「……おはよ」
誰もいないリビングで機械的に挨拶をする。
当然誰もいないので返事はない。僕は特に気にすることなく歩き、テーブルの上に置いてある料理に視線をやった。
半透明のラップみたいなフィルムがかぶせられた皿の上にはフレンチトーストがある。
さらにその傍にはフォークと小さなメモが置かれていて、メモには綺麗な字で伝言が書かれていた。
『冷蔵庫に坊っちゃんが好きなベリースムージーもありますよ。飲んでください』
メモを心の中で読んで、はぁっと息を吐く。
「坊っちゃんって言うなよな……」
呟きながら冷蔵庫を開ける。いつも使っている蓋つきのタンブラーを見つけて取り出し、開けて中身を確認する。
メモにあったとおりベリースムージーだ。食卓につくことなく、立ったままそれを飲んで、フレンチトーストにかぶせられていたフィルムをはがす。
ベーコンとチーズが乗ったフレンチトースト、幼いころからよく作ってもらっているそれを無心で食べる。
僕には、
彼女は僕にとって母親のようでもあり、姉のようでもあり、頼りになる女性だ。そもそも『あの父』の秘書を長年勤めているというのだから、それだけですごい。まぁ僕のことを「坊っちゃん」と呼んでくるのは恥ずかしいので嫌なのだが。
母親がいないわけではない。確か僕が小学校に上がる前だっただろうか、離婚したらしい――らしい、というのは僕自身詳しい事情を分かっていないからだ。両親が本当はどういう仲だったのか知らなかったし、離婚後も生活環境が変化することはなかったから、父に対して執拗に追及するということをしなかった。
いや、もしかしたら、できなかったのかもしれない。
幼い子供ながらに、両親がどうして離婚してしまったのか、なんとなく、肌感覚で分かっていた。あまり追及しないほうがいいと思っていた。
「……ぼちぼち準備するか」
あっという間に朝食を片付け、キッチンのシンクに皿とタンブラーを置く。食器を水に浸けて、口元をすすぎ、そのまま自室への階段を上る。
2階に上がってドアを開け、トロトロと服を脱ぐ。クローゼットを開けて着替えを取り出してベッドへと放り投げた。
「やっと見慣れてきたな……」
アンダーシャツとパンツを穿いて、ベッドの上に広がる制服を見下ろす。
去年学校見学に行った是善高校の制服。学ランだった中学とは違い、高校はブレザーだ。入学してまだ1ヶ月ちょっとくらいしか経っていないがようやく慣れてきた。
シャツを着て、ズボンを穿き、ネクタイを結ぶ。不本意ながら、昔っから父にパーティーやらセレモニーやら色々と連れ回されたので、ネクタイの結び方は自然に憶えてしまった。たいした自慢にはならないけど。
アイロンをかけてもらった黒のブレザーを着て、通学用のリュックを背負う。
机の上にある時計を見る。この時間ならゆっくりでも十分間に合うだろう。
スマホを手に取って部屋を出る。階段をおりながらなんとなしにスマホを見ようとしたところで――スルッと手から滑り落ちた。
「あっ」
画面が下を向いたまま1階のリビングへと落ちていく。ヤバい、そう思うよりも前に僕は右手を出す。
スマホが床にぶつかる寸前で、動きが停まった。いや、正確にはゆっくりと限りなく遅くなった。
輪郭がブレるように小刻みに動くスマホ。僕は安堵の息を吐き、階段をおりてスマホを拾い上げる。
僕が触れるとスマホのブレはなくなり、元の挙動を取り戻す。
ひとまずブレザーのポケットにしまい、玄関に向かう。
僕は超能力を持っている。
対象の動きを限りなく遅くさせる未知の力。生まれたときから持っていたのか、物心ついたときから使えた。
でもそれだけだ。この力を知っているのは僕だけ。父にも母にも、秘書の相浦さんも知らない。中学の頃の友達も、高校からの友人も知らない。
教えるつもりもない。だってそんなことをしたら今の平穏な日常が変わってしまうから。
水瀬柚臣は誰にも侵されない平穏な日常を望む。そのためにこの超能力については、なるべく知られるわけにはいかないのだ。
使うとしたら多分、自分か誰かを助けるときくらい。