「それじゃあ二人で、ごゆっくりね。あとでお茶持ってくるから」
緑郎はそう言い残して、鈴緒の部屋を立ち去った。炭酸ジュースが主飲料の男にお茶を淹れられるのかという不安は残るが、冷蔵庫の中には彼がコンビニで購入したジャスミンティーの紙パックもあったはずである。
恐らくそれを温めて持ってくるに違いない、と鈴緒は密かに予想していた。
真っ黒なライダースジャケットを脱いだ牧音は慣れた様子で、部屋に敷かれた幾何学模様のラグに座る。そしてトートバッグの中を漁った。
「ノートは、図書館でコピーさせてもらったんだ。あとレジュメも、先生に言ったら予備貰えてさ」
「ありがとう、牧音ちゃんっ」
鈴緒もベッドから、ターコイズブルーのラグの上に移動する。そして恭しく、クリアファイルに入った紙の束を受け取った。
牧音もわざと胸を反らして感謝の言葉を受け取っていたが、途中で眉をハの字にする。
「ってか体調、もう大丈夫? 激ヤバなカルト教団の、悪魔召喚の儀式を視ちゃったんだって?」
「あ、儀式というか……そこまでアンダーグラウンドなものじゃ、ないんだけど……」
どんどん話が拡大している。これが伝言ゲームの恐ろしさ、ということか。
鈴緒は意味もなく、弾力性のあるラグの表面を撫でたり指で凹ませたりしながら、ちろりと上目で牧音を見つめた。
「ところで、ちょっとご意見を伺いたくてですね」
「ん? どうした?」
「牧音ちゃんはもしも……自分が将来、敵だと思ってる相手と結婚するって知ったら……どうする?」
「敵……?」
それだけ呟き、牧音は鈴緒を見つめ返しながらしばし考えた。
牧音はキリリとした顔立ちや表情に違わず、理性的で賢い。頭の回転も速い方だ。
そのためもじもじと煮え切らない様子の親友と、彼女の言葉から、すかさず察した。
――おそらく先見で、鈴緒は敵すなわち職員さんと結婚する未来を視てしまったのだろう。それを兄や本人には知られたくないから、カルト教団の儀式を視たとごまかしているのだろう。
ほぼほぼ正解を導き出した牧音は、賢い上に気も利く出来る女だった。口は悪いけれど。
察したことなどおくびも出さず、深刻そのものの顔をして
「アタシなら、今の内に相手を殺しとくかな」
と、言い切った。それはそれ、これはこれなのだ。
まさかの殺害予告に、鈴緒は絶句した。床に置いているクッションを思わず抱きしめて、か細い悲鳴をこぼした。
牧音はすぐに表情を崩して、軽く肩をすくめる。
「ま、殺害は極論だけどさ。でも結婚まで流れ着く前に、目いっぱい嫌われるぐらいはやっとくと思う。だってほら、敵に弱み握られて結婚させられるかもだし。だったら関わりを丸ごとぶった切った方が、絶対安全じゃん?」
「そっか、そうだよね」
「ちなみにその敵って……串間さんだったりする? ほら、一昨日だかもウザ絡みされてたし」
牧音もこの疑念というか、不安だけは確認したかったのだろう。ためらいながらも、身を乗り出して鈴緒の顔を覗き込んだ。
一方の鈴緒は、今の今まで串間の存在すら忘却していた。彼とのことは、すでに彼女の中で「終了」の箱にぶち込まれていたのだ。
鈴緒はどんぐり眼をキョトンと更に丸くした後、ブンブンと首を振った。
「まさか。あれから連絡も来てないし、嫌いになるだけの接点もないから。ちょっとヤバい人かも?とは思ったけど」
「だよなぁ……実は串間さん、前からサークルでも鈴緒のコト根掘り葉掘り訊いて来ててさ。先見の巫女ってほら、
牧音が言い淀んだ途端、二人とも視線は床に落ちた。
一昨日の様子では、ファンというよりもストーカー予備軍と呼んだ方が近いかもしれない。
しばしの沈黙の末に、牧音が重々しいため息をこぼす。ついでに肩も落とした。
「……鈴緒の情報、得意科目とか好きなおにぎりの具とか、無難なコトしか言わないでよかった」
「うん……配慮ありがとう」
沈んだ声で、鈴緒も深々と頭を下げた。プライバシー保護の精神を持った友人に感謝だ。
再び彼女と顔を見合わせた牧音が、緩く笑う。
「アンタって高校の時から、クセ強すぎな男に好かれがちじゃね?」
「だよね。自分でもそう思う」
鈴緒は高校時代も、なかなか執着心の強い後輩から付きまとわれていたのだ。どうやらストーカー体質にモテやすい、奇妙な星の下に生まれたらしい。
自分が一体何をしたんだ、と鈴緒は体を傾けて
「わたし、どうせするなら普通の人と普通の恋がいい……」
牧音が両手を腰の横に下ろし、体を支えながら軽く後ろへ伸びをする。
「そっかそっか。まあ、一応頑張れ」
「励ましに誠意がないね?」
「だって無理だろうなーって思ってるから」
「ひどいっ」
「じゃあ鈴緒は、自分で出来ると思ってんの?」
挑むような彼女の視線を、鈴緒も真っすぐ受け止める。
「ううん、あんまり」
鈴緒が凛々しい顔で断言すると、牧音は背中を反らしたままケラケラと笑った。
「おいおい! もっと夢見ろよ、巫女!」
「巫女してる内は、夢なんて見れないんですよー。見てもカルト教団のハッスル映像ぐらいですもーん」
鈴緒もそううそぶき、少しいたずらっぽく微笑む。
その後、緑郎がマグカップに注いだ温かいお茶と、お茶請けのシリアルクッキーを持って部屋に現れた。
朝は真っ青な顔で嘔吐していた妹が楽しそうに笑っているので、心配そうだった彼の表情もいつもの緩い笑顔に戻っていく。
なお彼が用意したお茶は、鈴緒の想像通り紙パックのジャスミンティーを電子レンジで温めたものだった。この辺りは恐ろしく意外性のない男である。