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第17話 あきらめる気はない

 マタレーナの秘密の場所を、ウルマスはよく知っていた。

 こんなよく晴れた気持ちの良い日には、彼女はきっとそこにいるだろう。

 そう思って、今朝早くにウルライネンを出た。

 もちろん狼の姿に変化して。


 パヌラ男爵の屋敷から続く坂道を上った先に、その秘密の場所はある。

 大きな楡の木が枝を広げて、心地よい木陰を作る丘だ。

 その下でマタレーナは、ごろんと横たわるのが好きだった。


 そっと近づくと、思ったとおりだ。

 横たわる彼女がいた。

 ぐいっと手足を伸ばした後、ほうっと長い息をついて、猫のように目を細めている。

 草の上に拡がった栗色の髪は、記憶にあるものより短くなっていた。

 保護所で見た時には、すっきり伸ばした背を覆うほど豊かに長かったというのに。


 貴族の令嬢なら、長い髪を大切にするものだ。

 手入れの行き届いた美しい髪は、令嬢の容姿を飾るためになくてはならないものだと聞く。

 だが今のマタレーナの髪の長さは、たぶん肩に触れるかどうかくらい。

 ずいぶん思い切りよく、ばっさりとやったものだと思う。


(別人になるためか)


 今の名は、たしかヴィーチェ・ティア・パヌラ男爵令嬢だったか。

 パヌラ男爵の亡くなった娘になりかわるため、なりきるための儀式のようなものかもしれない。

 短く切りそろえた髪はマタレーナの覚悟のような気がして、ウルマスの胸をずきりと痛ませる。


(そうさせたのは俺だ)


 一刻も早く、マタレーナに待たせてすまなかったと言わなくては。

 そしてついて来てほしい。これから先はこれ以上ないほど幸せに過ごせるから、心配するなとも。


 そう言おうと思っていたのに。


「誰?」


 気配に気づいたマタレーナの、硬い声にウルマスの頭は真っ白になった。

 マタレーナが初めてウルマスに声をかけてくれた。

 それだけのことで、情けないほど動揺している。


(なにか言わなくては)


 口を開こうとして、自分の今の姿に思い至る。

 狼の姿のままだ。

 変化を解こうとして、また焦る。


(このまま解いてはマズい)


 初対面の番の前に裸で出られるほど、ウルマスの羞恥心は麻痺していない。

 今日は単独で動いているので、着替えは首に巻き付けてきている。


「少し待て」


 内心の大混乱を悟らせないように、最小限の言葉をウルマスは選んだ。

 大きな楡の木がありがたかった。

 その陰でごそごそと着替えて、やっと番の前に立つ。

 なんとか格好をつけて。



 初めて間近にするウルマスの番は、姿勢の良いすらりとした女性だった。

 少し細められたハシバミ色の目と、なぜだか笑いをこらえているような口元が、緊張でがちがちになったウルマスの心を少しだけほぐしてくれるようだ。

 けれどあくまでも少しだけで、緊張がなくなったわけではない。


(待たせてすまない……からか、いや、名乗るところからか)


 何度も想定演習をしてきたはずなのに、いざとなるとどこから話せばいいのかわからない。

 ウルマスの脳内台本は、すでに真っ白になっている。


「ウルマス・ディア・ウルライネンだ」


 これは着替える前、マタレーナに問われた「誰?」に対する答え。

 それなのにマタレーナ、ウルマスの番になんの反応もない。


「そなたの番だ」


 ああ、肝心なことを言っていなかった。

 そう気づいて、ウルマスは急いで続けた。

 するとやっと反応があった。


「失礼ですが、お間違えかと」


 獣人の王は、己の番をけして間違えない。

 マタレーナは番保護所にいたのだ。

 知らないわけはない。


(なぜ知らないフリをする)


 そこで気づいた。

 保護所を出るために、マタレーナは死んだことになっている。

 今の彼女はパヌラ男爵の娘ヴィーチェだったか。

 番の死を偽装したことは、けして認められないのだ。

 偽装は重罪だ。

 協力したパヌラ男爵や、マタレーナの実家にも累をおよぼす。


(不自由な思いをさせたのは俺の罪だ。マタレーナが負うものではないのに)


 ウルマスは不甲斐ない自分に腹が立った。


「俺をごまかせるとでも? そなたは番だ。間違えるはずがない」


 逃げないでほしい。

 その思いが口調を強くする。

 はぁと小さなため息をついて、マタレーナはあきらめてくれた。


「では陛下、畏れながらどのようなご用かとお伺いしても?」


 自分がマタレーナだと認めてくれた。

 嬉しいはずなのに……。

 ウルマスの心は冷えた。


 これまでのことを何もかも話してやれば、マタレーナの凍った心は融けるのだろうか。

 もしかしたらなにもかも言い訳だと、切って捨てられるのかもしれない。


「ウルライネンに連れて行く。他になにがある?」


 言ってしまって、ウルマスは後悔した。

 とんでもない悪手だ。

 もう少し違う言い方、いや違う言葉がいくらでもあったのに。


「おそれながら陛下、つつしんでお断りいたします」


 これ以上はないくらい冷たく硬い声で彼女が答えた時、死にたいほど自分のバカさ加減を呪った。




 すごすごとうなだれてウルライネンに戻ったウルマスに、ウクセン候ハインツは手厳しかった。


「まあ仕方ないでしょう。これまでがこれまでですから」


 むしろ最初から受け容れてもらえると思っていたのかと、呆れられた。


「神定の番とはいえ、拒まれたのでは仕方ありません。おあきらめになりますか?」

「……なわけがあるか」

「なんとおっしゃいましたか」

「そんなわけがあるかと言った」


 そうですかと相槌を打って、ウクセン候ハインツはそこで初めて微笑んだ。


「では精進なさいませ」

「言われずともそうする」


 あきらめるつもりはない。

 それならばこちらからマタレーナの心に近づくしかない。


「しばらく留守がちになる。適当な言い訳を作れ」

「承知いたしました」


 憎らしいくらい澄ました顔で、ウクセン候ハインツは頭を下げた。

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