――どうして無事なんだ?
セトがそっと目をあげると、信じられないような光景があった。
宙に浮いた水の塊。それが水槽のようにシェナを捉えて、速やかに凍りついていく。
頭の中に花火が散る。
どこかぼうっとしていた視界が、澄み渡る。
早く何とかしなければというのんびりした意識はここにきて不要だ。ぱっと首にかけた魔力の石を外して、凍りついていく水に投げつけた。
『風よ 我が意に従い 命を護れ!』
セトとしては成功したことのない類の詠唱。石が強い光を放ち、氷を突き破る。
そのまま石と魔力が水の中に空洞をつくった。
魔力の効果は衝撃で意識を失ったシェナの呼吸を確保したところで止まり、まわりを固めた氷の中で転がった。
白銀の船から、好奇心の視線が集まってくる。
それに対して、頭の奥が、ひどく静かに、苛立つ。
無責任な好奇心。野次馬。
そういうものは、大嫌いだ。
『風よ 締め上げろ。逆立ち巻上がり、災いとなれ!』
ごう、と白銀の船にむけて吹雪が逆流する。
バキバキと湖上の氷の道が遠くで割れる。
吹雪の中に目障りな船を追いやって、不快な視線は消えた。
それにしてもこの湖畔は寒い。
意識をむけると暖かい魔力が全身を包み込んで、凍てつくような寒さが消える。
すっきり白く細くなった腕から羽根蛇が実体を現して、ぐるぐると身体をとりまきながら体躯を膨らませる。
その黒いうねりと黒い霧が、生暖かく、拡がる。
巨大化する羽根蛇の出現に少し距離をとった帝王が、目を細めた。
「やっと会えたか。改めて言おう。待ちかねたぞ、世界を統べる魔女よ」
湖畔の冷たい空気を、ゆっくりと吸う。
……もうひとつの自分自身の在り方に、酔い過ぎた。
セトの人生への愛情を、ここでは、そっとしまっておく。
「その通り。私は世界を統べる。自然を、魔物を操り、この大陸の悪を帰一させる魔女。ツアーレ=ウイガル、部下を使ってよく私を見つけたね。今まで誰一人として、自分の智謀で辿り着けた者は無かったというのに」
背後でどこまでも巨大化する羽根蛇に呼応するように、ツアーレの背後にも水が巻きあがり膨らんで、細やかな造形を彩りながら形成されていく。
その光景に、魔女は少しだけ目を眇めた。
帝王の背後で造形されたのは、蛇ではない。
大きな鹿の角。大きな目と、ほりの深い虎のような顔立ち。馬のような細長い口元。細長い硬質の髭。蛇に似た硬質の鱗をもつ身体に、鋭い爪を持つ前脚。
その手に持つべき宝珠は、ツアーレの左手の中に納まっている。
何だこれは、とジノヴィが呟いたとおり、世界中の殆どの人間が知らないだろう。
自然の精霊獣ともいえる、水龍だ。
存在の記載があったのは古代文献くらいだったか。専門知識がなければ、読み解くのも難しい。
「水龍。その叡智の珠を使いこなすのね。……貴方は、絶対王政の頂点に、ぴったりだわ」
にこりと笑って素直に褒められた相手も、満足そうに顎をあげた。
「これがわかるとは流石だ。そう、私はとび抜けて強過ぎる。だから誰も手合わせが出来ないんだ。水龍は、大自然の獣。魔女にとっても相手に不足はないと見受ける。想像していたよりも、可愛らしい魔女だがな」
「私は可愛くないわよ」
魔女が左手を挙げる。
黒く輝く大きな羽根蛇が青白い光彩の水龍に飛び掛かり、互いに怒りの咆哮をあげて激しくぶつかる。
湖上の巨大な獣の闘いに呆然と口を開けていたジノヴィは、相方が目覚める気配にはっとして、じりじりと元来た街道に退避を開始した。
巻き込まれれば、確実に命はない。
だがそれを見付けた帝王が、無数の氷刃を放ってくる。
身を竦ませるより速く、魔女の唱えた風の盾がその全てを粉砕した。
「忠実な国民に手をあげるなんて、感心しないわね」
素朴な茶色の魔女の背中が、そのまま逃げろと言った気がした。こうなるとどちらが味方かわからない。
「面白い。その余裕に満ちた力……ぜひとも手に入れたい」
「気持ち悪い目で見るのはやめて。そんな事言うなら、手合わせなんてしないよ」
魔女は僅かに眉を寄せて、湖上の蛇を小さく縮小させる。
突然闘う相手を見失った水龍は、不満そうに水面を叩いて一吠えした。散らばる水飛沫が景色を染める。
ツアーレ帝王は掴んだ水を剣に変化させて、丸腰の魔女に一足飛びに斬り込んだ。
魔女は、太刀筋を軽く避けて、くるりと宙を舞う。
一瞬、立ち位置が入れ替わる。
魔女の視界に、通ってきた低木林の街道がうつる。
「――アルヴァ?」