目の前に天使がいる――鈴緒と初めて対面した時、銀之介が彼女に抱いた第一印象はこれだった。
銀之介も彼女の存在自体は、彼が高校生の頃から知っていた。もっとも当時は友人の、年の離れた妹として名前しか認識していなかったが。
高校進学のため佐久芽市に単身引っ越して来た彼は、このこぢんまりとした地方都市に「先見の巫女」と呼ばれる超能力者あるいは霊能力者がいると耳にした。
この街はカルト教団に牛耳られているのだろうかと疑ったが、その歴史はとんでもなく古い上に、市及び国から正式に認可を受けて予知を行っているらしい。なんだそれは。
そして巫女の息子がクラスメイトであり、あれこれと世話を焼く内に懐かれて「心の友」と認定されるに至っては、
「沖縄のユタのような、地域に根付く土着の信仰なんだろう。よく分からんが」
という緩い認識で納得するようになっていた。巫女によって落石事故から救われたことがあったのも、態度を軟化させた要因だろうが。
そうしてしばらく経つ内に、巫女役が彼の母から妹に代わった。
顔も知らない友人の妹に対して、その時に抱いたのは
「こんな頼りない兄に加えて、市民の不幸も背負う羽目になるとは。不憫だ」
という同情だっただろうか。
こんな具合に「なんとなく街にいて、なんとなくありがたい」程度だった巫女もとい友人の妹と顔合わせをしたのは、二年ほど前のことだ。
珍しく友人の緑郎から、家で飯を食おうと誘われたのだ。フィンランドに移住した両親から、大量のスモークサーモンとトナカイ肉が届いたので、どうにか消費したいらしい。水曜日の夜という、カレンダー通りの勤務形態を取る社会人にとって絶妙に困る日時に誘われたものの、自宅からも近いしまあいいかと誘いに乗った。
そして手土産片手に、古めかしくも手入れの行き届いた日向邸を訪れたら――
「平日なのにお兄ちゃんが無理言って、ごめんなさい」
そう言って少し恥ずかしそうに微笑む、愛らしい天使がいたのである。冬の朝空のような、淡く青い瞳がじぃっと銀之介を見上げていた。
銀之介は玄関で靴を脱ぎかけた体勢のまま、しばし固まってしまった。鈴緒に目を奪われた後、続いて彼が抱いたのは緑郎への怒りだった。
「妹、おれとソックリなんだよねー」
と、事あるごとに言っていた彼に、思わず殺意も抱いてしまう。一体どこが似ていると言うのか。共通項なんて「両親が同じ」以外に全くない。
その後のことは、緊張のあまり記憶にさほど残っていない。ただリビングで食事をしている間、横に座った鈴緒から
「お兄ちゃん、迷惑かけてません?」
「なんか困らされてることあったら、全然言ってくださいね」
と、かなり気さくに話しかけてもらえたことだけは、薄っすらと覚えている。
しかし彼女が友好的な態度を取ってくれたのも、この夜限りであった。
晩餐もとい酒盛りも後半に差し掛かり、緑郎が鈴緒の大学進学を話題にしたのだ。
「お前の職場の佐久芽大にさ、鈴緒も入りたがってるんだよねー」
ほろ酔いどころかだいぶ酩酊した状態で、緑郎は本人の承諾も得ずにヘラヘラと言った。さほど飲めない銀之介と違って、緑郎と同じペースで飲んでいた他の友人たちも、似たり寄ったりの笑顔で
「そっか、そっかー、えらいなーがんばれー」
「俺たちが勉強教えてあげるよー」
などと励ましていたが。
銀之介だけは、愕然としていた。
先見の巫女は、街に訪れる災いを予知するという能力故に、凄惨な事件の先見に日々晒され、精神を消耗すると聞いたことがある。
おまけに街を長期間離れることも、土地神から許されないらしい。
そんな制約だらけの生活の中で、それなりに高い学力を求められる佐久芽公立大学まで目指すだなんて。
この華奢で可憐で、お人形あるいは妖精のような可愛らしい女の子にとって、かなりの負担になるのではなかろうか。
銀之介はたちまち不安を覚え、その不安感から平時でも怖い顔の強面度を、更に爆上げしながら鈴緒を見据えてしまった。
「君、本気か?」
そして、強張りに強張って愛想ゼロになった声で訊いてしまったのが、終わりの始まりであった。
本来は
「君は本気で、先見という過酷な務めに加えて受験勉強まで頑張るつもりなのか? 努力するのはいい事だが、どうか心身の健康を優先してくれないか?」
という意図での問いかけだったのだが、強面かつ不愛想な口下手が祟って
「お前の頭で、我が校に合格できるとでも思っているのか?」
と、鈴緒には捉えられてしまったらしい。たちまち彼女は、銀之介を敵と認定した。
先ほどまでニコニコと愛らしく微笑んでいた顔が一瞬で強張り、わずかに瞳を潤ませながら思い切りに睨まれたのだ。
「本気に決まってるでしょ! わたし、お兄ちゃんほど馬鹿じゃないから! このお花畑と一緒にしないで!」
ついでに怒鳴られた。完全なる貰い事故で、緑郎まで罵られる羽目になった。
これ以来、鈴緒と顔を合わせる度に警戒されるようになった。
遠巻きにこちらを睨む姿は、必死に威嚇している野良猫のようで実に申し訳ない。そんな姿でも可愛いと思ってしまうので、罪悪感だけがどんどん積もっていった。
彼女に想いを伝えたい、なんて大それたことは望まないので。
せめていつか、目が合っても威嚇されずに、最初のように気さくに話しかけてほしい――銀之介は日々そう願っていた。