、しないけれど。
先ほどの、祠から戻って来る時の比でないぐらい、雨脚が強くなっていたのだ。まるで無意味な意地を張る鈴緒への、刑罰にも思えた。
ジャカード織りで出来た、野苺柄のショートパンツにも雨粒が散っていた。チョコレート色のタイツにも雨が染み込み、ひやりと冷たい。
おまけに何も食べずに家を出たため、胃も切なく鳴いていた。ふがいない本体で申し訳ない、という謝罪の気持ちも込めて腹部を撫でさする。
(大学に着いたら……講義が始まる前に、生協に行こう……うん、大きなおにぎりを買うの)
米食が定着しつつある鈴緒は、大学生協の人気商品である唐揚げおにぎりの姿を思い描いて、己を鼓舞した。
足回りが満遍なくしっとり湿った頃、鈴緒はようやく大学に辿り着いた。
今すぐおにぎりを買い求めたいものの、そこをぐっと堪えて図書館へ向かう。牧音との待ち合わせ場所なのだ。
「あ、日向さん!」
傘を畳んで図書館の自動ドアをくぐった直後、線の細い青年が駆け寄って来た。牧音のサークルの先輩であり、鈴緒が一度だけデートをした相手の串間だ。
待ち伏せされていたのだろうか、と胸にほんのりと不穏な予感が芽生える。
嘘やごまかしが苦手な鈴緒は、既に串間へ
「忙しくて恋人を作るなんて考えられない」
と伝えていたのだ。
そのため彼に向ける愛想笑いも、ついぎこちなくなる。
「おはようございます、串間さん」
「おはよう。ねえ、次のデートなんだけど」
「はいっ?」
屈託なくそんなことを言われ、鈴緒から愛想が転げ落ちた。何を言ってるんだこの人は、となかなか
「わたし、お返事しましたよ? 忙しくてそんな余裕ないですって」
「あ、うん、それは分かってるよ」
鈴緒の声に剣呑さが混じる。空腹によって、寛容さもごっそり削られているのだ。
彼女の不機嫌には気付けたらしく、串間が少し慌てたように頷く。
「だから、日向さんが落ち着くまで待ってるよ。ね、いつならデート出来るかな?」
「いつって……」
鈴緒は絶句した。忙しさを理由に、お付き合いという概念自体をやんわり拒んだつもりだったのだが、まさか全く通じていないとは。
(いつ暇になるって、巫女のお役目を降りてからなんだけど……)
そのためには、緑郎あるいは鈴緒の娘が跡を継ぐ必要がある。現状恋人も要らない鈴緒は当然、子どもを産む予定もない。試したことはないけれど、単性生殖も出来ないはずだ。
緑郎も、そこそこ顔はいいが性格・気質が災いして独り身である。彼の場合は単性生殖が出来そうだが、緑郎がもう一体増えるのは絶対阻止したい。
想定を上回る串間の話の通じなさに、空きっ腹の鈴緒の頭は真っ白になった。
(もう、考えるの面倒くさいかも……)
とりあえず殴って黙らせるか、とぼんやり拳を握った時だった。
「串間さん、すんません。アタシら、今から講義なんで」
一階の談話スペースから現れた牧音が、二人の間に割って入ってくれた。鈴緒はホッと吐息をこぼし、串間は牧音を見つめて眉をひそめる。
が、それも一瞬のことだった。
「そっか、ごめんね? それじゃあまたね」
すぐに柔和な笑みに変わり、串間は図書館を出て行った。やはり鈴緒を待ち構えるために、ここに来ていたらしい。
ガラス戸越しにも彼の姿が消え失せたところで、鈴緒は牧音にひしと抱き着いた。
「ありがとう、牧音ちゃん! もうちょっとで殴っちゃうとこだった!」
「アンタ有名人なんだから、解決手段に暴力選ぶの控えなよ」
牧音は呆れ半分に笑いつつ、鈴緒を先導する形で図書館を出る。
「でも鈴緒、相当ストレス溜まってるんじゃね? お兄さん以外に手出すなんてレアだよね」
「あー……うん、そうだね……」
鈴緒がくたびれた目を、どす黒い雨空へ向けた。途端、彼女のお腹もグウと鳴る。
大学生協への道すがら、鈴緒は朝の出来事を牧音にこぼした。
「顔から変な汁出たり緑色じゃないなら、多少顔色が悪くてもほっといてほしいの!」
両手でグッと傘を握って叫ぶ鈴緒に、牧音はカラカラと笑う。完全に他人事だ。
「緑色で汁出てたら、ほぼほぼカエルじゃん。まあ、リップとチークで顔色のサバ読んでるトコあるし、あんまり深掘りされたくないかもなぁ」
「そう。特に最近寒いから、朝なんて顔色悪くて普通なの」
ため息をついて傘を閉じ、食堂に併設された学生生協に入る。朝早くということもあり、客足はまばらだ。
鈴緒はようやくお目当ての唐揚げおにぎりを確保し、ふうとため息。
「お兄ちゃんの友達っていうより、意地悪な継母と暮らしてる気分……あの人、どうしてあんなに口うるさいの?」
「さあ。でも鈴緒は、白雪姫なわけだ。よかったじゃん」
「よくない。毒リンゴ食べて、死体好きの王子様に貰われたくない」
「でもさ、巫女業って実際ハードじゃん。職員さんが神経質なのもあると思うけど、心配もほんとにあると思うよ」
そう言ってなだめる牧音の猫目にも、鈴緒を案じる優しい光が灯っている。
「だってさ、友達の妹なんだし。それも火事で焼け出された時、真っ先に助けてくれるようなマブダチの妹じゃん。普通に心配してくれてると思うよ」
しかし鈴緒は意固地を引きずり、唇をすぼめる。片道十五分を歩いてきたおかげで、今の血色はばっちりだ。
「そんな心配いいから、ほっといて欲しい……火事だって、先見のおかげで死者も出なかったのに、これって何の罰ゲーム?」
牧音は、鈴緒のうんざり声にニヤリと含みのある笑みを返す。
「罰ゲームってか、土地神様からの何かのお告げだったりして」
「お告げ?」
「うん。ほら、とんでもない災害の前兆的なさ」
なかなかの脈絡のなさだ。鈴緒はつい噴き出した。
「お兄ちゃんのお友達が家に転がり込んで、どんな災害につながるの?」
「……職員さんを狙う、殺し屋とかヤクザが襲来するとか?」
「あの人、カタギじゃなかったんだ!」
銀之介の顔が顔なだけに、牧音の妄言は案外説得力がある。鈴緒は朗らかに笑って、唐揚げおにぎりとほうじ茶の会計を済ませた。
しかし、牧音の言葉は当たらずとも遠からじであった、と鈴緒は二日後に思い知る羽目となる。
鈴緒はその日、先見をしてしまったのだ。
自分と銀之介がイチャコラしながらデートを楽しむ未来を。
たしかにこの同居生活は、とんでもない災害の前触れであったらしい。
鈴緒個人にとっての大災害、であるが。