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第三章 独りもいいけど

第18話 ここは男爵領なんですが

「小麦の収穫は来月初めくらいから?」


 領内をしょっちゅう見回っているから、麦の穂の実り具合は知っている。

 執事に聞いたのは、領民の予定を確かめたかったからだ。

 収穫には人手が必要だから、領民は誰の畑だとか細かなことを言わず、順番に手伝いに出ている。

 マタレーナも当然、手伝いに出るつもりだ。


「お嬢様、差し出がましゅうございますが……。日差しが強うございます。収穫の手伝いはお考え直しを……」


 初老の執事は、何度も願ってかなえられなかったことをまだあきらめてくれない。

 マタレーナが野外に出て日焼けして帰って来ると、それはもう泣きそうな顔になる。

 家政婦長メリーは彼の妻だが、夫婦二人がかりで「日焼けは避けるように」と懇願される。


「ちゃんと帽子を被るし手袋もつけるから。大丈夫だから」


 帽子も手袋も面倒にはちがいないのだけれど、多少の譲歩は必要だ。

 気のいい夫婦を泣かせたくはない。

 彼らはマタレーナの貴族令嬢としての未来を、気にかけてくれているのだし。


「小麦はうちの領の看板商品でしょう。その収穫に立ち会わないなんて、領主の風上にもおけないじゃない」

「収穫された小麦は確かに看板ではございますが、領主が収穫の現場に立ち会う必要はないかと存じます」


 来月初めの収穫時には、今よりもっと日差しがきつくなっているはずだ。

 収穫ともなれば短時間で済むはずもないから、浴びる日差しの量も見回り時とは比べようもない。


「絶対にお控えください」


 頑として譲らない執事に、マタレーナは困ってしまう。


 一年前、突然パヌラ男爵の娘として現れたマタレーナを、執事と家政婦長は快く受け容れてくれた。

 事情は知っているようだったけれど、それについて彼らの口から一度も触れられたことはない。

 彼らは昔から仕えている主家の娘として、愛情をもって接してくれている。


(日焼けすると、もっとみっともなくなるからだったかしら。そういう嫌な言い方をされたことならあるけど)


 言うまでもなく、ハカネンの母の言葉だ。


(実の親より、よほど思いやりがあるわ)


 いつまでも少女のままの傲慢さと世間知らずさを併せもつ母、それを諫めることさえしない父。

 最後に顔を見たのはいつだったか。

 思い出せないくらい昔のことだ。

 けれど少しも寂しいとは思わない。

 二人の姉やその夫君とは、保護所を出た後もこっそり会っている。

 こちらとの関係は、良好だ。

 そのこっそりの会合も、パヌラ家の執事と家政婦長がセッティングしてくれる。

 本当にできた二人だ。

 だから執事を悲しませたくはないのだけど……。


「帽子の下にストールを被るわ。ぐるぐる巻きにするから。そしたら日焼けしないでしょう」


 来月初めならかなり暑くなっているはずだ。

 そんな中、ストールでぐるぐる巻きになどしたら汗だくになる。

 けれどまあ、大事にしてくれる彼のためなら汗だくも我慢しなければならないだろう。


(それで許してくれるのなら仕方ない)


 これ以上の譲歩は引き出せない。

 落としどころを心得ている執事は、しぶしぶながら「仕方ありませんね」と引き下がってくれた。



「ところで……。例の牛舎のことなんだけど。まだ来てるの?」


 あえて主語を外して、マタレーナは歯切れ悪く聞いた。

 主語に使うには、おそれおお過ぎる人の名だ。


「はい。そのようでございます」


 マタレーナが令嬢らしくないことをする以外は、執事の表情を変えさせないらしい。

 執事のお手本のような、みごとな無表情で答えてくれる。


「夜は? まさか牛舎に泊ってたりはしないわね?」

「はい。夜にはお帰りのようでございます」


 相変わらず外した主語の主は、ウルライネンの国王陛下だ。

 狼獣人の国の王が、連日パヌラ領に現れる。

 しかも牛舎で働いているのだから、領主代理のマタレーナは生きた心地がしない。


(なにかあったらどうするの。それでウルライネンに睨まれでもしたら、今度こそ極刑じゃない)


 新しい身分を手に入れて、ようやく自由を手に入れたのだ。

 静かに地味に穏やかに、これからの人生を送ろうとしているのに。

 今さら番だの、ウルライネンに戻るだの、ふざけたことを言ってきたから断った。

 そうしたら今度は牛舎で働く?

 嫌がらせもたいがいにしてほしい。


(二度と来るなと言ってもダメだったなぁ……)


 そもそも身分でいえば、あちらがはるかに上だ。

 来るなと命令できる立場ではない。

 けれどこのままここにいつかれるのは、ほんっとうに困る。


「ここが片付いたら、牛舎に行ってくるわ。なんとか穏便に帰っていただくように、頼んでみる」


 ダメだろうけど……。

 でも放っておいていいはずがない。




「もうおいでにならないでくださいと、何度もお願いしたと思うのですが」


 昼食時のことで、牛舎にはマタレーナとこの男、ウルライネン国王ウルマス以外の人影はない。


「何度頼まれても、俺の答えは変わらない」


 両腕に乾いた干し草を山盛り抱えたウルマスは、作業の手を止める気はないらしかった。

 小型でも牛は牛で、出すものは大型の牛とそう変わらない。

 ウルマスの作業服はかなり汚れていて、元は何色だったかわからないほどだ。


「あなたがなさる事じゃないでしょう。私が困るんです」


 干し草の山を奪おうとすると、「汚れるぞ」と避けられる。


「俺がしたくてすることだ。何も問題はない」


 問題は大ありだ。

 どこの世界に他国の、しかも地方の小さな領地で、牛の世話をする国王がいるのか。

 聞いたことがない。

 ウルライネンの家臣がウルマスのこんな様子を見たら……。

 考えるだけでもおそろしい。


 けれどどんなに来るなと頼んでもダメなのだ。

 連日、少なくとも週に三度、彼はこうしてここに来て、牛の世話をする。

 たまには麦の畑に出ることもあるらしい。


 もうお手上げだった。

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