ついさっきまで何の気配も姿も無かった水面。
そこから白い細い手が伸びて、足首をかたく掴んで離さない。
ゆらり、と水がゆれて、長い茶色の髪を濡らした女の頭が、半分ほど浮かんできていた。
その深い緑色の瞳。
視線を、逸らせない。
凍るように身動きの取れなくなった身体を、そのまま引きずり倒される。
日が沈んでから夜の闇があたりを染めるのは、あっという間だ。
ツアーレ帝王に何が起こったのか、誰にも見えなかった。だが、頭の中に直接響くような声に、全員が息をのんだ。
同時に、やっぱり、と思う。
どんなに強くて派手で環境が味方していても、世界を支配していた存在が、こんなに簡単に倒せる筈がなかったのだ、と。
暗闇に目を凝らして、ようやく人間の形をみつける。
水から這い上がってきたそれは、暗い緑の光をぼんやりと纏っているようにも見えた。
その背に、羽根蛇と同じ蝙蝠の翼を広げたようにも見えたのは、目の錯覚ではない。
誰も何も出来ないうちに、闇の中に黒い光片が溢れる。
呟くようにかすかに響いていた声が、輪郭を持った。
『――闇よ 未だ出でざるものよ 我が呪はここにあり
鋭を挫き 憤を解き 虚しくする ――を ここに戻そう』
ぞっとするような、無機質な詠唱の旋律が、ざらりと耳朶を撫でる。
これを、間近で受けた帝王は――
ジノヴィの背に冷たいものが流れる。
聞こえない筈の、ツアーレ帝王の苦しい息が聞こえた気がした。
ふとその詠唱を紡いでいた存在と、目が合った。呆然としていた頭を、必死に働かせる。
――咄嗟の言葉が、届くか、どうか。
「セト! ――セト=リンクス!!」
叫んだジノヴィ自身が驚く程、湖の空間に響き渡った。
身を竦めて息をとめたレギナが、かたく手を握ってくる。下手をすれば簡単に殺されそうな、緊迫する空気に斬り込んだ言葉だった。
「……何それ。皮肉? 無害な人間だったセトをここに連れてきたのは、貴方よ」
闇に薄く煌めかせる長い茶髪が、さらりとその白磁の腕を流れる。
薄い灰色の外套の中に白い腕が隠れると、その容貌に目が吸い寄せられる。
セトの面影を残した、ふわりとした表情。
深い威厳を秘めた、緑色の双眸。
これが本当の魔女の姿かと息を呑むのと同時に、決死の覚悟を決めた。ツアーレ帝王が招いた災難だが、事を収める義務があるだろう。
ジノヴィはただ剣をとった。他にどうすれば良いのか、わからない。
「もう、やめてください! 勝負はついたんでしょう? どうして、また、戦うんですか!」
肩で息をしているアルヴァが、間に割って入ってジノヴィに強いまなざしを向けた。
「どうして俺に言うんだ。殺気だらけのあの魔女に言え!」
「殺気なんて、ないですよ! セトさんは……魔女は悪い人じゃないって、ジノヴィさんも、もう、分かってるでしょう?!」
幼くも強い言葉が、闇のなかで、金色に輝いているようだった。
ジノヴィの胸の奥の何かが、音を立てて軋む。
――得てきた名声。喪った仲間、死んでいった友。
そしてこの両肩に頂いた、責任。
魔女が、小さな少年の真後ろにするりと近づいた。
灰色の外套の中から白い腕がのびて、やわらかく、少年の口を塞ぐ。
「面白い事を言うのね。私、良い人になった覚えは無いわよ。諸悪の根源として、まだまだ役不足かしら?」
驚いて顔をあげるより、柔らかな睡魔がアルヴァを支配するのが速かった。
ジノヴィは膝から崩れるように倒れ込んだアルヴァを受け止めて、目前に出現した魔女に、ただ目を奪われる。
「……馬鹿は嫌い。石頭も凄く嫌い。どっちもその頭をかち割って、脳味噌を洗いたくなるの。貴方も、頭の中身、一回ぶちまけてみれば、すっきりすると思う」
「――石頭はどっちだ。セトの時は自分は魔女じゃないと言い張るし、魔女なら魔女で、その立ち位置を動く気は無いんだろう? 少なくとも300年だ。お前こそ、石頭そのものじゃないか」
挑発してどうすると思いながらも、ジノヴィは必死に言葉を押し出す。
喋っていないと、なすすべも無く本当に頭を割られそうだった。
「思い通りにしたいなら、支配する時間の長さが必要なのは当然でしょ。欲しがりなのよ。アルヴァが言ってたみたいに」
「だったら、無かった事にするのか。俺達も帝王も処分して、その後に向こうの船も沈めて。ついでに今来た街も消しておくか。リースという奴も追って始末しておかないと、無かったことにはならないな。いっそリュディア王国中の魔女探しをくまなく潰して、見せしめにするか? そういう事だろう。諸悪の根源」
「キリが無いから、そういう面倒な事は、思いついた人がやってくれない?」
薄い笑みを浮かべた魔女の背中に浮いていた、黒い滑らかな羽根。それが宙にふわりとほどけて、青白い宝珠になる。
魔女はその宝珠を、レギナにポイと投げ渡した。
「『宝珠』は、自然の水龍を扱う為の叡智の鍵。使いこなせれば、貴女は帝王を越える力が使える。私はいらないから、あげる。うまく使って好きなようになさい」
呆然と手中の宝珠と魔女とを見比べたレギナに、魔女は関心を留めず、ふわりと湖上に舞い戻る。
「観客はもういらないよね」
刹那、白銀の船が、大きく爆発して湖の塵と消えた。
口をあけてただ見ているしかなかった二人に、魔女は楽しそうな笑顔を向ける。
「ふふ。偉い人も強い上司もいなくなって栄光の生還者は貴方達だけ。そして帝王が使ってた力をだんだん使えるようになるの。 ……楽しみにしているわね。この状況を、どう使うのか」
どうして、と問うレギナの声は、水音にかき消される。
闇の中に溶けるように、魔女の姿が掻き消える。
――寒風が吹き抜ける湖が、ざあ、と自然の波音を奏でた。
今までの静けさは、緊張だったのか。
違う空間にでもいたのだろうか?
「……生きてる、か……」
ジノヴィは、信じられない、という思いが強い。
「どうして私にこんな力を……? いらないって、魔女の実力どれだけ強いのよ……」
レギナは呆然と宝珠を抱いて、這うように倒れた帝王のもとにむかった。
とにかく、帝王の安否を確認する必要がある。
怪我ひとつない彼の首に触れた。手は冷え切っているから、帝国では脈をとるとき必ずこうするものだ。
熱い首筋に冷え切ったレギナの手が触れて、驚いたようにツアーレが目をあけた。
「帝王……! 無事ですか」
ジノヴィも異口同音に驚愕の声をあげた。
魔女の言から、殺されたものと思い込んでいたところがある。
しかし、ツアーレは赤い両目を大きくひらいて、ぽかんと口をひらいた。
「……帝王? ……何だそれ。お前ら、誰だ? ぼろぼろだけど、痛くないか?」