祠の中に作られた幻の舞台は、隣駅の風景を切り取っていた。駅前の大きな時計の下に、銀之介は立っている。誰かを待っているのか、時折腕時計を覗き込んだり、スマートフォンをいじったり、周囲を見渡したりと少し落ち着きがない。
鈴緒は当初、この後で彼が傷害事件や殺人事件に巻き込まれるのだろうか、とビクついていた。
いくら嫌いな人物とは言え、目の前で顔見知りが傷つけられる光景は御免被りたい。
しかし彼女の怯えや恐怖を吹き飛ばすように、舞台袖からもう一人の登場人物が現れた。なんと自分だった。
今よりもどこか垢抜けた雰囲気の鈴緒は、二つ三つほど年上に見える。成人後らしき自分もグルリと駅前を眺め、すぐに銀之介を見つけて駆け出した。
それはもう――満面のキラッキラ笑顔で。我ながら、何かの広告に使えそうな満点スマイルである。
「銀之介さん、遅くなってごめんね」
銀之介へと駆け寄った未来の鈴緒は、甘えるように彼の腕にしがみついた。銀之介の無表情も、ほんのり和らぐ。
「いや。鈴緒ちゃんこそ、懇親会で疲れただろ。どうだった?」
隣駅の近くには、大きな公民館もある。どうやらそこで、巫女業関連の行事があった後らしい。現在の鈴緒も定期的に参加している。
「うん、めんど――じゃなくて、有意義でした。はいっ」
「なるほど。面倒だったんだな」
目を泳がせてごまかす鈴緒の頬を、銀之介が空いている手でそっと撫でた。慣れた様子のスキンシップに、現在の鈴緒はギョッと目を丸くする。未来の自分が嬉しそうに
二人が舞台の上をゆっくり歩き出す。それに合わせて、背景も駅前からショッピングモール内のものへと変化した。
そして現在の鈴緒は、未来の二人が自分の前を横切った時に、とんでもない発見をしてしまった。
二人の指に、お揃いらしきプラチナの指輪が輝いていたのだ。もちろん、左手の薬指にはまっている。
現在の鈴緒が目と口を全開にして
お得な料金での、沖縄へのパッケージツアーを宣伝する広告だった。透明度の高い海にシーサーの置物と、取って付けたようなハイビスカスの写真が使われている。
未来の鈴緒が、ポスターに羨望の眼差しを注いで呟いた。
「いいな、沖縄……行きたいなぁ」
傍らの銀之介も、しげしげとポスターを眺める。いつの間にか二人の手は、指を絡めて繋がれていた。
「そうだな。君が巫女を引退したら、一緒に行くか」
鈴緒は彼を見上げ、大きな目をぱちくりする。
「それ、何十年後の話?」
「だいたい二十年後ぐらいだな」
あっさり返答する銀之介に、鈴緒は屈託なく笑った。
「ふふっ、先の長い話だね」
「早期退職後の楽しみがあるのは、いい事だ。いっそお義父さんとお義母さんを見習って、移住するか?」
「沖縄に? 銀之介さん、お仕事とか大丈夫なの?」
「向こうの教育機関に転職か、あるいは蕎麦屋でも始めるのもいいな」
ああ、と鈴緒が訳知り顔で頷く。
「退職後のおじさん、お蕎麦に目覚めがちなあるあるだね」
「そう、あるあるだ」
銀之介の口角も持ち上がった。
彼の笑顔なんて、現在の鈴緒は未だお目にかかったことがない。
「ちなみに作るのって、普通のお蕎麦? ソーキそば?」
「そうだな。鈴緒ちゃんはどっちが好きだ?」
「うーん。焼きそば」
「選択肢が増えたな、困った」
――バカップルである。これはバカップルの会話の見本図である。
全身を震わせていた現在の鈴緒は、この光景に鳥肌を立てて頭を両手で抱え、
「ぎゃあああああああああああああぁぁぁっ!」
祠全体を爆発しかねない叫び声を上げた。
途端、先見の舞台がふつりと消え去る。
ランタン以外に光源のない薄暗い祠の内部は、しばし静寂に包まれた。しかし数十秒ほど後に、簡素な扉を叩く音がする。
「鈴緒ー、どしたー? デッカいゲジゲジでも出て来たか? もしヘビなら兄ちゃんも無理だから、頑張ってやっつけてよー。ってか、開けて大丈夫?」
頼もしさゼロの呼びかけをしながら、緑郎がやや控えめに扉を開いた。巫女が先見をしている間、当人以外はたとえ身内でも立ち入り厳禁なのだ。
立ち入ると、土地神から物理的制裁が下されるらしい。理不尽過ぎる。
うなだれる妹の背中から、先見は終了あるいは中断しているらしい、と判断した緑郎はホッと息を吐いて扉を全開にした。木の扉のきしむ音で、鈴緒ものっそり振り返る。
緑郎の背後には、エプロンを身に着けたままの銀之介も立っている。
彼とばっちり目が合った瞬間、鈴緒の脳裏に蘇ったのはもちろん、先ほどの実りのないバカップルトークである。
瞬間、彼女の中の羞恥心が限界を越えた。
椅子を横倒しにしながら立ち上がった鈴緒は、ふらふらと二人へ近づく。
「あ、あっ……ああ……」
目の焦点も合っていない妹の姿に、緑郎もただ事ではないと察した。
「スズたま? どしたの? なんかカオナシみたいになっちゃってるけど……え、憑かれた系? やだ、巫女が取り憑かれるとか要素多いよー!」
妙な驚き方をする彼へ肉薄した鈴緒は、上半身を後方へ捻りながら右腕を構える。
「あああああーっ!」
取り憑かれているというか、悪霊そのもののような唸り声を上げて、鈴緒は裏拳を繰り出した。緑郎の頬に見事命中する。
この時の鈴緒の姿を、後に緑郎はこのように述懐した。
「もうさ、『バイオハザード』に出て来る敵じゃん」
と。
タイラントまたはリサ・トレヴァーと化した鈴緒は、裏拳で兄を鎮めると次に本丸であろう銀之介も狙った。背の高い彼の頬をぶん殴るのは無謀と、本能で判断したのか。
すかさず攻撃手段を足に切り替え、綺麗に円を描いて回し蹴りを繰り出した。呆然とする彼の腹部を蹴り抜く。巫女にしておくには惜しいフォームである。
しかし残念ながら、ガリ勉メガネ風の銀之介だが存外荒事に慣れているらしい。鈴緒の蹴りをあっさり受け止める。
そして怒った様子もなく、むしろどこか気遣わしげに鈴緒の顔を覗き込む。
「鈴緒ちゃん、どうしたんだ?」
今この瞬間、彼との接近は致命傷である。鈴緒の白い頬が、ぶわりと赤く染まった。
「あああああああ! ――ヴォエェッ!」
再度バカップルの未来予想図がありありと蘇り、鈴緒は白目を剥いて絶叫しながら膝を折り、そのまま盛大に吐いた。
朝食前でお腹が空っぽだったからか。
吐しゃ物はサラサラの液体で、わずかに黄色がかっていた。
ちなみに鈴緒は後日、胃液は黄色いのだという豆知識を得ることになる。