ひったくり犯の黒マスクの男は、近くのビルの配管にネクタイで縛っておいた。
匿名の通報もしている。すぐに捕まるだろう。
「……なにやってんだ僕は」
自分の行動を振り返り、思わずぼやいてしまう。いくらあのとき、そういう空気だったとはいえ、ひったくり犯を追いかけて、捕まえて、さすがにヒートアップし過ぎだ。
あのとき、市道紫帆が追ってくれと僕に叫んだときから、僕はどこかおかしかった。身体が熱くなって、気づいた時には駆け出していた。
今思うと違和感しかない。これまでの僕だったら、きっと関わらないようにしていたはずだ。
それなのに、ひったくり犯を追いかけたのはきっと――
「柚臣くん」
駅のホームで電車が来るのを待っていると市道紫帆の声が聴こえてきた。
振り向くとそこにはやっぱり彼女がいて、なんだか嬉しそうに笑みを浮かべている。
パタパタと僕に近づいてきて、手を後ろで組みながら覗き込んでくる。僕は寄りかかっていた柱から身体を離し、市道紫帆と向き合う。
「さっきのひったくり犯、捕まったみたい」
「それは良かった。僕じゃ追いつけなかったからね」
「そう? でも、犯人はビルの配管に是善高校のネクタイで縛られてたみたいだよ?」
「それはまた、ひったくり犯を捕まえたやつを特定するのは大変そうだ。是善高校の生徒数はここら辺で一番だし」
わざとらしくとぼける僕に対して、市道紫帆がジッと僕の首元を見てくる。
ネクタイがないシャツ。第2ボタンまで外れていて、アンダーウェアが少しだけ見えていた。
「あのぉ、すみません」
2人で駅のホームに立っていると、不意に、声をかけられた。聴いたことがない女性の声だ。
市道紫帆の位置からは声をかけてきた人が見えるようで、大きな目をますます大きくして驚いていた。
彼女の知り合いなのだろうか。スッと振り向くとそこにいたのは小柄な年配の女性だった。僕の知り合いじゃない。知り合いじゃないけど、どこか見覚えのある人で――
「柚臣くん、さっきの」
市道紫帆が僕に近づき、ぼそっと話す。年配の女性の不安そうな表情を見て、僕はようやく彼女のことを思い出した。
「あっ、さっきのひったくりに遭った」
「おかげさまでバッグは戻ってきました。本当に、ありがとうございます」
深々と頭を下げる年配の女性。まいった、わざわざ探しに来るなんて、思ってもいなった。なんて律儀な人だ。
ていうか、僕が取り返したって思ってる。いやまぁ、実際そうなんだけど、でもここで素直に認めたら絶対面倒なことに巻き込まれてしまう。ここはしらばっくれるしかない。
「いや、そんな。やめてください。僕はなにもしてないです」
「え? でもあのひったくりを追いかけて」
「追いかけただけです。恥ずかしながら、途中で見失っちゃいました。だから、そのバッグも、僕が取り返したわけじゃないんです」
僕の言い訳に対し、年配の女性はポカンと口を開ける。
そりゃ混乱するだろう。自分を助けてくれた人が無関係だと言い張っているのだから。
「あ、あの。でもひったくり犯はネクタイで縛られていて、それがその、高校のネクタイだったって聞いたんですけど……その制服は……」
「……あー、それは」
年配の女性の視線が僕の首元、ネクタイのないシャツへ注がれる。しまった。その情報も聞いていたのか。いやまぁ、この人は被害者なんだから聞いていてもおかしくないかもしれないが、それにしたって捜査情報をそんなぺらぺら話していいのか。
さてどうやって切り抜けよう。顎を掻きながら言葉を濁していると、くいくいっと、ブレザーの裾を後ろから引っ張られる感覚がした。
後ろにいるのは市道紫帆だ。なんだと思って顔を向けると、彼女はスマホを持ったまま僕に話しかけてくる。
「柚臣くん。ネクタイ、お母さんに訊いたらやっぱり紫帆の家にあったみたい。この前来たとき忘れていったんじゃない?」
前にいる年配の女性へ聴こえるように、スマホを見ながらはっきりとした口調で喋る市道紫帆。僕は内心ホッとしながらも、冷静な表情で言葉を返す。
「あぁ、やっぱそうだったんだ。悪い、今度持って帰るよ」
言った後、チラッと年配女性へ視線をやる。やはりまだ困惑しているようだったが、やがて、僕を見上げてぺこっとまた頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとうございます。今はなんのお礼もできませんが、いつかは……」
頭を下げたままそう言って、年配の女性は去って行った。
最後まで僕がひったくり犯を捕まえた人間だと勘違いしていたのか、それとも、色々と察したうえでもう一度お礼を言ってくれたのか。
本当の理由は確認しない。する必要はない。だってあのとき僕が動いたのは僕の意思じゃなかったから。
追いかけてと、市道紫帆に言われ、僕はそれに従っただけだ。むしろ僕は、あの女性を見捨てようとしていた。関わらずにやり過ごそうと、傍観者でいようと決めていた。
だけど、市道紫帆は違った。真っ先に動いたのは彼女だったんだ。
だから、お礼を言われるべきなのは僕じゃない。
「あーあ、あのときすぐに追いかけて、動画撮っておけば良かったなぁ」
2人になったところで、市道紫帆が呟く。
つまらなさそうに唇を尖らせる彼女を見て、僕は呆れて首を軽く横に振った。
「撮ってどうするんだよ。SNSにあげるの?」
「上げないよ。ただ、こう、活躍シーンを撮ってさ……柚臣くん、左手、どうしたの?」
喋っている途中で彼女が大きな目を見開いて回り込んでくる。
左手がどうしたのだろう。手のひらを見て、ひっくり返して手の甲を見る。少しだけ血が出ていた。
「あぁ、多分追ってるときどこかぶつけたんじゃないかな。どっかで擦ったか」
「血ぃ出てるよ。消毒しなきゃ」
顔を青くして市道紫帆が離れていく。どこへ行くのだろうかと思っていたらすぐに戻ってきて、手に持っていたタオルを傷口に当てる。
濡れたタオルはしっとりと冷たくて、滲み出た血が拭われると傷口が綺麗になっていく。
「あとはこれを巻いて……」
バッグからポーチを取り出し、さらにその中からハンカチを取り出す。手の甲にそっとあてられて、くるくると巻かれて手首のところで結ばれる。
「いやあの、ここまでしなくても。削れただけだし」
「ダメです。ちゃんと処置しないと」
はい、と付け加え、手を離す市道紫帆。処置を終えた僕の左手を見て安堵の息を吐く。
シンプルなデザインの空色のハンカチ。ムラなく綺麗に巻かれて結ばれたそれを僕も同じように見つめる。
ここまで流れるようにスムーズな処置をしてくれるとは、正直意外だった。
別段彼女のことを侮っていたわけではないが、そういうことをやるような人には見えなかったのだ。
「ちっちゃい頃からよくやってたの。だからもう慣れちゃった」
僕の表情を見て察したのか、市道紫帆がえへへと笑う。
どこか懐かしさを含んでいるような気がするその笑みに、僕ははぁっと勢いよく溜息を吐いた。
「傷の手当をしてくれたことは、ありがたいけど。でも、君は他人の心配より自分の心配をした方がいいと思う」
責めるような僕の口調に、彼女はぽかんとしてこちらを見上げる。
本当に分かっていないのか、分かっているのに、分かっていないふりをしているだけなのか。
まぁ、どっちにしても同じことだ。
「こっちに突っ込んでくるひったくり犯の前に立ちふさがるなんて、危険すぎるよ。もしかしたら相手はなにか武器を持ってたかもしれないし、そもそも、相手の方が君よりも体格がいいんだから、あんな無理をして。いや、ていうか無茶だ。無謀とも言える」
2人で観覧車に乗ったとき、彼女は「自分に特別な力なんてない」と言っていた。
それなのに、あの場で咄嗟に動いてひったくり犯を止めようとしたのは、市道紫帆だった。彼女だけがなんの躊躇いもなく、動いたんだ。
「確かに無茶だったし、無謀だったかも」
一通り、僕の話を聞いて、市道紫帆が口を開く。
まっすぐ、射貫くような視線を向けて、意志を表明した。
「でも、私が知ってるヒーローなら、きっとあそこで動いてた」
「……君はヒーローじゃない」
「分かってる。でも、気づいたら動いてたの」
ヒリつくような強いまなざしと確かな気持ちが込められたその言葉に、僕はなにも言い返すことができなくなる。
ヒーローと同じことをしようとしたり、僕をヒーローにさせようとしたり――と思ったら、純粋に僕と仲良くなろうとしてきたり、彼女のことを知れば知るほど、よく分からなくなってくる。本当は、なにを求めているのだろう。
市道紫帆の大きな瞳には困惑する僕の顔がぼんやりと映っていた。