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2ー11

「坊っちゃん、こちらはアイロンがけいたしましょうか?」

 休日の昼下がりだった。自室にこもって本棚を整理していると、部屋の外から秘書の相浦風莉さんの声が聴こえてきた。

 なんの話だろうか。立ち上がってドアを開けると、そこにはいつものスーツ姿ではなく、カジュアルなファッションに身を包んだ彼女がいて、ヒラヒラと空色のハンカチを揺らしている。

 市道紫帆が巻いてくれたハンカチだ。後で洗おうと思ってたのにいつの間にか回収されていたらしい。

「坊っちゃんはやめてって……いいよ。自分でやる。借り物なんだ。だから――」

 自分でやるよと言いながら手を伸ばしたところで、サッと相浦さんが手を引く。

 ハンカチが遠のき、僕はぴくっと眉尻をあげる。

「あの、相浦さん?」

「借り物、なんですよね? それじゃあなおのこときちんと綺麗にして返さなきゃいけませんよ。それに、このハンカチ。私の気のせいだったらいいんですけど、血がついてたみたいですけど?」

 相浦さんからの圧に思わず視線を逸らす。

 あぁもう、こうなるから自分でどうにかしたかったのに。

 相浦さんは父の秘書ではあるが、同時に幼いころから僕の面倒を見てくれていた世話係でもある。

 そこには上司の息子と父の秘書以上の関係性があって、言ってみれば僕の母親代わりでもあるのだ。まぁ母親代わりというのは僕が勝手に思っているだけで本人は望んじゃないのだろうが。

 とにかく彼女は僕が危険なことをしたり、ケガをするようなことをするのを極端に嫌う。

 大人が子供を心配するのは当たり前。というのが相浦さんの言だが、それにしたってちょっと過保護なんじゃないかと思うくらいには干渉してくるのだ。

「別に、ケガしたとかそういうのじゃないよ。少しぶつけただけ。血がついてるって言っても少しだったでしょ。だから何の問題もないって」

「どこでぶつけたんですか?」

「憶えてないよ。大したことじゃなかったし、気づいたのも言われてからだったし」

「どこで、だれと、なにをしてできたケガなんですか?」

 笑っていない笑みを浮かべながら、相浦さんが迫ってくる。

 こうなったらもう彼女は下がってくれないだろう。しかし、こっちとしても本当のことを言うわけにはいかない。

 ひったくり犯を追っかけて、途中の横断歩道で車に轢かれかけたり、歩道橋から飛び降りてトラックに飛び乗り、バンに飛び移り、そこから向こう側へと回ったり、超能力を使ってひったくり犯を追い詰めたり――なんてことを言えば彼女はきっと卒倒してしまう。

「……友達と遊んでるときに、どっかにひっかけたんだ。そのときのケガだと思う」

 悩んだ末のアンサーに、相浦さんは張り付けたような笑顔を維持したまま僕を見る。

 大丈夫だ、嘘はついてない。実際ケガしたのは市道紫帆といるときだったし、どこで擦ったとかマジで憶えてないし。

「そのお友達っていうのは? 危ない人だったりしますか?」

 矛先が変わった。まぁそうなるのは当然だ。面倒を見てやってる上司の息子がケガをさせるような悪い連中と遊んでいるなんて、そんなの、許容できないだろう。

 こうなったら言わなきゃいけない。しかしこれを言ったら話がさらにややこしくなるというか、別の意味でめんどくさくなるというか。

 チラッと相浦さんを見て、僕はフッと短く息を吐いた。

「……市道紫帆だよ。この前のパーティーで、あの……知り合った……」

 大事なとこをぼやかした返事だったが、相浦さんはそれを聞いて目を丸くしたあと、フフンッと意地悪な笑みを浮かべた。くそっ、だから言いたくなかったんだ。

「なぁんだ、そうだったんですか。坊っちゃんのハンカチじゃないから勘繰っちゃいました。もうっ、それならそうと早く言ってくださいよ」

「坊っちゃんって言うな。ていうか、もういいでしょ。ケガしたのだって、本当に偶然なんだよ」

「んーまぁそこはちょっと気になりますけど、まぁ今回は良しとします。きっとカノジョを庇って負った傷なんですね」

「……まぁそんなとこ」

 全然違うけど、もうめんどくさいので同意する。これ以上話を長引かせたくない。

「なるほど、そうでしたか。まぁ公衆の面前でキスをするような関係ですから。デートなんて珍しくもないですね」

「わざわざ言わないでおいたのになんでそこに言及するんだ。いっとくけど、付き合ってるわけじゃないから」

「またまた、あのキスは身体だけの関係って感じじゃなかったですよ」

「言及するなって言っただろ。あと多感な時期の十代に身体だけの関係なんて言葉使うな」

 だっはぁーっと盛大なため意を吐く。相浦さんはくすくすと愉しそうに笑うだけだ。

 さっきまで僕がなにか良くないことに巻き込まれているんじゃないのだろうかと本気で心配してくれていた人とは思えない。

 にしても、いくら僕のじゃないハンカチに血がついてたからってここまで色々勘繰るなんて――

「相浦さん、どうして僕のハンカチじゃないって思ったの?」

 ふと浮かんできた違和感をどうにか言葉にする。いや、微妙に違う。本当に訊きたいのはこういうことじゃない。こういうことじゃないけど、でも、この筋道で合ってるはず。

「どうしてって、坊っちゃんの持ち物くらい把握してますよ。すぐに気づきました」

 突然の質問に相浦さんは特に動揺することもなく答える。違う、そういうことじゃない。幼い頃から面倒を見てくれてたのだから、把握されていることくらい僕だって分かってる。

「そりゃそうなんだろうけど、それ、市道紫帆から借りたものなんだ。どうして、彼女のものだって思わなかったの?」

「……えっと? どういうことですか?」

「だから、そのハンカチを見れば、女性のものだって」

「これは男物のデザインですよ。男性向けブランドの刺繍が入ってます」

 くすっと笑う相浦さん。僕がなにか勘違いしていると勘違いしたのか、彼女はサッとその場でハンカチをたたみ、「アイロン、かけておきますね」とだけ言って去って行った。

 自室のドアを開けたまま、僕は立ち尽くす。

 違和感の輪郭が浮かび上がる。なぜ市道紫帆は男物のハンカチを持っていたのか。

 バッグとか財布とか普通に女性モノのデザインなのに、ハンカチだけ違った。

 父親から借りたものだろうか。いや、ハンカチだけなんて考えづらい。

 なにか理由があるのだろうか。些細な疑問かもしれないけれど、一度引っかかるとどうにも気になってしまう。

『分かってる。でも、気づいたら動いてたの』

 昨日の市道紫帆の言葉を思い出す。特殊な力もないのに、ヒーローのように、ひったくり犯に立ち向かった彼女。ただ憧れている人とは思えないほどに、勇敢だった。

 あのときの市道紫帆のまなざしが脳裏に浮かぶ。

 確固たる意志が込められた瞳。もしかしたら、彼女はただヒーローとヒロインの関係に憧れるだけの女の子じゃないのかもしれない。

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