トゥルトラ大公妃といえば、あのミヨネのことだ。
十六年前、数か月一緒に過ごしただけだが、不快な記憶しかない。
ふわふわの金髪に緑の瞳、外見だけは愛らしい小柄な美少女だった。
(あれから十六年経ってるし、少しはマシになってるかもしれないけど)
刈り入れ補助作業の最中だったから、汗だらけの泥まみれだ。
さすがに着替えて出ないとまずいだろう。
(先触れもなしで来る方が悪いのだけど。それでも一応相手は王族だし)
顔と手脚をざっと洗って、少しだけ上等の普段着の袖に腕を通した。
ほとんど飾りのないそれは、小麦の色をした薄い上質の絹地で作られている。
軽くて動きやすいので、マタレーナのお気に入りの一着だ。
「お待たせいたしました」
応接室に入ると、マタレーナは低く腰を落として最敬礼をする。
執事の話では、王都を訪問した帰り道なのだそうだ。
そのままウルライネンへ帰るのが嫌で、数日の間滞在したいということだった。
(この忙しい時に迷惑な)
そうは言っても相手は他国の王族だ。
いまいましいが、礼儀は守らなくてはならない。
「あっれ~? あんた、マタレーナじゃない?」
耳障りな声は、マタレーナの記憶にあるものより少しだけ低くなっている。
(いきなり呼び捨て? 十六年経っても、バカは治ってないのね)
顔を伏せたまま、マタレーナはふんと小さく息だけで笑う。
(ダメよ。このバカにはシラをを切り通さなくては)
唇の端を引き締める。
「妃殿下にはご機嫌うるわしく。パヌラ男爵の娘ヴィーチェと申します」
相変わらず顔を伏せたままのマタレーナに、ミヨネは苛立った声をあげた。
「顔見せてみなさいよ。マタレーナでしょ?」
貴人の前では許しなく顔を上げてはならない。
そんな常識も知らないで、よく王族を名乗っていられるものだ。
(まあお許しがあったと、そういうことでいいわ)
「ヴィーチェ・ティア・パヌラでございます」
顔を上げて微笑んでみせる。
十六年ぶりに目にしたミヨネは、まるで時が止まってでもいるように少女じみた外見だった。
ふわふわの金髪は丁寧に巻かれていて、両脇にはピンクの幅広リボンが飾られている。リボンやレースで飾られたドレスは、鳥かごのように膨らんだデザインでこれもピンク色。足下の小さな靴もピンクのサテン製らしい。
(どう見ても十代の女の子の装いだわ)
ミヨネはマタレーナと同じ歳のはずだから、今年二十八歳。
老いてはいないけど、かわいらしいと言えるほど若くはない。
(そういえば大公殿下に初めて会った日、豪華なドレスを
豪華なドレスとは、たぶん今ミヨネが着ているようなものなんだろう。
ピンク色のふわふわした、リボンやフリルのたくさんついたドレス。
十代のふっくらとしたかわいらしい容姿には似合うだろうけれど、今着るにはかなり無理があると思う。
「嘘よ。あんたマタレーナでしょ? その嫌な口のきき方、えらそーな感じ、マタレーナの他にそんな女がいるわけないでしょ」
かくかくと不自然な歩き方で近づいて、ミヨネは顎を上向けてマタレーナを睨んだ。
記憶にあるより背が伸びた感じがするのは、おそらく高いヒールのせいだろう。
「白状しなさいよ。別人になりすましてるなんて、わたしがバラしたらどうなるかわかってんでしょ?」
にやりと笑うミヨネの顔は、昔と同じく意地悪で醜悪だ。
(さて……。どうしてやろうか)
マタレーナを敵視する理由を、理解しようとは思わない。
知ってどうなるものでもないし、たぶん呆れるほどばからしい理由なのだろうから。
それよりもこのお
(追い返す。この一択ね)
マタレーナは意識して綺麗に微笑んだ。
取引先との交渉時に使う表情だ。
「おそれおおいことではございますが、妃殿下のお言葉を理解いたしかねます。マタレーナ様……とおっしゃいましたか。わたくしがそのお方に似ているということでしょうか」
「そーじゃなくてっ。あんたがマタレーナだって、そういってるの。今白状しないと、すぐに王都に言いつけるってね」
つばが飛んで来る。
(汚い)
思わず顔に出そうになるのを、気力で抑えこんだ。
そしてさらに笑みを深くする。
「そのマタレーナ様……でしたか。そのお方はいったいどこのどなたなのでしょうか。わたくしはお名も存じ上げませんが」
「マタレーナ・ティア・ハカネンよ。番保護所にいた! あんた、なにすっとぼけてんのよ」
「保護所においでになったお方なら、もうどちらかのお国に嫁いでおいでになるのでは?」
「迎えになんて行かせてないわよ。だって知らないんだもん。あんたがあそこにいたこと。陛下は」
(ふうん。この女が一枚かんでいたのね)
ついこぼしてしまったのだろうミヨネの本音に内心で頷きながら、呆れて……。
いいや正直に言おう。
腹が立った。
マタレーナの虚しい十六年に、この女がからんでいたということがとても不快だった。
どうせくだらない動機に違いないのだ。
一番の元凶は、コレにいいようにされたウルマスだ。
けれどだからといってコレを許せるほど、マタレーナの人格は
(どうしてくれようか)
一番ダメージを与えられる札は、ウルマスだ。
彼が既にマタレーナを番として認識していると知らせれば、たちまちこの女を叩きのめすことができる。
マタレーナは王妃で、ミヨネは
けれどそのやり方は、マタレーナの趣味ではない。
虎の威を借るキツネもいいところで、ミヨネと同じ発想だ。
(このバカ女は、夫から「要らない番」と言われたらどうするのだろう)
トゥルトラ大公は優秀な宰相だ。
いくら神定の番は特別な存在だとしても、国益を損なうとなれば話は別だろう。
夫に「要らない」と言われる、少なくとも「迷惑な番」と思われるように仕向けてやるか。
「ときに妃殿下、トゥルトラ大公は妃殿下がこちらへおいでのことをご存知なのでしょうか」
「えっ?」
ほらやはり。
あからさまに動揺するミヨネに、このバカ女が夫の許可なくパヌラ領を訪問していることを確認する。
「今収穫しております小麦には、ウルライネンにお届けする予定のものも入っております。この大事な時期に、妃殿下のご訪問を大公殿下が許可なさったのでしょうか。そうであれば大変遺憾でございますが……」
これにはミヨネの側に控えた護衛騎士が、びくりと身体を震わせた。
バカ女ことミヨネには、マタレーナの真意が伝わっていないようで、きょとんとした顔をしていたが。
「ウルライネンにお納めする小麦を確保できますでしょうか。今年は収穫量が減ると予想されますので……」
大嘘だ。
今年は豊作だと報告が上がっている。
「妃殿下、どうぞお詫びを」
これまで数々の無礼にも沈黙を守ってきた護衛騎士が、さすがに顔色を変えてミヨネに進言する。
食糧自給率のきわめて低いウルライネンだ。
しかも長い内戦が終わったとはいえ混乱の後始末はまだ続いていて、パヌラからの小麦が途絶えれば市場価格はたちまち天井知らずになる。
力で抑え込もうとすれば、パヌラと親交のある獅子王国が必ず出張って来るのは目に見えていた。
かの国もさほど食糧自給率は高くないから、パヌラの小麦をあてにしているのだ。
神定の番制度さえなければ、パヌラから王妃を迎えたいと思うほど。
「お詫びなどとんでもないことです。トゥルトラ大公殿下には、後ほどこたびのご訪問についてお礼の書状を差し上げます。このような田舎の収穫期に、おそれおおくも妃殿下がご視察においでになったこと。本当に感謝の極みですわ」
言いつけられて困るのはどっちだ。
大事な収穫期、まさに刈り入れの真っ最中に先ぶれもなくやってきて、他国の貴族令嬢に暴言を吐いた。
さらに主人に絶対の忠誠を誓うとされている護衛騎士とはいえ、その前で国王ウルマスの番について嘘をついていたと白状したのだ。
(つける薬がない)
バカさ加減に乾いた笑いが浮かぶが、呆れたからといって許せるわけじゃない。
「大変申し訳ございませんが、妃殿下のご訪問の栄誉は、また日をあらためてお受けさせていただきます」
帰れ。
直訳すればそうなるお断りを、マタレーナは極めて優雅に微笑して口にした。