迷惑な訪問者を撃退した夜遅く、マタレーナは居間のサイドボードから緑のボトルのウィスキーを取り出していた。
昼間のバカ女の残したイライラが蘇り、なかなか寝つけなかったのだ。
「これは憶えている価値のない記憶。忘れて良い記憶。思い出す必要がないどころか、害しかない記憶」
嫌なことをやり過ごすのに、マタレーナが唱える呪文だ。
十六年の間、幾度この呪文を唱えたことだろう。
それなりに効果があったはずなのに、どうしたことか今夜は効かない。
もう何度目かの呪文を繰り返しあきらめて、酒に頼ることにした。
パヌラ領でもかなり北部、標高の高い地で育てる大麦が特別のモルトを作る。
このモルトを蒸留したウィスキーは、スモーキーでかなり癖が強い。
中には薬草のような香りがするものもあって、好き嫌いの別れる酒だ。
けれどマタレーナは、ワインよりこの酒を好んでいた。
パヌラ領へ来るまでは、貴婦人の嗜みとしてシェリーやワインをよく口にした。
ウィスキーなどという強い酒は、そもそも貴婦人の口にするものではない。荒っぽい男たちの飲むものだというのが一般的な認識だからだ。
ここへ来た当時、いろんなこの世の決まり事などどうでも良くなっていた。
だからパヌラ特産だというウィスキーに迷わず手を伸ばし、口にしてハマった。
独特の香りとカッとくる熱。
身体中が熱くなって、元気が出るようだ。
なのに翌朝少しも残らない。
下の姉アーダに一本だけ贈ったところ、姉の夫から「あるだけ欲しい」とすぐに手紙が来た。
王都で一番の商会を営む義兄の触覚に、響くものがあったらしい。
義兄のカンは確かだった。
生産量が少ないのもあって「幻の酒」扱いされて、たちまち高値で取引されるようになった。
パヌラ領の隠れた名品だ。
その名品、薄い琥珀色の液体を、この季節にはかなり贅沢な氷の上にたっぷり注ぐ。
カランとグラスが鳴った。
(ダブルで二杯くらいなら、明日に響かないでしょう)
ダブルというよりトリプルの量だけど、それは誤差の範囲内ということにする。
普段は本当にダブルで二杯だが、今夜は特別だ。
明日も刈り入れと乾燥作業が続く。
眠らないで出るのは、さすがに無茶なことだ。
(眠り薬のかわりよ)
スモーキーな香りが鼻に抜けて、喉元がカッと熱くなる。
「美味しい」
口にすると、自然笑顔になった。
コツン――――。
バルコニーへ続く窓近くで、音がした。
(やっぱりね)
なんとなく予感があった。
ミヨネ、あのバカ女のしでかしたことが、ウルライネン本国に伝わらないはずがない。
こっそりと内密に、誰かが来るだろう。
パヌラの小麦を止められないために。
「誰?」
声をかけて窓の外を見る。
人影はない。
視点の高さが違うのだと気づいて、膝を折って視点を変える。
「今日のは青ですか」
窓の外には姿勢の良い黒狼が立っていた。
首に大きな、青い包みをくくりつけて。
(何度見てもおかしい)
こみあげる笑いを、マタレーナは唇を引き結んでこらえた。
威風堂々といかにも王者の風格を備えた黒狼が、首に大きな荷をくくりつけているのだ。
その中身は、たぶん前と同じだ。
「お入りになって」
格子の入った窓を開けてやる。
「いいのか?」
黒狼の金色の瞳に、おずおずとした遠慮が見て取れる。
「このままここで話していては目立つでしょう」
ここまで来ておいて何をいまさら。
まさかバルコニーで、立ち話ですませるつもりだったのか。
「早くお入りになって」
「わかった」
大人しく従う狼の首元に、どうしても目がいってしまう。
急いで括りつけたのだろう。
適当にまるめて放りこんだ中身を、これまた適当に包んで引き結んだ感がありありだ。
「その……部屋を使わせてもらいたい」
金色の目を泳がせるようにして、狼は視線を外している。
「向こうの寝室をお使いください」
居間と続きの寝室を示す。
普段は開きっぱなしにしているが、ちゃんと間仕切りの扉がついている。
「感謝する」
ささっと急ぎ足になる狼の後ろ姿。
ぱたんと扉が閉まった瞬間、ついにマタレーナは噴き出した。
もちろん最大限努力して、声は抑えたけれど。
「飲んでいるのか?」
白いシャツに黒のパンツ姿のウルマスは、見慣れた人の姿に戻っていた。
くんっと鼻を鳴らして眉を顰める。
「ええ。陛下もいかがですか」
グラスにパヌラのウィスキーを注いで差し出すと、ウルマスの眉間の皺が深くなる。
「強い酒だな」
「ウィスキーですから」
「戦場で飲む酒のようだ」
「さようでございますか」
淑女が飲んでいい酒じゃないと言いたいのか。
余計なお世話だ。
首に青色の荷包みを巻いて来るのも、大国ウルライネンの国王の姿じゃない。
少しだけかわいらしいなどと思って損をした気分になる。
「ワインをお持ちしましょうか?」
「いや、これでいい」
これ
幻の酒になんて言い草だろう。
好みの酒を蔑ろにされて、マタレーナの機嫌は微妙に悪くなる。
「陛下、おそれいりますがご用件を伺っても?」
狼に変化してまでいそいでやって来た理由などひとつしかない。
昼間のバカ女の無礼への詫びだ。
マタレーナがウルマスの神定の番でなく、たとえ身分が平民であったとしても、すみやかに正式な謝罪をしなければならない。
小麦を握るパヌラ領主は、食糧を確保しなければならない国の王より強い。
さっさと用件を済ませて、帰ってほしい。
明日も刈り入れの続きがあるのだ。
「昼間の件だ。我が国の大公妃が失礼を。どうか許してほしい」
マタレーナの「早く帰れ」オーラに気づいたのか、ウルマスは綺麗に腰を折って頭を下げる。
国王が他国の貴族、しかも男爵令嬢でしかないマタレーナに頭を下げるなど、少しばかりやり過ぎだ。
さすがに気まずい。
「陛下、どうかそのようなこ……」
「アレには厳しい監視をつけるように、大公へ命じておく」
ウルマスはマタレーナの言葉にかぶせてくる。
金色の瞳には怒りと、もうひとつ何か違う色があった。
「なぜ言わなかった?」
「なにをでしょうか?」
「そなたが俺の番だと、一言そう言えば済んだことだろう」
本気で言っているらしいウルマスに、ああダメだと思う。
王の名を盾に、他者を抑えつけるような真似をしろと?
「おそれいりますが陛下、明日も朝から刈り入れがございます」
酔いのせいで多少ふらつきながら、片足を引いて腰を落とした。
「どうかお引き取りを」
非公式の場ながら、かなりの無礼であることには間違いない。
けれどこれでもかなり譲った方だと思う。
「さっさと帰れ」
本当ならそう言って、たたき出してやりたいのだから。