初夏はパヌラ領がとりわけ美しく見える季節だ。
黄金色の穂の先が重そうに頭を垂れて、ザワザワと揺れる。
かくんとしっかりお辞儀をするくらいに頭を下げたら、刈り入れ時の合図だ。
「明日から刈り入れ始まるんですって」
領内の畑を管理する長から、たったいま聞いてきた情報だ。
屋敷に戻るなり、マタレーナは興奮気味に執事に話す。
「雨、当分降りそうもないわ。急いで刈って、干さないとね」
この季節には、例年雨が少ない。
からりとした晴天が続き、湿気を嫌う小麦の収穫にはもってこいなのだ。
刈り入れの後脱穀、つまり身の部分だけにして、その状態になったら天日にさらす。
一度にすべての畑の刈り入れは無理だから、領民総出で分業するのも毎年のこと。
「お嬢様、ストールと手袋をくれぐれもお忘れなく」
老執事の声には、わかっているだろうなと圧があった。
今日も朝から天気がよくて、ダイニングの大きな窓からは強い日差しが容赦なく入り込んでくる。
「言うまでもないことですが、お帽子もお忘れになりませんように」
マタレーナの帽子は細い麦わら製で、つばの部分を特に柔らかく広く作ってある。
つばと本体の間に通されたリボンを絞ると両頬をつばが覆う仕様で、少々の風では飛ばされない。
その帽子の下に、薄い木綿で織ったストールを巻く。
首の日焼け防止のためだ。
次に手袋。
もちろんこれも日焼け防止のためだが、交換しやすいように手首より少し長めの薄手のものだ。
「面倒だからと、外したままになさいませんように」
指先が痛むからと、念をおされる。
つい先だって牛舎の干し草交換に手を出して、その際作業しにくいからと手袋を外した。
陽にあたるわけじゃないからいいだろうと思っていたら、夜になって家政婦長に叱られたのだ。
指先がかさかさに傷んでいる。淑女の手ではないと、それはもうきついお小言だった。
家政婦長は執事の妻で、それなら彼が知っているのも当然だ。
(働き者の淑女の手。そう思ってくれないかなあ)
口に出さないのは、彼ら二人がマタレーナに結婚してほしいと願っているからだ。
未婚の淑女には、特に美しい手や肌が求められる。
(結婚しようなんて気はないんだけど……)
これも黙っていることにした。
うっかり口に出そうものなら、泣き出さんばかりの勢いで「どうしてですか」とか「それならお相手をわたくしが探します」とか言われるのが目に見えているからだ。
「手袋は外さない。帽子もストールも外しません」
右手を挙げて誓って見せると、まだ言い足りなさそうにしながらも執事はなんとか引き下がってくれた。
それでもこれ以上ここにいるのはマズい。
心配性の彼が、またなにを言い出すか知れたものじゃない。
「コーヒーはいいわ。もう行かなくちゃ」
マタレーナは紅茶よりコーヒーを好む。
その彼女のためにと、老執事はわざわざ王都からコーヒー豆を取り寄せてくれている。
朝食後にはすっきりした後味のコーヒーを淹れてくれるのが、毎日の習慣だった。
少し残念そうな顔をしたのは一瞬のこと。
「承知いたしました」と、執事は頭を下げる。
「行ってくるわ」
そそくさとマタレーナはダイニングを後にした。
「刈り入れ機を使わないって? マジかよ」
「今日のは特別上等の小麦だからな。丁寧に刈り取るんだよ」
「これ全部?」
「全部だ」
刈り入れ予定の麦畑を前に、作業班リーダーの男が人の手での刈り入れを言い渡していた。
普通なら大きな
「二倍の値がつくんだ。それくらい気を遣わなくてどうする。二倍だぞ、二倍」
目の前にあるのは、タンパク質とミネラル分の豊富な麦の畑だ。
カリっとした外皮で中はしっとり、最も贅沢で美味だと好まれるパンの原料になる小麦だった。
それならすべての小麦をこれにしてしまえば良いのだろうが、そうもいかない。
皆が皆、高級パンや菓子ばかり食べているわけではないからだ。
普通の暮らしには、安価で入手しやすい小麦も必要だった。
「今日と明日でこいつらを刈り入れたら、明日からは刈り入れ機を使う。てことで、今日は頑張ってくれ」
目の前に拡がる広大な小麦畑を指さして、四十歳前くらいの働き盛りらしい男は言った。
日焼けした浅黒い肌を長袖の作業着の下に隠している。
さすがに襟元まで詰めると暑いらしく、胸もとはゆったりと開けていたが。
使い込まれて少し萎えた麦わら帽子に厚手の手袋の彼は、刈り入れ用の鎌を手に小麦の畑に入っていった。
「へいへい、わかりましたよ」
刈り入れ作業班に割り当てられた青年たちが二十人ほど、続いて麦畑に入っていく。
牛舎の朝仕事を終えた後、牛の世話担当の男たちも参加する予定だった。
「台、もう少し作っとくかね」
刈った麦を拾い集めるのは、近隣の農家の女たちだ。
乾いた麦の茎で刈った麦を束ねては、急ごしらえの物干し台にさっさと並べてゆく。
「去年もこのくらいだったからねぇ。大丈夫、足りるとは思うけどさ」
マタレーナはこの女たちの班だ。
「お嬢様にこんなこと、おそれおおい」などと最初こそ恐縮していたおかみさんたちも、いまでは慣れたものだ。
マタレーナがここにいるのを自然に受け容れている。
「台木を組む?」
マタレーナがそう問えば、「そうだね」と頷いてまかせてくれる。
畑の隅に積まれた木材を三本ほど、マタレーナは両手で抱え上げる。
荒縄でぐるぐると縛るのだが、今やもう手慣れたものだ。
最初に縛った時にはすぐに緩んで使い物にならなかったというのに、大した進歩だと思う。
同じ要領で数か所分の台木を作って、それに長い横木を渡すのには他人の手を借りた。
「日が暮れる前に、全部干しちまいましょう」
「あ、露よけのシート、もう少し持ってきますね」
ばたばたと若い女性が畑から消えるとすぐに、牛の世話をしていたらしい男たちが現れた。
両手に余るほどの撥水シートを抱えている。
「こういうのは男の仕事だから」
そう言って得意気に鼻を上に向ける青年は、マタレーナを見て何か思い出したらしい。
「ああそういえば……」と切り出した。
「ウルマス、あいつさ、今日からしばらく
「聞いてないけど?」
「ふぅん、お嬢様に言わなかったってことはよっぽど急いでたんだろうさ。とにかくウルマスはしばらくいない。俺、言ったからな」
しばらく来ないということか。
まあ当然のことだと思う。
隣国とは言え、国王がお忍びでちょくちょく出歩いている方がおかしいのだ。それもただ出歩くだけじゃない。牛の世話までしているのだから、どう考えても普通じゃない。
(さすがに叱られたのかも)
マタレーナにも怖い人がいる。
執事とか家政婦長とかだ。
あふれんばかりの愛情をそそいでくれているのは知っているが、それでもお小言はしょっちゅうだった。
ウルマスにもそんな人がいてもおかしくない。
(それにしてもどうして今なの。猫の手も借りたい、いっそがしい時に!)
頼みもしないのにいつもしつこく寄って来るくせに、肝心な時にいなくなる。
(肝心な時にいないの、得意なのかしら)
面白くない過去を思い出して、すいと視線を畑の脇道へ逸らした。
(あれ……? なにかあった?)
屋敷の方角から近づく馬がある。
それもかなりのスピードでだ。
乾いた土の舞い上がる煙をまとった様子に、嫌な予感がした。
「お嬢様、急いでお屋敷へお戻りください!」
執事が遣わした青年は、騎乗のまま早口で告げる。
主人の前で下馬もしない無作法を、あの厳しい老執事にしこまれた彼がするはずもない。
(よほどの大事……ということね)
マタレーナは頷いて、すぐに彼女の馬を迎えに行った。
後は屋敷への道を急いで駆ける。
事情は後で聞けばいい。
「お呼び戻しいたしまして、申し訳ございません」
屋敷へ戻ると、老執事が頭を下げて出迎えてくれた。
「急なお客様がおいでです。少々気の張るお相手なので、お嬢様にお戻りいただきました」
この執事をして「気の張る」と言わせるとは、どんな厄介な客なのだろう。
悪い予感しかしない。
「どなたなの?」
「ウルライネンのトゥルトラ大公妃殿下でございます」
ああ、やはり。
最高に面倒で厄介な客だった。