フェルトリア連邦、中央都市フェリアの中央教会。つまりここは、首都の大きな教会だ。
一般の礼拝者の拝礼時間を過ぎた教会の夜の聖堂。その夜の一刻は、聖使達の祈りの場になる。
そうして一日が終わり就寝時間になると、真夜中の聖堂はひっそりと静かな場所になる。
星の輝きを受けた中庭の緑の夜露が、うっすらと檀上の天使像を照らす。
いつもは気にならない自分の足音が大きく響く。
暗さに目が慣れて、木造の天使像の羽根ひとつひとつの影まで見えてきた。
6年前。
私がはじめて領主様についてこのフェリアに来た時、何日目かに沢山の魔物が出現した。
丁度この教会に来ていた時だった。
エラークでは随所に常設している魔除けの香木がなくて、当時の天使像を領主様が壊して香木として使ってしまった。
その後領主様が寄進したこの新しい天使像は、壊してしまった物にも劣らない、立派な作品だ。
これは皆の前で天使像を派手に破壊した領主様の、誠意だ。
私は聖女様がするように、その像の前で両膝をつく。
逆光に立つ誠意の残像を瞼に焼き付けたまま、静かに目を閉じた。
(……魔物を消す事しか出来ないけど……。もっと、イリス様の役に立ちたい)
昼間、魔物討伐から帰ってからずっとモヤモヤしていたのだけれど、改めてそう思う事で、胸の中で解けていく。温かい想いが身体の中でまっすぐな芯になって、背筋が伸びる。
――私は――
突然、ドンドンと聖堂の扉が叩かれる音が響いて、すごくびっくりした。
魔物が押し寄せてきた時も、魔物が扉を叩いていたのを思い出す。こんな夜中に訪ねてくる人がいるなんて、酔っ払いか、魔物か――。
とにかく急いで扉に駆け寄って、そっと声をかけてみる。
「――どなたですか? 教会はもう閉まっていますよ」
「よかった、人がいた。こんな時間にすみません。こちらしか頼る所が無くて――。『降魔の聖女』様が奴隷に優しいと聞いて。一晩だけで良いです。奴隷を一人、預かって頂けませんか」
誠実そうな青年の声が、扉の向こうで切実な色を滲ませた。
でも、だからといって簡単に扉を開ける訳にはいかない。一応教会が奴隷を保護するのには、ちゃんと決まった時間帯に手続きが必要になる。
「あの、昼間に担当の聖使が対応しますので……」
「無理は承知です。それでも、どうしても今俺が連れて歩く訳にはいかないんです。すみません、お願いします――!!」
扉の向こうから、真っ直ぐな声が届く。
「ち、ちょっと、頭をあげてくださいっ」
あわてて扉を開くと、身体を直角に曲げて頭を下げた青年が、ぱっと安堵の顔をあげた。
街の明かりに薄く照らされた短い黒髪が、商人の帽子の下でサラリと光る。
「本当に申し訳ないです。俺は商売でフェリアに来たんですが、途中でこの子を拾ってしまって……。仕事柄、この子を連れて宿を取る事ができなくて。彷徨った挙句、こちらに辿り着いた次第です。お礼は出しますので、どうか、預かって頂けませんか」
そういって足元に座り込んでいた小さな少女を、優しく立たせる。
その姿に、おもわず、息をのんだ。
ボサボサした伸ばしっぱなしの金髪の下で、壊れそうなほど細い手足がひょろりと伸びている。
両足に重そうな鉄球が鎖で繋がれて、服も擦り切れた布一枚といってもいいくらいだ。
「あの……この子は?」
そう聞くので、精一杯だった。
「北街道の外れで、林の中で震えていたんです。逃亡奴隷かも知れないし、主人がわざとそうしていたのかも知れないけど、とても放っておけなくて。一応、ご飯は食べてくれましたが、まだ素性はわかりません。名前はハーゼ。仕事が終わったら引き取りに来ますので。どうか、宜しくお願いします」
商人はそう言うと、少女と小金が入った麻袋を手渡してきた。
そのまま立ち去ろうとした背中に、慌ててもう一度声をかける。
「あのっ! あなたのお名前を――」
私は呼び止めて振り返った青年の顔を、必死に見つめる。
まさか預け主がわからないなんて失敗をする訳にはいかない。
「俺は、アキディス=タイド。シェリース王国とフェルトリア連邦の間の行商人です」
彼は再びペコリと頭を下げて、今度は本当に足早に立ち去ってしまった。
ぽつんと取り残されたような感じで呆然としてから、手の中の少女がじっと見上げているのに気付いた。そっと扉を閉じて、外の世界を追い出す。預かったからには、丁寧に保護しなくては。
だけど他の誰かにも相談して寝床を確保しなくちゃいけない。土の臭いがする少女の足に付けられた鉄球が、何度見ても、痛々しい。
「ハーゼちゃん。私は、ミラノっていいます。夜遅いけど、まずは簡単に身体を洗おうね。足、大丈夫?」
少女の目が、自らの足元に落ちた。
「これ。おそいけど、歩く。ここ、床、ひきずっても……?」
ハーゼのか細い声が落ちた。私はその落ち着いた様子に、少しだけ安心する。
「それはいいけど、痛いでしょ。アキディスさんは……もしかして抱っこして連れてきてくれたの?」
小さく頷くバーゼに、なんだか胸があたたかくなる。
私も――もっと、いろんなひとの役に立ちたい。
足の鉄球がぶらさがって足首を痛めないようにするには、鉄球も一緒に持ち上げる必要がある。
腕力のない私があれこれ試した結果、バーゼを背中におんぶして、後ろ手で鉄球と足を支える形になった。
「あの……あるけますから……」
「いいから、ちゃんとつかまってね」
ちょっと怪しい足取りでゆっくり浴場に移動する。
ひとりでお湯に入れるのを確認すると、誰かに相談するために宿舎へ走った。もう聖使達は床についている頃で、どの部屋も暗く閉ざされている。
セフィシスの部屋も応答がなくて、最後に聖女様の離れに向かった。そこにようやく明かりが点いているのをみて、ほっとする。
「イリス様、こんな時間にすみません。いらっしゃいますか――」
扉を叩くと人が動く気配がして、鍵が開いた。
そっと開かれた隙間から目線の高さで赤毛が覗き込んで、びっくりする。
「え? あ……」
声をあげる間もなく腕を掴まれて、サッと部屋の中に引き込まれ、素早く鍵がかけられた。
「大きな声、出さないでよね」
まっすぐな赤い髪を肩の位置で遊ばせた少女が、きりっとした目を向けた。
白いヒラヒラの寝間着は少しだけ大きいみたいで、足元でかるく引きずっている。
「――アリスちゃん。な、なんでここに?」
「アリス、妹だもん。お姉ちゃんの留守を守るのは、妹の特権なの」
ぷう、とむくれた顔を作った少女が、両手を腰に構えてみせた。
彼女がイリス様の妹なのは、勿論知っている。だけど、教会とは別の住居で暮らしている筈だ。
わざわざイリス様の留守に、ここに泊まっている意味がよくわからない。
「ミラノ、こんな夜遅くにどうしたの? お姉ちゃんに何の用?」
じと、と見つめられて、ちょっと緊張する。
このお姉ちゃん大好きっ子に睨まれたら、好敵手扱いされかねない。
「えっと、大したことじゃないんだけど、さっき奴隷の子を聖堂で預かっちゃって。誰かに相談しようと思ったんだけど皆もう寝ちゃってたから、最終的にここに来たんだけど……」
恐る恐るの説明に、やっとアリスの顔に笑顔がうかんだ。
「なーんだ。てっきりミラノが夜這いに来たのかと思った」
「そ、そんな事しませんっ」
あはは、と笑ったアリスは、すぐに自分で自分の口を塞いで、窓の外に視線を泳がせる。
「とにかく、お姉ちゃんは留守なの。多分、セフィ姉とジェストも一緒。奴隷の子は、今夜はミラノの所にでも泊めてあげてよ」
――イリス様が言ってた、奴隷制を廃止させるための活動。
咄嗟に、それが思い浮かんできた。
ジェストが一緒なのは当然だけど、セフィシスも出掛けているとは思わなかった。寝静まってたんじゃなくて、留守だったんだ。ずっと規則通りの就寝についていたから、今まで全然気づかなかった。
当たり前の顔でアリスがここにいるのも、珍しくない習慣なのかも知れない。
「……イリス様は、どこに出掛けてるんですか?」
そっと、訊いてみる。
なんとなく教えてくれないだろうと思っていたから、サッと地図が出てきて、びっくりした。
「ミラノが訊いたら教えて良いって。ミラノも、お姉ちゃんの味方なんだよね。絶対絶対、お姉ちゃんの事、助けてよね」
ぎゅっと地図を握らされ、部屋を追い出された。
地図の場所へ行くのは良いとして、取り敢えず浴場に置いてきたハーゼを迎えに、もときた廊下を戻る。途中で部屋にまわって、めぼしい服を調達するのも忘れない。
「ごめんね、お待たせ――」
急いだ勢いのまま扉を開くと、小動物のようにビクッと身体を震わせたハーゼが、怯えた目をあげる。
ボサボサの髪はしっとり落ち着いて、纏わりついていた土の臭いもきれいに落ちていた。そのかわり、日焼けた肌のそこらじゅうに、沢山の痣と傷跡があるのを見付けて、胸が痛くなる。
林の中で震えていた、という事からしても、酷い扱いを受けていたのだという事実を、くっきりと現実に突き付けられた気がしてこっちが泣きそうになるのを、いそいで彼女の髪を拭いてあげて、ごまかす。
「とりあえず今日は私の所でゆっくり眠ってね。ちょっと私、出掛けなきゃいけないんだけど、大人しくしていられるかな?」
されるがままのハーゼが、小さく頷く。新しい服に腕を通してあげれば、足に鉄球が繋がっている部分以外は、ひょろりと痩せた普通の子供みたいになった。
また彼女を背中にのせてフラフラと宿舎の廊下を歩いて、ようやく部屋に辿り着いた頃には、どっぷり夜も更けた。
ハーゼも、眠かったんだろう。寝台に座らせるなり、ぱたりと寝入ってしまった。
――よし、行かなきゃ。
目も頭も、すっきり冴えてる。改めて地図を明りのもとで眺めてみると、いつもアリスが昼間働いている大衆食堂だった。その裏に倉庫がある。合言葉を使って食堂を通過すると、そこが拠点らしい。
さっと目立たない私服に着替えて外套を羽織る。
私ははじめて、夜の街へ飛び出した。