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第19話 恨んでいるわけじゃない

「…………な」


 ぼそりとなにか、ウルマスが言った。

 けれどほぼ同時に、小型牛がぶもぉ~と鳴いたのでかき消されてしまった。


「メシか? 朝食ったんじゃないのか。おまえら、いっつも腹が減ってるな」


 干し草を敷きつめる手を休めて、ウルマスは茶の小さな牛の背を撫でる。

 作業着のポケットからトウモロコシの入った袋を取り出すと、「ちょっとだけだぞ」と牛の口元に運んでいた。

 大量のよだれがウルマスの手を汚しているが、まるで気にした風もない。


(なんだか楽しそう?)


 おかしい。

 ウルマスは国王だ。

 狼獣人の国ウルライネンといえばこの世界ではかなりの大国で、そこの王様。

 普段は王宮の奥で、たくさんの人に傅かれているはずだ。自分の腕で何かを運ぶことなんてなくて、それこそ縦のものを横にもしないような生活だと思う。

 それなのにこんなところで牛の臭いにまみれて、汚れて汗かいて、どうして楽しそうにしているのだろう。


「ここは落ち着くな」


 金色の双眸が優し気な色を映して、マタレーナに向けられていた。


「こいつらはいつものんきで平和そうだし、それはここのヤツらも同じだ。あれこれうるさく詮索しない」


 そんなに牛が好きならウルライネンで世話すればいい……。

 言いかけて、思い出した。

 高い山と森に囲まれた彼の国には、農地に適した土地はほとんどない。ということは、牛や馬を育てる地も同じだ。

 ウルライネンの主産物は鉱物資源で、食糧自給率は極めて低い。


 それに長く続いた内戦で、ウルマスは「平和」とか「のんき」とか、そんな言葉からほど遠いところにいたのだろう。

 だから余計に珍しく、良いものに見えるのかもしれない。


(……って、何を考えてるの。私には関係のないことよ)


 ふいっと視線を逸らして、マタレーナは気持ちを仕切り直す。

 ウルマスが楽しそうにしているから、だからどうしたというのか。

 番などという面倒な縛りからやっと逃げてきたというのに、また関わってどうする。

 もう来ないでほしいと、ウルマスには何度も伝えた。

 きかないというのなら、これ以上話すことはない。


「明日から私はここに参りません。だからもう、後はお好きに……」

「では俺が行こう」


 かぶせるように言って、ウルマスはにやりと笑う。

 汗で額に貼りついた黒髪に、汚れた顔と身体。近寄ればきっと牛の臭いもするはずだ。

 だけどそれさえ野性的な魅力に見えてしまう。


(見た目だけは良い)


 悔しいが認めざるをえない。


「そなたは好きにするがいい」


 ウルマスが男爵家の屋敷に来る?

 それは今よりもっと困る。

 今のペースで連日訪問されれば、必ず噂になる。近隣の領主の耳にも入るだろう。

 そうなればマタレーナの秘密、正体がバレてしまうかもしれない。


「どちらでも俺はかまわんが?」


 片方の唇の端だけを器用に上げて、ウルマスは挑発的に笑う。


(こいつ! 最悪だ)


 さすがにそのままは口にできない。

 仕方なく、思いとは逆の答えを返した。


「私がここへ参ります」

「そうか。ではもう少し頻繁に、ゆっくり時間をとってくれると嬉しい」


 満足げに微笑んだ顔は、牛舎で見るにはあまりにも優雅で美しい。

 場所や状況に関わらず、彼はいつでも王族で、それ以外の何ものでもないのだ。


「できるだけの努力はさせていただきます」

「けっこう」


 いつのまにか主導権をとられている。

 悔しいけれど、仕方ない。

 マタレーナは慣れていないのだ。

 年齢だけはそれなり……というか、かなりいい数字になっているが、愛だの恋だのそんなものが関わるやりとりには全く免疫がない。

 番保護所に入ったのは十三の歳で、それから退所する二十八の歳まで男子禁制の聖域で過ごした。

 教養の一環として目を通した小説に、恋愛を扱ったものがないではなかったけれど、所詮空想上のものにすぎない。

 だからウルマスのように、拒んでも拒んでも近づいて来る男性をどう扱うべきか。

 途方にくれてしまう。


 ふうとひとつ息をして、マタレーナは来るなと願うのをあきらめた。

 どうせ無駄だと、やっと悟る。


「ひとつ伺っても?」


 「なんだ」と不思議そうに問い返すウルマスに、以前から不思議に思っていたことを聞く。


「どうして牛舎なのでしょうか」

「ここと麦の畑、そなたは毎日来るだろう?」


 即座に返された。


「とても楽しそうにしていた」

「していた……? どこかで見ていらした?」


 ウルマスの顔が赤く染まる。

 つい先ほどまでの余裕はどこへやらで、金色の瞳がうろうろと泳いでいる。


「……な、そのようなこと、どうでも良い」


(あ、やっぱり見てたのね)


 とても不敬だが、笑いを抑えられない。

 どこかに身を隠しながら盗み見をしている姿を想像したら、おかしくなった。

 嫌な相手なら、きっと気持ち悪いと思うんだろう。

 けれどそう思わないということは、少なくとも嫌だとは思ってないらしい。


(まぁ最近になって、初めて会った人だし。そんなに悪い人ではないし)


 もちろん好きとは違う。

 マタレーナが籠に閉じ込められたまま不自由に暮らさざるをえなかった元凶は、この男だ。

 この男の番でさえなければ、少なくとも自由に未来を選べたはず。

 役人や女官、騎士や商人。

 なりたいと願ってかなわなかった仕事が、過去いくつあったことか。


(けどそれは、この人も同じなんだわ)


 理性的に考えられる程度には、マタレーナもウルマスを冷静に観察していた。

 獣人である彼の方が、「神定の番」の縛りはきついはずだ。

 自分の意思で選んだわけじゃない女を、強引に押し付けられるのだ。そして彼らはけして逆らえないのだとか。

 だからウルマスが今になってやってきて、愛情らしき気持ちをちらちら見せてきても、それは彼の本意ではないと思う。


(十六年逆らい続けたけど、ついに逆らえなくなった。きっとそんなとこね)


 マタレーナは別に愛だの恋だの、そんなものを今さら求めているわけではない。

 もうこれ以上、未来を縛られたくないだけだ。

 現在の暮らしをマタレーナはとても気に入っている。

 独りで生きて、やがてここで人生を終えられればそれで本望だ。


(お互いに自由になりましょう。そう言ったところで、わかってもらえないでしょうね)


 長期戦になりそうだと、マタレーナは覚悟した。

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