馬車の車輪がゴロゴロする響きが、ガタンと止まった。イリス様ととめどないお喋りをしているうちに、いつの間にか目的地に着いてしまったみたいだ。
もう少しだけ喋っていたかったけれど、私は馭者の手を借りてトンと外に出る。
馬車を降りたところで、いつも物静かな退魔師のジェストが聖女様の到着を出迎えた。
「ご足労ありがとうございます。ここから入ってすぐの所です。場所をおさえて、一般人が近づかないよう手配しておきました」
用件だけを淡々と口にしたジェットはイリス様が頷いたのを確認して、足早に先頭を切って歩き始めた。このジェストは、イリス様の側近みたいなものだ。いつも言葉数は少ないけれど、イリス様とは疎通の要領を得ているように見える。
私はそういう二人のあとに続いて、林の中に入っていく。
枯れ枝を踏みながら分け入った緑の中、焼け跡のある空地に出た。左右には小さな畑があったようだけれどすっかり荒れていて、作物は見る影もない。
その奥の一角kに、鎖を鳴らして暴れる赤黒い獣がいた。
暴れる度に全身から黒い飛沫が広く飛んで、地面を焦がす。
畑に備え付けられた獣獲りの罠に引っかかった状態なのだろう。確かに、これは近付いて止めを刺そうという一般人はいないはず。一応矢を射掛けてはみたようだが、致命傷をつくる事は出来なかった様子だ。
「なるほど……これは、セフィシスを連れて来た方が良かったかもな」
そう呟いた高い背中に、私はそっと声をかける。
「折角連れてきて頂いたんですから、私もちゃんと使って下さい。誰もいないんですから」
「そうだな……任せた。ミラノ。無理はするんじゃないぞ」
私は頷いたイリス様に笑顔をみせて、前に出る。飛沫が飛んできていなさそうな、ギリギリ近くまで、大きな犬くらいの魔物に近付く。
そこまで行くと、魔物の方も私を睨み付けて低い唸り声を響かせた。
(わかるよ。その瞳のない瞳の奥に、あなたのほんとうの命があったことを――)
右手をまっすぐに向けて掌を広げる。
魔物がいきなり暴れれば飛沫がかかるかもしれないけれど、睨み合っているうちは、大丈夫。
(――あなたの姿は、そうじゃない。もう一度、真実の形をとる、その時まで――)
『――消えて――!!』
言葉と共に、さあっと魔物の姿が白く染まっていく。
睨んでいた目を細めて、石化したように硬くなった一瞬後。ぱぁん、と虹色の輝きになって、砕け散った。
ほっと安心した途端、木々の中から拍手が響いて、心臓が飛び出すかと思った。
「いやぁ、素晴らしいものを見せて貰いました」
軽い口調の心地良い声の主が、がさ、と林の中から出てきて、目を瞠った。見られた、っていうより……その容姿に、ちょっと、びっくりしてしまう。
なんて綺麗な男性なんだろう。
後頭部の高い位置でキリッと結い上げ、背中までサラリと流れる茶髪。びっくりするほど綺麗な顔立ちの青年が柔らかな瞳をこちらに向けている。だけど、身に着けているのは、くすんだ土色の奴隷服だ。
そのあまりに格差のある姿に、どう反応していいのかわからない。
そんなふうに一瞬硬直してしまった私の背後から、思いがけない大きな声があがった。
「――ユリウス! お前、お前っ……何で、ここに――」
ひっくり返りかけたイリス様の声。バッと彼に駆け寄り、奴隷服の肩を掴んだ。
「やだなぁ。そんなに俺が恋しかったんですか? イリス。まぁ、今の君の姿なら、大歓迎しちゃいますけど――」
「ふざけんな、馬鹿がっ……今まで、6年も。……心配したんだぞ」
そういって茶化した調子の綺麗な青年は、仕方なさそうな笑顔をみせて、涙の滲んだイリス様の頭をポンと撫でた。え、撫でた?ちょっと待って、この二人は一体どういう関係なんだろう?
「イリス様、その人は――?」
私の疑問を代弁するかのように、ジェストが冷静な声をあげた。
よかった、疑問に思ったのは私だけじゃないよね。奴隷服の男性にからかわれて撫でられる聖女様……というのは、常識的に考えてもなかなか無い光景だと思う。
「やぁ、君がジェスト君だね。イリスの右腕。有能は聞き及んでいますよ」
綺麗な男性はそういって、ジェストの肩を気軽に叩いた。ジェストがぽかんと首を傾げるのも当然だ。
それから彼はごく当然のように私に近付いて、片膝をついた。
優しげで綺麗な顔が、じっと覗き込んでくる。……なんで?
「はじめまして。私は、ユリウス=ハーシェルといいます。歳は21。仕事は奴隷。宜しくお願いしますね。ミラノちゃん」
そっと手を取られて片目を閉じた紳士的な姿に、一瞬、視界がまばゆく輝いた気がした。
「えぇっ? あ、あの……」
一体、これは、どういうことなのだろう?
というかこんな時どうするのが正解なのか分からなくて、私はどっと焦ってしまった。イリス様がユリウスの肩を引いて割り込んできてくれたおかげで、私は一旦、この変な状況から解放された。
「ちょっと待てよ、ユリウス、さてはこの魔物退治を仕込んだのは、お前だな」
「おやおや。私は何も知らない通りすがりの貴族奴隷ですよ。 勘繰り過ぎですよ~?」
「通りすがりというには、よく調べがついてるんじゃないか。大体、なんでここにいる。奴隷の姿でこんな所をうろついて、脱走じゃないだろうな」
ユリウスの軽い調子に忘れかけていたけれど、彼は格好も自称もはっきりと奴隷だ。
逃亡は重罪だというのを思い出して、少しだけ、緊張する。
「ふふ……心配してくれるんですね。相変わらずだなぁ。大丈夫ですよ。今日から私の主人は、フェリア教会の真の聖女様ですからね。ちゃんと移籍の手続きも済みましたよ。教会受け取りは明日になっていますけど」
さらりと喋った内容についていけないイリス様を尻目に、ユリウスが私をみて、ニッコリと笑う。
「つまり、今日から私は、君の奴隷という事ですよ」
そんなふざけたような軽い言葉に反して、気品のある空気が溢れる。
一瞬ぽかんとした隙に、またイリス様が割って入った。
「おい、ミラノに手を出すなよ。大事な協力者なんだからな」
――協力者。
真剣なイリス様の言葉が、ぽつんと胸に残った。
「あの、おふたりは、どういうお知り合いなんですか? 全然、繋がらないんですけど……」
黙ってはいるけれど、さっきから傍でずっと黙っているジェストの気持ちも代弁して、踏み込んでみる。
「ほら、降魔の聖女様って奴隷に色々優しい施しをしているじゃないですか。私、憧れなんですよねー」
「白々しい世辞はやめろ」
身分を越えた恋人とか言われたらどうしようかと思いながら、イリス様が一呼吸おいたのを見守る。
「こいつは――俺の、共犯者だ」
「……では、何か動きがあるという事ですか」
ジェストが、刺すような目でユリウスを見た。
……。”共犯者”の一言で事情を呑み込んだジェストと違って、私にはどういう事なのかさっぱりわからない。もうちょっとわかるように、誰か、説明して……。
「流石ジェスト君。ご明察です。……政界の裏側で、準備が整いつつあります。人事院づきの私が教会に移籍になったのは、教会を見張る為です。まぁそう仕向けたのは私ですけどね。まったく、信用を得るのは大変でしたよ」
いきなり展開した難しそうな話に、私はひたすらぽかんとするしかない。
「待て、準備って……何が起きているんだ? 俺は結局、奴隷のために、何も出来ていない」
「いえいえ、イリスは頑張っていますよ。聖女が奴隷に施しを続ける事で、民衆も悪感情を抱かなくなってきた。これは重要な事です。6年前の虐殺事件も、前の聖女が仕組んだ、奴隷への同情を招く為の布石だったと言えるでしょう。それに、あなたが裏で作ってきた組織も、間接的ながら政界の権威の均衡に刺激をもたらしている。……勝手ながら、それを色々と利用させて頂きました。本当はもっと時間がかかりそうだったんですけど、いい風が吹いてきましたよ。……イリス。その魔法が解けるのも、そう遠くない筈です」
ポン、とユリウスの拳がイリス様の豊かな胸元を叩いた。
普通に考えれば失礼すぎるその行動に、イリス様は怒るでもなく、静かにその手を掴む。
「――俺は、何をすれば良い?」
「そのために、私が来たんですよ。取り敢えず……美味しいご飯を、期待していますね!」
帰り道。すっかり暗くなってしまった窓の外を眺めながら、一言も喋らないイリス様とジェストの真剣な空気が、息苦しい。
ゴトゴト揺れる馬車の音だけが、大きく響く。
(……イリス様には、複雑な事情があるんだ)
6年前、大勢の奴隷が亡くなった事件は、私も覚えている。
街中に魔物が出て、はじめてこの手で魔物を消したあの時。行政地区で橋が落ちて、そこに集まっていた大勢の奴隷が犠牲になった。
『降魔の聖女』は、その時突然現れた女剣士だった。
偶然私が大量の魔物を消した時、惨状の中で事態を収束させたイリス様が、それをやったのだと思われていて、そのイリス様が聖女に就任すると、私はそのまま傍にいることになった。
『降魔の聖女』その称号の正体の半分は、私なのだ。
だから、協力者っていうのは当たり前の呼ばれ方だ。――でも、それ以上の秘密があったなんて、知らなかった。
「……イリス様が、いつも奴隷達の為の施しをしているのは、あの事件で沢山の奴隷が亡くなったからだと思ってました。でも、もっと何かあるんですね? 教えて下さい。何をしようとしているんですか? ――私に、お手伝い出来る事は、ありませんか?」
じりじり悩むのが、もどかしい。
馬車はすぐにでも教会に帰り着いてしまう。聞けるのは今しかない。
街の中に入ったのか、ゴトゴトする音が少しだけ小さくなる。
「……黙っていて、済まない」
ぽつんと呟いたその言葉に、どきりとした。
「君には、エラーク地方……セルウィリア=オークリスとの繋がりがあるから、伏せていた。奴隷を労働力にしている南方にとっては、敵みたいなもんだ。奴隷制を廃止させようっていうんだからな」
「わ、私、領主様に密告なんてしませんっ」
おもわず声が大きくなって、顔をあげたジェストと目が合う。
領主様と親しくするのと、秘密を守るのとは違う、っていうのが、胸の中で迸る。
「……この6年で、貴女がそういう人だというのは、わかっています。イリス様は、貴女を危険な事に巻き込みたくなかっただけです」
ジェストの口から淡々と長文が出てきたのに、びっくりした。
いつも人に興味無さそうにしているのに、どこで見てたんだろう。
「ユリウスは6年前の事件の頃からの仲間だ。当時の聖女が主導して議場を制圧して、制度を変える筈だった。……だけど、俺はその直前に聖女に封じられて、目が醒めたら女になってるし、計画は失敗してるし、こんな魔法をかけた聖女はいなくなった。――時間がかかっても、必ず、奴隷制を廃止させる。きっと、俺にかけられたこの魔法は、それで解けると思っている。あの聖女のやる事だからな。それに、あの時死んでいった奴の為にも……決して、投げ出す訳にはいかない」
そういうイリス様の真っ直ぐな強い瞳が、夜の街並みを見つめていた。
馬車の車輪がゴロゴロする響きが、ガタンと止まった。イリス様ととめどないお喋りをしているうちに、いつの間にか目的地に着いてしまったみたいだ。
もう少しだけ喋っていたかったけれど、私は馭者の手を借りてトンと外に出る。
馬車を降りたところで、いつも物静かな退魔師のジェストが聖女様の到着を出迎えた。
「ご足労ありがとうございます。ここから入ってすぐの所です。場所をおさえて、一般人が近づかないよう手配しておきました」
用件だけを淡々と口にしたジェットはイリス様が頷いたのを確認して、足早に先頭を切って歩き始めた。このジェストは、イリス様の側近みたいなものだ。いつも言葉数は少ないけれど、イリス様とは疎通の要領を得ているように見える。
私はそういう二人のあとに続いて、林の中に入っていく。
枯れ枝を踏みながら分け入った緑の中、焼け跡のある空地に出た。左右には小さな畑があったようだけれどすっかり荒れていて、作物は見る影もない。
その奥の一角kに、鎖を鳴らして暴れる赤黒い獣がいた。
暴れる度に全身から黒い飛沫が広く飛んで、地面を焦がす。
畑に備え付けられた獣獲りの罠に引っかかった状態なのだろう。確かに、これは近付いて止めを刺そうという一般人はいないはず。一応矢を射掛けてはみたようだが、致命傷をつくる事は出来なかった様子だ。
「なるほど……これは、セフィシスを連れて来た方が良かったかもな」
そう呟いた高い背中に、私はそっと声をかける。
「折角連れてきて頂いたんですから、私もちゃんと使って下さい。誰もいないんですから」
「そうだな……任せた。ミラノ。無理はするんじゃないぞ」
私は頷いたイリス様に笑顔をみせて、前に出る。飛沫が飛んできていなさそうな、ギリギリ近くまで、大きな犬くらいの魔物に近付く。
そこまで行くと、魔物の方も私を睨み付けて低い唸り声を響かせた。
(わかるよ。その瞳のない瞳の奥に、あなたのほんとうの命があったことを――)
右手をまっすぐに向けて掌を広げる。
魔物がいきなり暴れれば飛沫がかかるかもしれないけれど、睨み合っているうちは、大丈夫。
(――あなたの姿は、そうじゃない。もう一度、真実の形をとる、その時まで――)
『――消えて――!!』
言葉と共に、さあっと魔物の姿が白く染まっていく。
睨んでいた目を細めて、石化したように硬くなった一瞬後。ぱぁん、と虹色の輝きになって、砕け散った。
ほっと安心した途端、木々の中から拍手が響いて、心臓が飛び出すかと思った。
「いやぁ、素晴らしいものを見せて貰いました」
軽い口調の心地良い声の主が、がさ、と林の中から出てきて、目を瞠った。見られた、っていうより……その容姿に、ちょっと、びっくりしてしまう。
なんて綺麗な男性なんだろう。
後頭部の高い位置でキリッと結い上げ、背中までサラリと流れる茶髪。びっくりするほど綺麗な顔立ちの青年が柔らかな瞳をこちらに向けている。だけど、身に着けているのは、くすんだ土色の奴隷服だ。
そのあまりに格差のある姿に、どう反応していいのかわからない。
そんなふうに一瞬硬直してしまった私の背後から、思いがけない大きな声があがった。
「――ユリウス! お前、お前っ……何で、ここに――」
ひっくり返りかけたイリス様の声。バッと彼に駆け寄り、奴隷服の肩を掴んだ。
「やだなぁ。そんなに俺が恋しかったんですか? イリス。まぁ、今の君の姿なら、大歓迎しちゃいますけど――」
「ふざけんな、馬鹿がっ……今まで、6年も。……心配したんだぞ」
そういって茶化した調子の綺麗な青年は、仕方なさそうな笑顔をみせて、涙の滲んだイリス様の頭をポンと撫でた。え、撫でた?ちょっと待って、この二人は一体どういう関係なんだろう?
「イリス様、その人は――?」
私の疑問を代弁するかのように、ジェストが冷静な声をあげた。
よかった、疑問に思ったのは私だけじゃないよね。奴隷服の男性にからかわれて撫でられる聖女様……というのは、常識的に考えてもなかなか無い光景だと思う。
「やぁ、君がジェスト君だね。イリスの右腕。有能は聞き及んでいますよ」
綺麗な男性はそういって、ジェストの肩を気軽に叩いた。ジェストがぽかんと首を傾げるのも当然だ。
それから彼はごく当然のように私に近付いて、片膝をついた。
優しげで綺麗な顔が、じっと覗き込んでくる。……なんで?
「はじめまして。私は、ユリウス=ハーシェルといいます。歳は21。仕事は奴隷。宜しくお願いしますね。ミラノちゃん」
そっと手を取られて片目を閉じた紳士的な姿に、一瞬、視界がまばゆく輝いた気がした。
「えぇっ? あ、あの……」
一体、これは、どういうことなのだろう?
というかこんな時どうするのが正解なのか分からなくて、私はどっと焦ってしまった。イリス様がユリウスの肩を引いて割り込んできてくれたおかげで、私は一旦、この変な状況から解放された。
「ちょっと待てよ、ユリウス、さてはこの魔物退治を仕込んだのは、お前だな」
「おやおや。私は何も知らない通りすがりの貴族奴隷ですよ。 勘繰り過ぎですよ~?」
「通りすがりというには、よく調べがついてるんじゃないか。大体、なんでここにいる。奴隷の姿でこんな所をうろついて、脱走じゃないだろうな」
ユリウスの軽い調子に忘れかけていたけれど、彼は格好も自称もはっきりと奴隷だ。
逃亡は重罪だというのを思い出して、少しだけ、緊張する。
「ふふ……心配してくれるんですね。相変わらずだなぁ。大丈夫ですよ。今日から私の主人は、フェリア教会の真の聖女様ですからね。ちゃんと移籍の手続きも済みましたよ。教会受け取りは明日になっていますけど」
さらりと喋った内容についていけないイリス様を尻目に、ユリウスが私をみて、ニッコリと笑う。
「つまり、今日から私は、君の奴隷という事ですよ」
そんなふざけたような軽い言葉に反して、気品のある空気が溢れる。
一瞬ぽかんとした隙に、またイリス様が割って入った。
「おい、ミラノに手を出すなよ。大事な協力者なんだからな」
――協力者。
真剣なイリス様の言葉が、ぽつんと胸に残った。
「あの、おふたりは、どういうお知り合いなんですか? 全然、繋がらないんですけど……」
黙ってはいるけれど、さっきから傍でずっと黙っているジェストの気持ちも代弁して、踏み込んでみる。
「ほら、降魔の聖女様って奴隷に色々優しい施しをしているじゃないですか。私、憧れなんですよねー」
「白々しい世辞はやめろ」
身分を越えた恋人とか言われたらどうしようかと思いながら、イリス様が一呼吸おいたのを見守る。
「こいつは――俺の、共犯者だ」
「……では、何か動きがあるという事ですか」
ジェストが、刺すような目でユリウスを見た。
……。”共犯者”の一言で事情を呑み込んだジェストと違って、私にはどういう事なのかさっぱりわからない。もうちょっとわかるように、誰か、説明して……。
「流石ジェスト君。ご明察です。……政界の裏側で、準備が整いつつあります。人事院づきの私が教会に移籍になったのは、教会を見張る為です。まぁそう仕向けたのは私ですけどね。まったく、信用を得るのは大変でしたよ」
いきなり展開した難しそうな話に、私はひたすらぽかんとするしかない。
「待て、準備って……何が起きているんだ? 俺は結局、奴隷のために、何も出来ていない」
「いえいえ、イリスは頑張っていますよ。聖女が奴隷に施しを続ける事で、民衆も悪感情を抱かなくなってきた。これは重要な事です。6年前の虐殺事件も、前の聖女が仕組んだ、奴隷への同情を招く為の布石だったと言えるでしょう。それに、あなたが裏で作ってきた組織も、間接的ながら政界の権威の均衡に刺激をもたらしている。……勝手ながら、それを色々と利用させて頂きました。本当はもっと時間がかかりそうだったんですけど、いい風が吹いてきましたよ。……イリス。その魔法が解けるのも、そう遠くない筈です」
ポン、とユリウスの拳がイリス様の豊かな胸元を叩いた。
普通に考えれば失礼すぎるその行動に、イリス様は怒るでもなく、静かにその手を掴む。
「――俺は、何をすれば良い?」
「そのために、私が来たんですよ。取り敢えず……美味しいご飯を、期待していますね!」
帰り道。すっかり暗くなってしまった窓の外を眺めながら、一言も喋らないイリス様とジェストの真剣な空気が、息苦しい。
ゴトゴト揺れる馬車の音だけが、大きく響く。
(……イリス様には、複雑な事情があるんだ)
6年前、大勢の奴隷が亡くなった事件は、私も覚えている。
街中に魔物が出て、はじめてこの手で魔物を消したあの時。行政地区で橋が落ちて、そこに集まっていた大勢の奴隷が犠牲になった。
『降魔の聖女』は、その時突然現れた女剣士だった。
偶然私が大量の魔物を消した時、惨状の中で事態を収束させたイリス様が、それをやったのだと思われていて、そのイリス様が聖女に就任すると、私はそのまま傍にいることになった。
『降魔の聖女』その称号の正体の半分は、私なのだ。
だから、協力者っていうのは当たり前の呼ばれ方だ。――でも、それ以上の秘密があったなんて、知らなかった。
「……イリス様が、いつも奴隷達の為の施しをしているのは、あの事件で沢山の奴隷が亡くなったからだと思ってました。でも、もっと何かあるんですね? 教えて下さい。何をしようとしているんですか? ――私に、お手伝い出来る事は、ありませんか?」
じりじり悩むのが、もどかしい。
馬車はすぐにでも教会に帰り着いてしまう。聞けるのは今しかない。
街の中に入ったのか、ゴトゴトする音が少しだけ小さくなる。
「……黙っていて、済まない」
ぽつんと呟いたその言葉に、どきりとした。
「君には、エラーク地方……セルウィリア=オークリスとの繋がりがあるから、伏せていた。奴隷を労働力にしている南方にとっては、敵みたいなもんだ。奴隷制を廃止させようっていうんだからな」
「わ、私、領主様に密告なんてしませんっ」
おもわず声が大きくなって、顔をあげたジェストと目が合う。
領主様と親しくするのと、秘密を守るのとは違う、っていうのが、胸の中で迸る。
「……この6年で、貴女がそういう人だというのは、わかっています。イリス様は、貴女を危険な事に巻き込みたくなかっただけです」
ジェストの口から淡々と長文が出てきたのに、びっくりした。
いつも人に興味無さそうにしているのに、どこで見てたんだろう。
「ユリウスは6年前の事件の頃からの仲間だ。当時の聖女が主導して議場を制圧して、制度を変える筈だった。……だけど、俺はその直前に聖女に封じられて、目が醒めたら女になってるし、計画は失敗してるし、こんな魔法をかけた聖女はいなくなった。――時間がかかっても、必ず、奴隷制を廃止させる。きっと、俺にかけられたこの魔法は、それで解けると思っている。あの聖女のやる事だからな。それに、あの時死んでいった奴の為にも……決して、投げ出す訳にはいかない」
そういうイリス様の真っ直ぐな強い瞳が、夜の街並みを見つめていた。