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1-7

 小ホールの窓際で僕は1人掛けのソファに座りながら食後のコーヒーを飲む。

 騒がしかったメインホールとは違いここは静かだ。窓からはバルコニー席があり、そこでは2組くらいのカップルが柵の近くで街の夜景を眺めている。

「こんなところにいたのか。柚臣」

 僕もバルコニー越しに外の景色を眺めていると、父が現れた。ネクタイを緩めてリラックスした様子で、同じくコーヒーカップを持っていた。

「これ飲んだら帰るよ。明日も学校あるし」

「そうか、相浦くんを呼ぶか?」

「いや、いいよ。1人で帰れる」

 淡々とした返事に父は特に気にすることなく「そうか」と言って対面のソファに座る。

 おそらくさっきまで喧噪の只中にいたのだろう。落ち着いた静かな雰囲気を求めてこっちに来たのかもしれない。

 それとも、中々会わない息子とコミュニケーションでもとりにきたのか。

「柚臣、お前市道さんの娘さんと知り合いらしいな」

 にやにやしながら父が身を乗り出して訊いてきた。

 そういう話か。珍しく父の方からこっちへ来たと思ったらまさか息子を揶揄うためだったとは。本当に、良くできた父だ。

 答えを急かすようにこちらを覗き込む父に対して、僕はゆっくりとした動作でコーヒーをズズッと啜り、またゆっくりとソーサーへ戻す。

「知り合いじゃないよ。一緒の学校ではあるみたいだけど」

「なんだそうなのか。相浦くんが言ってた話とは違うな」

「なんて言ったんだよ……まぁ大体想像つくけど」

「でも綺麗な子じゃないか。明るくて美人だし。私もいいと思う」

「なにがいいと思うだよ。別にそういうのじゃないって」

「まぁまぁ、照れるな照れるな。私もお前くらいの歳の頃には本当に好きな女性とは中々面と向かって喋ることもできなくてな。秘めたる恋の通い路の――」

 したり顔で父が語る。適当に返事をしながら話を受け流し、コーヒーを飲む。

 こうなったらもう長い。父は昔っから僕の恋愛事とか、男女の話とかに飢えていて、少しでもそういうことを匂わせると嬉々としてアドバイスをしてくるのだ。

 まぁ今回は匂わせとかそういうものじゃなくて完全に勘違いなのだが。

「本当に知らない人だよ。僕が知ってるのは名前くらい。なのに向こうはやたらと絡んでくる」

 ベラベラと喋り倒す父をどうにか止めるため、僕は仕方なく話題を少し逸らした。

 とはいえ、話を止めた理由はそれだけじゃない。父は女性の扱いが上手い。それは自他ともに認めるもので、不本意ながらこの人に相談すれば市道紫帆のあしらい方も分かると思ったんだ。

 話の腰を途中で折るような僕の言葉に、父は乗り出していた体を戻し、ゆったりと背もたれに寄りかかる。

「なんだ、じゃあ娘さんの方から今アプローチを受けてるのか?」

「そんなちゃんとしたものじゃないけど、まぁ、大体そんな感じかな。マジで突然なんだよ。いきなりだし」

「どこかでなにか善いことをしたのかもな。そこを偶然見ていたとか。しかしにしてもあんな美人から迫られるなんて男冥利につきるな。さすがは私の息子だ」

「いや、そんないいもんじゃないっていうか――」

 言っている途中でガシャンッとなにかが落ちて割れるような音が聴こえてきた。

 そしてほとんど同じタイミングで聴こえてくる誰かの悲鳴。それも1人ではなく、複数人の悲鳴だ。

 なにかあったのだろうか。ぼんやりと悲鳴が聴こえてきたバルコニーへ視線をやると、従業員が血相を変えて勝手口から駆け込んできた。

 尋常じゃない様子に父も気付いたのだろう。スッと席を立ち、慌てて駆け込んできた従業員へ歩み寄る。

「どうしたんだ。なにがあった?」

「あっ、あぁ、水瀬さん。水瀬さん大変です。今外に、とっ、とにかく来てください」

 従業員の男性に従い、父がバルコニーへ出ていく。

 一体どうしたのだろう。僕もなんとなく気になって、父の後を追って外に出る。

 喧噪が聴こえるほうへとバルコニーを歩く。小ホールに面した場所から角を曲がったところで、人だかりができていた。

「近寄るな! 近寄るなお前ら!」

 怒号が聴こえ、騒ぎの中心が見えてくる。

 くたびれたスーツを着た男と、彼に捕まっている少女。そして彼らから距離をあけてたくさんの人が半円で囲むように立ち並んでいた。

 一目見ただけでは、男がなにかパフォーマンスをしていて、周りの人たちがそれを見物しているようにも見える。

 ただ、事態はそんな平和なものではない。男はバルコニーの端っこ、安全のための鉄柵を超えた場所に立っている。左手は落ちないよう鉄柵を掴んでいて、右手は少女の首に回し、持っている銀食器のテーブルナイフを首筋に当てていた。

 その捕まっている少女というのが、市道紫帆だった。恐怖で顔を強張らせながらこっちを見ている。

「一体何事だ?」

 父が近くにいた従業員に訊ねる。ステンレス製のお盆を持って固まっていた女性従業員は話しかけてきたのが父だと分かると、ハッとして身を寄せて囁いた。

「私も詳しくは分かんないんですけど、会場に現れて暴れだしたんです。警備が取り押さえようとしたら営業部の部長のお孫さんを人質にしてここまできて」

「部長のお孫さんを? だがあそこにいるのは」

「はい、あの子はお孫さんの代わりに人質になるって言って自分から捕まって……」

 どうなってるんだ。なんでこんなことが起きてる。しかも市道紫帆が自分から人質にだなんて、どうしてそんなことを――困惑しながらも僕は父を見る。同時に、くたびれたスーツを着た男もこちらを見た気がした。

「水瀬誠治! お前のせいだぞ! お前のせいで俺は!」

 男が声を張り上げる。気のせいではなかったらしい。

 突然名前を呼ばれ、父は少し驚いた顔をしたが、すぐにキリッとして人の波をかき分けて騒ぎの中心へと向かう。

 父の知り合いなのだろうか。こういうときは大抵女性がらみなのだが、あのスーツの男の剣幕を見るに、どうにも違う気がする。

「君は、元営業二課の苅田君だろう。一体どうしたんだ」

 少しも慌てることなく、父は冷静に呼びかける。

 だが、そんな父の対応が不服だったのか、苅田と呼ばれた男はますます顔を怒りで歪め、憎悪の念を飛ばしてきた。

「どうしただと!? お前達のせいで俺は職を失ったんだ! い、い、いいきなりリストラされたんだぞ!」

 苅田のリストラという言葉に父は眉根を寄せる。

 周囲の人達もざわつき、騒ぎがどんどん大きくなっていく。

「確かに、つい最近人員整理があった。だがそれで解雇された従業員はいない。部署の異動や出向がほとんどだ」

「嘘を吐くな! 現に俺は解雇されたんだぞ!」

「君が解雇されたのは別の理由だ」

「じゃあなんでだ! 俺はどうして解雇された!」

「それについてはもちろん私が説明しよう。ただ、ここでするのは聊か場所が悪い。それと、君の腕の中にいる彼女は無関係だ。こちらへ渡してくれるかな」

 スッと父が手を差し伸べる。苅田は一瞬だけ逡巡したが、またすぐに目を吊り上げてグイっとテーブルナイフを市道紫帆の喉に当てた。

「ふざけるな! 俺をお前が抱いてきた女とは違う! 篭絡しようとするな!」

「そんなつもりはない。なんなら私がそちらに行こう。だから彼女を放すんだ」

 言いながら、父が両腕を広げて掌を見せながら苅田へと近づく。

 ゆっくり、一歩ずつ近づき、距離を詰める。

「お、おい、なにしてる。近づくな」

「そうはいかない。君とは面と向かって話をする必要があるからな」

 かなりの距離まで近づき、父が手を差し出す。

 あまりにも無防備な接近にみんなが息を呑む。あのナイフですぐにでも父の手を切れる、そんな距離だ。

「頼む、君と話をしたいんだ。彼女を放してくれ」

 父の言葉に苅田は視線を右往左往させる。ハァ、ハァ、と荒い呼吸をして、やがて――市道紫帆の首に当てていたステーキナイフをそっと離した。

「ありがとう、さぁ、私の手を掴んでくれ。それで、話をしよう。誰か、彼女をこっちへ連れてきてあげてくれ」

 手を差し出したままの状態で父が歩み寄る。同時に顔だけ振り向いて助けを求める。

 しかし、市道紫帆を助けようと出てくる人はいなかった。みんな怖いのだろう。巻き込まれ、危ない目に遭いたくないのだろう。

 そもそも、なぜ彼女は自分から人質になったのだろうか。いくら最初に捕まっていたのが小さな女の子だったとはいえ、あまりにも無謀すぎる。

 無鉄砲な振る舞いだ。自分の命が惜しくないのか。

「誰か、早く彼女を!」

 ゴクッと生唾を飲み込み、僕は人の波をかき分けて前へ出た。

 市道紫帆と目が合う。顔を真っ青にして震えていて、僕は何も言わず頷く。

「柚臣っ! 待てっ! お前は――」

「うわあぁあぁっっっ!」

 父が僕を止めようとしたところで、苅田が叫んだ。

 さっきまで冷静だった父が目に見えて慌てたのが良くなかったのか。なにかが奴を刺激してしまったようで、ナイフを持ったまま柵に飛び上がり、襲い掛かってくる。

 それだけじゃない。柵を越えようとした勢いで市道紫帆の身体を押し出し、彼女がバランスを崩す。

 襲い掛かってくる苅田と今にも落ちようとしている市道紫帆。父を助けようとすれば市道紫帆を見捨てることになる。市道紫帆を助けようとすれば、父を――

「誠治さん!」

 意識の外側から相浦さんの声が聴こえた。

 僕はハッとして鉄柵を掴んで右手を突き出す。

 落ちようとしていた市道紫帆の身体がゆっくりと遅くなる。大丈夫だ。まだ縁に足がかかってるし、ここからなら僕の身体が壁になって周りからは彼女がどうなっているのか分からない。

 すぐさま鉄柵を飛び越えて、市道紫帆へ手を差し出す。

 限りなく遅くなった世界で、彼女は僕を見て、口を動かした。

 だが、なにもかもが遅いこの世界では、なにを言っているのか分からない。僕は左手で柵を掴んで踏ん張り、右手で彼女の手を掴む――その瞬間、市道紫帆に流れる時間が元に戻る。

 一気に重みが伝わってくる。それでも僕はどうにか踏ん張って、そして彼女も縁に足をかけたまま僕の右手を掴む。

「柚臣!」

 父が名前を呼び、踏ん張っていた僕の二の腕を掴む。

 振り向くと既に苅田は倒れていて、秘書の相浦さんが押さえ込んでいた。

 あっちも無事に済んだらしい。ホッとして前を向き、駆けつけた人達の助けをもらいながら市道紫帆を引き上げる。

 そうして、先に彼女を柵の内側へと運ぶ。これまでどこにいたのか、彼女の父親らしき人が駆けつけて娘を抱きしめた。

「柚臣、お前も戻るんだ。ほら」

 家族の抱擁を見ていると、父が腕を差し出してきた。掴まれということだろう。

「大丈夫だよ、1人で戻れる」

 父の助けを丁重に断り、鉄柵を飛び越える。ふぅっと一息つくと、さっきまで父親にハグされて泣いていた市道紫帆が振り返った。

 瞳を潤ませて僕を見てくる。なんて声をかけようか悩んでいると、父に背中を押される。

 なんだよ急に。バッと振り向くと父は不敵な笑みを浮かべていた。

「ちょっと父さん――」

「柚臣くん!」

 文句を言おうとしたところで、誰かが僕を呼んだ。

 いや、呼ばれただけじゃない。なにかが僕に触れた。温かくて柔らかくて、いい匂いがする。

 おそるおそる前を向くと、そこにはやっぱり市道紫帆がいた。瞳に涙を浮かべながらも、彼女は笑っていて、ぴったりとくっついた状態で僕を見上げていた。

 なんて綺麗な顔だろう。見るものすべてを魅了する笑顔に僕は自分の耳が赤くなっていることを自覚する。

 このままじゃまずい。理性的なアレがどうにかなってしまいそうだ。

「あ、あの。僕は」

「やっぱり、柚臣くんは私のヒーローだよ! 私の運命のヒーロー」

 運命の、という言葉を理解するよりも前に、視界が急に狭くなった。

 映りこむのは市道紫帆の顔。白くて柔らかい肌に、鼻に、閉じた目。ふるふると小刻みに動く長いまつげ。

 首に彼女の腕がある。腕を交差するように回されて、つまり、抱き着かれている。

 いや、それよりも。それよりもだ。そんなことよりもなにか温かいものが触れていた。

 身体に、じゃない。唇だ。視界いっぱいに市道紫帆の顔があって、唇には柔らかい感触があって――キスをされている。

 唇を押し付けるような感じとはまた違う。啄むような口づけに、僕は慌てて顔を離す。

 驚いて市道紫帆を見ると、彼女は頬をほのかに赤くして、おでこを突き合わせてきた。

「助けてくれてありがとう。好きだよ」

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