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第22話 淑女らしく守られていろって?

 迷惑な訪問者を撃退した夜遅く、マタレーナは居間のサイドボードから緑のボトルのウィスキーを取り出していた。

 昼間のバカ女の残したイライラが蘇り、なかなか寝つけなかったのだ。


「これは憶えている価値のない記憶。忘れて良い記憶。思い出す必要がないどころか、害しかない記憶」


 嫌なことをやり過ごすのに、マタレーナが唱える呪文だ。

 十六年の間、幾度この呪文を唱えたことだろう。

 それなりに効果があったはずなのに、どうしたことか今夜は効かない。

 もう何度目かの呪文を繰り返しあきらめて、酒に頼ることにした。


 パヌラ領でもかなり北部、標高の高い地で育てる大麦が特別のモルトを作る。

 このモルトを蒸留したウィスキーは、スモーキーでかなり癖が強い。

 中には薬草のような香りがするものもあって、好き嫌いの別れる酒だ。

 けれどマタレーナは、ワインよりこの酒を好んでいた。


 パヌラ領へ来るまでは、貴婦人の嗜みとしてシェリーやワインをよく口にした。

 ウィスキーなどという強い酒は、そもそも貴婦人の口にするものではない。荒っぽい男たちの飲むものだというのが一般的な認識だからだ。

 ここへ来た当時、いろんなこの世の決まり事などどうでも良くなっていた。

 だからパヌラ特産だというウィスキーに迷わず手を伸ばし、口にしてハマった。


 独特の香りとカッとくる熱。

 身体中が熱くなって、元気が出るようだ。

 なのに翌朝少しも残らない。


 下の姉アーダに一本だけ贈ったところ、姉の夫から「あるだけ欲しい」とすぐに手紙が来た。

 王都で一番の商会を営む義兄の触覚に、響くものがあったらしい。

 義兄のカンは確かだった。

 生産量が少ないのもあって「幻の酒」扱いされて、たちまち高値で取引されるようになった。

 パヌラ領の隠れた名品だ。


 その名品、薄い琥珀色の液体を、この季節にはかなり贅沢な氷の上にたっぷり注ぐ。

 カランとグラスが鳴った。


(ダブルで二杯くらいなら、明日に響かないでしょう)


 ダブルというよりトリプルの量だけど、それは誤差の範囲内ということにする。

 普段は本当にダブルで二杯だが、今夜は特別だ。

 明日も刈り入れと乾燥作業が続く。

 眠らないで出るのは、さすがに無茶なことだ。


(眠り薬のかわりよ)


 スモーキーな香りが鼻に抜けて、喉元がカッと熱くなる。


「美味しい」


 口にすると、自然笑顔になった。



 コツン――――。


 バルコニーへ続く窓近くで、音がした。


(やっぱりね)


 なんとなく予感があった。

 ミヨネ、あのバカ女のしでかしたことが、ウルライネン本国に伝わらないはずがない。

 こっそりと内密に、誰かが来るだろう。

 パヌラの小麦を止められないために。


「誰?」


 声をかけて窓の外を見る。

 人影はない。

 視点の高さが違うのだと気づいて、膝を折って視点を変える。


「今日のは青ですか」


 窓の外には姿勢の良い黒狼が立っていた。

 首に大きな、青い包みをくくりつけて。


(何度見てもおかしい)


 こみあげる笑いを、マタレーナは唇を引き結んでこらえた。

 威風堂々といかにも王者の風格を備えた黒狼が、首に大きな荷をくくりつけているのだ。

 その中身は、たぶん前と同じだ。


「お入りになって」


 格子の入った窓を開けてやる。


「いいのか?」


 黒狼の金色の瞳に、おずおずとした遠慮が見て取れる。


「このままここで話していては目立つでしょう」


 ここまで来ておいて何をいまさら。

 まさかバルコニーで、立ち話ですませるつもりだったのか。


「早くお入りになって」

「わかった」


 大人しく従う狼の首元に、どうしても目がいってしまう。

 急いで括りつけたのだろう。

 適当にまるめて放りこんだ中身を、これまた適当に包んで引き結んだ感がありありだ。


「その……部屋を使わせてもらいたい」


 金色の目を泳がせるようにして、狼は視線を外している。


「向こうの寝室をお使いください」


 居間と続きの寝室を示す。

 普段は開きっぱなしにしているが、ちゃんと間仕切りの扉がついている。


「感謝する」


 ささっと急ぎ足になる狼の後ろ姿。

 ぱたんと扉が閉まった瞬間、ついにマタレーナは噴き出した。

 もちろん最大限努力して、声は抑えたけれど。




「飲んでいるのか?」


 白いシャツに黒のパンツ姿のウルマスは、見慣れた人の姿に戻っていた。

 くんっと鼻を鳴らして眉を顰める。


「ええ。陛下もいかがですか」


 グラスにパヌラのウィスキーを注いで差し出すと、ウルマスの眉間の皺が深くなる。


「強い酒だな」

「ウィスキーですから」

「戦場で飲む酒のようだ」

「さようでございますか」


 淑女が飲んでいい酒じゃないと言いたいのか。

 余計なお世話だ。

 首に青色の荷包みを巻いて来るのも、大国ウルライネンの国王の姿じゃない。

 少しだけかわいらしいなどと思って損をした気分になる。



「ワインをお持ちしましょうか?」

「いや、これでいい」


 これいい?

 幻の酒になんて言い草だろう。

 好みの酒を蔑ろにされて、マタレーナの機嫌は微妙に悪くなる。


「陛下、おそれいりますがご用件を伺っても?」


 狼に変化してまでいそいでやって来た理由などひとつしかない。

 昼間のバカ女の無礼への詫びだ。

 マタレーナがウルマスの神定の番でなく、たとえ身分が平民であったとしても、すみやかに正式な謝罪をしなければならない。

 小麦を握るパヌラ領主は、食糧を確保しなければならない国の王より強い。

 さっさと用件を済ませて、帰ってほしい。

 明日も刈り入れの続きがあるのだ。


「昼間の件だ。我が国の大公妃が失礼を。どうか許してほしい」


 マタレーナの「早く帰れ」オーラに気づいたのか、ウルマスは綺麗に腰を折って頭を下げる。

 国王が他国の貴族、しかも男爵令嬢でしかないマタレーナに頭を下げるなど、少しばかりやり過ぎだ。

 さすがに気まずい。


「陛下、どうかそのようなこ……」

「アレには厳しい監視をつけるように、大公へ命じておく」


 ウルマスはマタレーナの言葉にかぶせてくる。

 金色の瞳には怒りと、もうひとつ何か違う色があった。


「なぜ言わなかった?」

「なにをでしょうか?」

「そなたが俺の番だと、一言そう言えば済んだことだろう」


 本気で言っているらしいウルマスに、ああダメだと思う。

 王の名を盾に、他者を抑えつけるような真似をしろと?


「おそれいりますが陛下、明日も朝から刈り入れがございます」


 酔いのせいで多少ふらつきながら、片足を引いて腰を落とした。


「どうかお引き取りを」


 非公式の場ながら、かなりの無礼であることには間違いない。

 けれどこれでもかなり譲った方だと思う。


「さっさと帰れ」


 本当ならそう言って、たたき出してやりたいのだから。

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