高校時代、自分に一目惚れしたと豪語する後輩男子から毎日、色紙に書いた自作ポエムを贈りつけられていた黒歴史を思い出し、鈴緒は決意した。
(取ろう、距離を。銀之介さんとは、日本とブラジルぐらいの距離感になろう)
彼女は家を出る牧音へ、買い置きのパウンドケーキをお礼として渡しつつ、胸の内でそう腹を括る。
今までのように、銀之介を見かけ次第バックステップを踏む程度では駄目なのだ。そもそもお互いが見えなくなるぐらい、常に隔たりを持つべきである。
鈴緒の学び場=銀之介の稼ぎ場のため、物理的距離を保つのは難しいだろうが。精神的距離ならば、今からでも稼げるに違いない。
鈴緒はすぐさま行動に出た。
幸いにして理由なき暴力からの突然の嘔吐という、異常以外の何物でもない行動を取った甲斐あり、男二人は鈴緒を一日中腫れ物のように扱った。
銀之介は殊更酷く、自身の業務中にも緑郎経由で欲しいものはないか、と訊いて来たほどだ。仕事をしろ。
「自由が欲しいって言っといて」
鈴緒は兄に思春期中学生のような返答をすると、その日は自室でひたすら過ごした。
そして翌日も、そのまた次の日も、家にいる時は出来るだけ自室にこもるようになった。
銀之介の居候中に、彼との接点を出来る限り潰そうという魂胆である。
幸いにして、レポート作成用に自分のノートパソコンは持っている。Wi-Fiもあるので半引きこもり生活でもまあまあ快適である。ありがとう現代文明。
「なんか鈴緒、最近顔見せてくれないよね? お兄ちゃん、ちょっと寂しいなー」
半引きこもり生活三日目の夕食――夕食作りは鈴緒の担当のため、自室で食べるのはためらわれたのだ――にて、緑郎からしょんぼりと尋ねられた。
鈴緒は努めてなんてことない平熱な表情を装い、小首を傾げる。内心、罪悪感が疼いた。
「そうかな? ほら最近、市長さんとか議員さんと会ったりで忙しかったから。ちょっとお部屋でのんびりしたいの」
「ならいいけど……悩みとか、ない?」
「ないない、普通にちょっとお疲れなだけ。一人でのびのび出来たら、大丈夫」
「そっかそっか。元気出たら、一緒に『パディントン2』観ようよー」
「お兄ちゃんそれ、好きだね」
すっかり信じた様子の甘え声の兄に、鈴緒も半ば呆れて笑う。
なお銀之介はその間、無言で食事を進めていた。鈴緒を窺うような素振りもなかったため、彼も鈴緒の言葉を信じたあるいは、そもそも鈴緒が引きこもりがちなことを気に留めてもいないのだと思われた。
が、全然そんなことはなかった。
むしろ端から、鈴緒の言い訳を信用していなかったのだと思い知る。
彼の来襲があったのは、緑郎に寂しがられた後のことだった。鈴緒が部屋で本を読んでいると、ノックの音がしたのだ。
「はーい」
大方緑郎だろう、と鈴緒が軽い調子で返事をすると
「鈴緒ちゃん、ちょっといいか?」
「ひぇっ」
ラグに座ったまま顔を上げた鈴緒の、更に視界の上から無感動な声がして思わず飛び上がる。
咄嗟に本で顔を隠しつつ、目だけを覗かせると。いつもの無表情がドアの隙間からこちらを見下ろしている。ちょっと怖い。たまらずそっぽを向いた。
「部屋、入っても構わないか?」
「あ……長居しない、なら」
普段であれば断固拒否だが、不意打ちで頭が束の間バカになっていたため、ついうっかり譲歩してしまった。後悔しても後の祭りで、銀之介は室内に入って来る。ただ気を遣ってくれたのか、ドアを開けたまま入り口付近から動く様子はない。
直立不動で無言のまま凝視され、鈴緒も不愛想を装いながら内心パニックだった。落ち着きなく、手にしていた本をぎゅうと抱きしめる。
(え、どうして来たの? 何なの? 新居が見つかったからご挨拶……とか? ううん、そんなのいいから! お気遣いなく!)
その他にもぐるぐると、脈絡のない想像がサイダーの泡のように沸き立っては消えていく。鈴緒はその間視線をさ迷わせていたものの、自分の肌に刺さる鋭すぎる視線に耐え切れず、とうとう銀之介の方を向いた。
二人の視線がかち合う。
その瞬間、あの日視てしまった未来のイチャラブ風景をぶり返してしまい、鈴緒の白い肌がぶわりと赤くなる。怯えるように全身も強張った。
「やはりおかしい」
挙動不審の見本図のような彼女を見下ろし、銀之介は眉をひそめた。それだけで強面度が六割増しである。
「先見で君が体調を崩してから、ずっと様子が変だ。家にいる時だけ、妙に落ち着きがない」
「えっ」
まさか観察されていたとは夢にも思わず、鈴緒は裏返った声をこぼした。大学内でも様子を見られていたのだろうか。
銀之介は驚く彼女へ、二歩ほど身を乗り出す。
「先見の事で、何か隠しているんじゃないか? ひょっとして、身内の犯罪に関わる未来でも視たのか?」
「えっ、あっ、そんなことは……」
悲しいかな、彼女の兄は自由人過ぎて「今まで警察のご厄介に(一応)なっていないのが奇跡」と評される男だ。彼の犯罪隠ぺいを企てているのでは、と疑われてもおかしくはない。
疑っているのは、その彼と十年以上の付き合いがある友人なわけだが。
ただ今回に限って言えば、緑郎はウェディングドレスよりも曇りのない潔白である。というか無関係だ。
鈴緒は赤い顔のまま、ブンブンと首を振る。
「身内がやらかす犯罪でも、巫女は隠したりしないよ! そんなことしたら、土地神様からお仕置きされるでしょ!」
「だが凄惨な事件も見慣れている君が、狂った連中の狂った儀式程度であそこまで動揺するとは思えない」
銀之介は淡々と言いながら、膝を折った。嘔吐した鈴緒を気遣った時のように、ラグの上で縮こまる彼女の顔を覗き込む。
しかし眉間に皺を寄せている今は、あの時とは比べ物にならないぐらい圧が強い。
「君は一体、何を見たんだ?」
そして低い声で駄目押しのように問われれば、鈴緒のメンタルは呆気なく決壊した。
「もう、ほっ……ほっといてよ!」
大きな瞳に涙をにじませ、震える声でがなった。なんとも弱々しい反撃であるが、銀之介が肩をビクつかせて固まった。目も見開かれている。
いつもの鈴緒ならドヤ顔で勝ち誇って、動揺する銀之介を執拗に煽り散らしつつ写真でも撮っただろうが。
あいにく今は、うっかり泣いちゃうぐらいに余裕がないので。そのまま半泣きでまくし立てた。
「銀之介さんに心配されても迷惑なの! いいからわたしに構わないで! ほっといて! こっちに来ないで!」
「……そうか」
一気に叫んだ後、少し間を置いて絞り出すような声が返された。鈴緒はハッとなり、目尻を拭って銀之介を見る。
涙を拭いクリアになった視界に映るのは、先ほどの仰天顔のレア度が吹き飛ぶような、暗く沈んだ表情だった。肩も丸まっている。
まさか自分に拒絶されただけで、ここまで落ち込むだなんて。鈴緒もびっくりし、結果として再度あふれ始めていた涙もピタリと止まった。
「あの、銀之介さん……?」
「急に邪魔して、すまなかった」
「え、いえ、お気遣いな――」
へどもどとした鈴緒の言葉が終わるよりも早く、銀之介はさっさと立ち上がって部屋を出て行った。
「……え、どういうこと?」
一人残された鈴緒は、抱き締めていた本を床に落として呆然と呟く。
馬鹿な小娘程度に思っている相手から罵られただけで、何故ああも傷付くのか。
理由は分からないものの、鈴緒はとんでもない罪悪感に見舞われた。
うぐぅとうめき、大きな胸を押さえる。