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7:非実在・邪教集団

 脈絡のない暴力を繰り出したと思ったら嘔吐した妹に、緑郎が頬を押さえて悲鳴を上げる。

「どうしたんだ、鈴緒!? ノロウィルスにかかっても、ゲロだけはしなかった意地汚いお前に、一体何が!」

 なお当時のノロウィルスの感染源は、戸惑っているこの兄である。要加熱の牡蠣を生食したのが原因だった。


 眼前で吐かれた銀之介の方が、そんな真に意地汚い男よりもずっと冷静だった。自分の服が汚れるのもいとわず、鈴緒の前にひざまずく。

「鈴緒ちゃん、どこか具合が悪いのか?」

 悪いのは体調でなく、近未来の己の脳内お花畑ぶりだ。口元を押さえながら、鈴緒は力なく首を振る。

「そうか。しかし、こんな寒い場所にいれば体調も崩す。家に戻ろう」

 この意見には賛成だ。今すぐ家に戻って、シャワーを浴びたい。鈴緒も小さく何度も頷く。


 次いで彼女は立ち上がろうと膝の力を入れるが、腰を持ち上げる前に、太ももの裏側にがっしりしたものが差し込まれた。背中にも何かが触れている。

 鈴緒が事態を把握する前に、彼女の足に自分の腕を回し入れていた銀之介が易々と抱き上げた。


 まさかのゲロ直後にお姫様抱っこを初体験するという、急転直下もとい急転直上の展開に、鈴緒は目を見開いて硬直した。

「あ、の、服、汚れちゃ……」

 どうにかか細い声で、それだけ言えた。

「後で着替える。祠も掃除しておくから、自分のことだけを考えていなさい」

 しかし無感動な声であっさりとたしなめられた。今はこの、淡白の極みのような声音の方がありがたい。


 そして鈴緒も余裕皆無であったため、大人しく運ばれることにした。腕も歩調も全くブレない、見事な横抱きだったため、拒否する隙がなかったとも言えるが。


(お兄ちゃんみたいなダメ人間と仲がいいから、吐いた人のお世話にも慣れてるのかな)

 彼女は銀之介の冷静沈着ぶりをそう推測しながら、シャワーを浴びた。ついでうがいもして、口の中の嫌な残り香と味を洗い流す。

 彼女の着替えは、緑郎が持って来てくれた。さすがの兄も、赤の他人に妹の下着を漁らせるのは良しとしなかったらしい。


 緑郎が用意した着替えは、パジャマであった。

「……この後、学校あるのに」

 鈴緒は何故だと思いつつも、脱衣所には代替品もないため、渋々それに着替える。すると脱衣所の扉越しに、緑郎の声がした。

「鈴緒。今日は大学、休みなさいよ。さすがのお兄ちゃんも、思い切りゲボった妹を学校になんて行かせられないし」

 え、と鈴緒は扉の方を見た。

「も、もう大丈夫だよ。先見でびっくりして吐いちゃっただけだから」

「……ひょっとして、大量殺人でも起きるの?」


 ためらいがちな兄の声に、鈴緒の喉の奥からグウゥと苦しげな音が漏れ出る。

 巫女は先見で見た内容について、偽りを述べることが出来ない。

 偽証しようものなら、こちらも土地神から物理的制裁が下されてしまうらしい。狭量な神である。

 なお公益に反しない限り、黙秘は許されている。


 そのため鈴緒も

「えっとね、事件性は、全然なかったの。これはほんと。ちょっと――結構、だいぶ際どい内容でビックリしたけど……誰かが不幸になったりはしてなかったから」

と、当たり障りのない事実だけを答えた。

 しばし、緑郎が沈黙した。

「……なんか、SMプレイとかそういう、参加者の合意の上だからギリギリ犯罪になってませんよ系、かな……?」

「あー……うん、そうだね。似たようなもの」

 単なるバカップルのイチャイチャ雑談だが、鈴緒にとっては視覚を襲うタイプの拷問だった。嘘は言っていない。

「なるほどねー。そりゃ一般人にはキツいねー。おれでも落ち込んじゃうかも」

 扉の向こうから、苦笑する気配があった。どうやら丸め込めたようで、鈴緒もほっと表情を緩める。


 だが大学は、結局休むことになった。ここで下手にゴネて、兄より頭が回るであろう銀之介にまで先見のことを掘り下げられてはたまらない。

 鈴緒はアングラ集団の変態プレイをうっかり視てしまった結果、パニックを起こして嘔吐したというていになった。

(それはそれで、不名誉なんじゃ……?)

 ベッドに潜り込んでダラダラした末に、この気付きを得た直後。鈴緒のスマートフォンに、牧音からのメッセージが届いた。


 講義で使った資料とノートのコピーを渡しがてら、お見舞いに行ってもいいかという内容であった。

 鈴緒も冷静さを取り戻したので、見舞い自体は不要だ。しかし今、自分が視た未来について相談出来る誰かは欲しかった。


 それも銀之介とほぼ縁がなく、圧倒的味方目線で話を聞いてくれる相手を求めているのだ。

 鈴緒はすぐに、牧音へ大歓迎だと返信した。


 牧音は昼過ぎに日向家を訪れた。銀之介は仕事で不在だが、マンガ家という引きこもり労働者な緑郎はほぼほぼ家にいる。

 彼が鈴緒に変わって牧音を出迎え、部屋まで案内してくれた。

 部屋着に着替えた鈴緒の耳に、近付く二人分の足音と声が届く。


「なんか鈴緒、裏社会のエログロプレイを視ちゃったらしいんだよ。たぶん鼻フックしたり、悪魔に祈りを捧げながら集団でハッスルしたり、生きてるコウモリ食べて子羊の血をすすったり、それはもうえげつない先見だったみたい……おれに似て繊細だから、可哀想に」

「えええ……そんな連中が市内にいるとか、だいぶキモいですね」


 ――鈴緒は一言も、悪魔崇拝者になど言及していないのに。ついでにどこから湧いて出たのか、オジー・オズボーンも混ざっている。

 どうしてこうなった。

「お兄さん。それって警察に連絡したんすか?」

「鈴緒が事件性はなかったって言ってたから、まだしてない。まあ内輪で楽しんでるぐらいなら、そっとしとく方がいいかもね」

「そうなんですかね……うわー、裏社会って怖いなぁ」


 あるかも分からぬ佐久芽市の邪教団体に牧音がドン引いたところで、鈴緒の部屋のドアがノックされた。

「鈴緒、牧音ちゃんが来てくれたよー」

「あ、うん……全部聞こえてたから」

 事実無根の内容も含めて、だ。鈴緒は弱々しく笑って二人を出迎えた。

 が、儚げ笑顔がかえって、悪趣味カルト教団に心を痛める巫女らしかったようで。たちまち二人から、気遣わしげな視線を注がれる。


(本当のことを言えないって、辛い……!)

 兄と親友の生ぬるい慈愛の笑みに、ぎこちない愛想笑いを返しつつ。

 鈴緒は胸中でそう叫んだ。

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